第51話 天罰

 紅国こうこく皇子ネイトは、人形のような白く細い手をヒルマに槍を刺した兵士達に向けて追い払うようにしっしっと振った。兵士達はそれを受けて速やかに部屋から退出していき、扉が重い音を立ててしまった。


 ネイトはその手を今度はユサに伸ばしてきた。色素の薄い彫刻の様な体温を感じさせない顔に浮かぶ優しげな笑顔をユサに惜しげもなく見せつけるが、ユサは知っている。この笑顔の薄っぺらさを。この皮膚の下には温かい血など流れていないことを。


 ユサの頬を伝う温かい涙。これはユサ自身の為に流している涙だろうか、それともヒルマの為の涙だろうか。


 ユサの横で背中に槍を突き刺されて倒れているヒルマ。貫かれているヒルマは痛くなくても、ユサが痛いのだ。それでもユサに大丈夫だ、前へ進めと後押しが出来るヒルマの気持ちが痛かった。本当は今すぐヒルマから槍を引っこ抜いてこの場から立ち去りたかった。ヒルマだって無理にヒルマの欠けたものを集めなくていいと言っていた。


 だからこれは全てユサの為だ。ユサの過去との決別の為のお芝居だった。



 ユサは他人の為に泣けることが出来るようになったのだろうか。これがヒルマの為の涙なのかは分からなかった。



「ユサ、可哀想に。こんなに泣いて」


 薄っぺらい笑顔のままネイトがユサの頭に手を伸ばし、ユサの身体を引き寄せた。ヒルマよりは低い背。ユサのおでこがネイトの肩についた。いつもの香の香りがユサの身体を硬直させる。


 強張ったユサに気付いたのだろう、ネイトが頭を撫でながら聞いてきた。


「どうしたユサ? ユサはどうして僕が近づくといつも動かなくなるのかな?」


 クスクスと笑う声が頭の上から聞こえてきた。ヒルマよりは高い声。冷や汗がじんわりと滲み出る。ユサの心は恐怖に支配されつつあった。動け、動かないと指輪は手に入らない。奥歯を噛み締め自分に言い聞かせる。いつまでヒルマを床に縛り付けてるつもりだ。


 息を深く吸った。手のひらを固く握った。出来る。ヒルマが横にいる今なら出来る。


「お前は……いつもそうだった」

「そうだったって、何が?」


 拳を握ったままネイトの柔らかいサラサラの生地の服に触れる。胸を両手で押し、空間を作った。首に見えるのは、ネックレスのチェーン。アキが言っていたのはこれのことだろう。


 ユサの視線に気付いたのか、ネイトがネックレスを服の中から取り出し始めた。


「これが気になる? これ、僕が君にあげた指輪だよ。ユサ置いていっちゃうんだもの。びっくりしたよ」


 服の中から取り出された水色の宝石がついた指輪から、あの光が放たれていた。ユサの目にしか映らない光。やはりこれだった。あった。何とか奪い取りたい。奥歯を食いしばり続けながらネイトを見上げた。動きづらいが、身体は動いた。声も無理矢理絞り出す。


「……持っていく暇なんてなかった」

「ふふ、まさかアキを刺すなんて思ってもいなかったよ。僕がユサを試したことに怒ったの? 可愛いんだから」

「試してたことなんて、知らなかった」


 本当に知らなかった。ただアキがユサを裏切っただけだと思っていた。今日までずっと。


 ネイトがネックレスのチェーンを指輪から外し、チェーンをそのまま床に落とした。ユサの左手を握るとゆっくりと拳を開かせる。ネイトの指は、傷ひとつない冷たい指だった。


「この手が血まみれになったんだね。さぞかし綺麗だったろう。僕も見たかった」

「……相変わらず悪趣味だな」


 ネイトがユサの指に指輪をはめていく。前はぴったりだったそれは、今は緩かった。


「ユサの方が悪趣味だ。こんな変な男と夫婦だなんて言っていきなり連れてきて。僕への意趣返しのつもり? 焼きもちを妬かせたかったの?」


 指輪がはまったユサの手を持ち上げて口づけをする。こいつとは会話が成り立たない。いつもいつも自分の信じたい通りに物事を進めるのだ。相手の上に自分がいて当たり前だと思っている。こいつの上にいるのは皇帝だけだと思っている。誰も自分には逆らわない、そう思い込んで生きてきた馬鹿な男なのだ。


 ユサは手を引っ込めようとした。だがネイトが離さない。


「離せ。さっき言っただろ。お前にちゃんとお別れを言いに来ただけだ」


 ネイトが手を痛い程きつく握りながら、声を出して笑い始めた。狂った様な楽しそうな声だった。


「あはは、何言ってるのユサ。その男はもう死んだだろ? ごっこ遊びはもうおしまいだ。僕はもうお前を離さないよ」


 そう言うと、ユサの頬をパン! と平手で打った。顔を近付けてにやりと笑う。


「今夜はゆっくりとお仕置きだ。その死んだ男の前でお前を久々に楽しませてやる」


 本当に悪趣味だった。ユサは血混じりのつばをネイトの上等な服に向けてぺっと吐いた。ネイトの瞳が怒りに染まる。恐怖に負けそうになるが、もう負けられなかった。じんじんする頬の痛みを堪えて力の限り叫ぶ。


「死んでも御免だ!」


 必死で考える。指輪が手に入れば後はこっちのものだ。そうだ、手は空いていなくても足は空いている。蟻塚の底辺で鍛えた足技。ヒルマと最初に会った時に決めた大技があるじゃないか。


 ユサはネイトの股間に向かって渾身の膝蹴りを叩き込んだ!


「があっ!」


 ネイトがユサの手を離し、身体がふたつに折れた。そのまま床で悶絶し始めた。もしかしたら潰れたかもしれないが、ざまあみろだ。


「皇子!」


 アキが慌てて駆け寄ろうとする。その足首を死んだふりをしていたヒルマがガッと掴むと、アキが床に顔面から倒れ込んだ。そこそこ大きなゴン! という音がした。余裕のなくなったアキの声。


「なっお前死んでるんじゃっ」


 アキが鼻血を出しながらヒルマに掴まれた足を引っ張るが抜けない。


「なっなっ離せっ何なんだお前!」


 上ずるアキの声は余裕が全くなくなっていた。こんな情けないのに昔惚れてた時期があったのか、そう思うとユサはげんなりした。男を見る目はやはり大事だ。


 ユサは急いでヒルマに駆け寄った。槍を両手で掴む。


「抜くぞ!」

「思い切りよろしく」

「任せろ!」


 ユサは渾身の力で槍を引っ張った。気持ちの悪い感触が手に伝わってくるが、まあ肉もないし血もない。あるのは黒いドロドロだけだ。大丈夫大丈夫。


 ずる、と少しずつ槍が移動し始めた。だが最後が引っかかっているのか抜けない。


「悪いヒルマ」

「なに」


 ガン、と背中を踏みつけた。もう一度力いっぱい引っ張ると、黒い液体を振り撒きながら槍がスポンと抜けた。槍はそのまま後ろに飛んで行ってガランガラン、といい音を立てた。


「よし!」

「踏んだよね今」

「先に謝っただろ」


 ヒルマが手に持っていたアキの足首にいつの間にか縄を巻いていた。これと盗みだけは本当に器用だ。経験の差かもしれなかった。次いでアキの手首もササッと縛った。早い早い。


 ヒルマは縛り終わると立ち上がり、両手両足をぐるぐる巻きにされ鼻血だらけになったアキと、泡を吹いて半ば気絶している風のネイトを冷めた目で見た。ネイトの腰回りは濡れていた。もしかしたら失禁しているのかもしれなかった。


「ろくな人間じゃないなあ」


 至極当然の意見を述べた。ユサも同じ様な冷めた目で転がっているふたりを見た。また追われたら溜まったものではない。何かしらかせとなる物を打ち込んでおきたかった。ユサは考える。そして思いついた。こいつらは権力に弱い。


「アキ、そこの半分死んでる奴に言っとけ」


 アキが恐怖に引きつった顔をしてユサを見返した。ユサがヒルマの背中の服をまくる。


「ユサ、いきなりは恥ずかしいじゃないか」

「うるせえ」


 ヒルマを回転させアキに見せる。傷ひとつない身体を。


「お前が敵に回そうとしたのは人智を超えた存在だ」


 アキの顔が更に恐怖に引きつった。そうそう、思い込めばいい。ユサは内心ほくそ笑むが顔には出さない。


「俺はそいつの花嫁に選ばれた。その俺に手を出してみろ。お前らにこの先はなくなるぞ」


 アキに背を向けたままのヒルマの口が今にも笑い出しそうに歪んでいる。アキから見えないようにヒルマの腕を小さくペチンと叩いた。


「にしても、何でお前またユサを裏切ろうとしたんだ?」


 ヒルマが服を直しながら振り返り一歩アキに近付くと、アキの顔面が蒼白になって後ろに逃げようと芋虫の様に這いずったが進まない。


「なあおい」


 ヒルマが上から踏みつけた。珍しくヒルマが凄んでいる。


「俺のユサに何するつもりだったんだ」


 まだお前のじゃねえ、と思ったがまあ黙っておくことにした。アキの返答は気になる。ここではっきりさせておき、もう二度とこいつのことは思い出したくなかった。


 アキの唇が震えながら、言葉を紡ぎ出した。


「ユ、ユサが戻ってくれば次期皇帝の妃だった……! それがもしかしたら私の子を生んだら、そしてそれが将来皇帝になったら楽しいじゃないか……! そう思ったんだ! 出来心だったんだっ」

「救いようのない馬鹿な動機だな。――ユサ、こいつのも潰しとくか?」


 ヒルマがにへらとユサに笑いかけてきた。結論は出ているが、ユサは少し考えるふりをした。


「次の女にまた同じことされたら嫌だもんな。だけどこれは俺の過去との決別だ。俺がやる」

「そう? それでもいいけど」


 ユサはアキに近付いていった。アキの顔が心からの恐怖で蒼白になった。すると、身体がガクガクと震えてそのままカク、と気を失ってしまった。股間からジワジワと液体が染み出し始める。

 ユサは顔をしかめた。


「汚いからやめた」

「はは、優しいんだから」

「さ、行こうヒルマ。悪いけど疲れた。抱えて連れてってくれ」


 ユサのその提案に、ヒルマが心底嬉しそうに笑った。


「仰せのままに、俺の花嫁さん」

「なった覚えはねえよ」

「はは」


 ヒルマはまた笑うと、ユサを優しく抱き上げた。

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