第46話 過去の人

 午後の作業が始まった。


 2階で残っていた作業を終わらせ3階へと向かう。用具を持って階段を登っていると、メイがニヤニヤと話しかけてきた。


「私見ちゃった」

「何のことだ?」

「もう旦那さん滅茶苦茶ユサのこと愛してるのね! 何あれ、口を指でぬぐってその指舐めるとか、もう私ドキドキしちゃった!」


 そこそこしっかり見られていたらしい。ユサの顔が若干引きつる。


「は、はは、あいつすぐああいうことするから」

「いいなあー格好よくて背も高くてしかも優しくて! 私も見つけるならああいう旦那さんがいい!」


 あいつ盗賊だぞ、という言葉が喉まで出かかったが何とか留めた。しかも不老不死の呪われた身体でそもそも旦那でも何でもない。


 がしかし、そんなことを言える訳もなく、ユサには笑うしか選択肢は残されていなかった。


「あはは……」

「ねえ、旦那さんとはどこで」

「メイ! ユサ! お喋りしてる位なら走っておいで!」


 ミラの思わぬ助け舟にユサは内心ほっとした。メイに笑いかける。


「行こうメイ。仕事だ」


 メイがきゅんとした表情で言った。


「やだ、ユサったら男前」

「は、はは」


 メイは悪い人間ではなさそうだが、正直ユサは苦手になりつつあった。人付き合いとは難しい。心の中で小さく溜息をついた。







 窓から見える空が段々と赤みを帯びてきている。


 ユサは体力はなくともそれなりに器用である。少なくとも阿呆のヒルマよりは。お陰で力を入れるところと抜いてもいいところを早い段階で判別出来た。


 午後は午前の遅れを取り戻すかの様にどんどんと上の階へと登っていき、なんと目標の5階を超え6階まできた。


「なかなかやるわねユサ」


 少しくたびれた様子のメイが言った。


「なあメイ、この階は何があるんだ?」

「ユサ私の話聞いてた? まあいいや。6階は殆どが書庫よ。過去の帳簿なんかがあるらしいわよ」

「この上の階は?」

「上は軍部に、偉い人達の居住階、海外からの来賓の宿泊施設とかね」

「ふうん」


 ユサは少々驚いていた。光はこの階を指し示している。だが。


 もうひとつ上にあるのだ。


 まさかふたつもあるとは思わなかった。ヒルマはふたつもあることを知っていたのだろうか? 特に何も言ってなかったが。


 今日は素直に給金を受け取りヒルマと早く打ち合わせをしたかった。


 あの光はソワソワしてしまう。早く手に入れたかった。


「ふたり共頑張ったわね。そろそろ鐘も鳴る頃だし、少し早いけど終わりにしましょうか」


 ミラが疲れた様子も見せずに言った。本当にベテランなのだろう。何かひとつを極めるというのは凄いことなんだな、とユサは純粋に感嘆した。


「ミラ、私お手洗い行きたかったの! 先に戻ってる!」

「ふふ、分かりましたよ。さあユサ戻りましょ」

「ああ。……あ! バケツ忘れてた」


 先程水場に置き、後で洗おうと思ったので汚れた水が入れっぱなしになっていた。


「ミラ、俺バケツ片付けるよ。ミラは先に行ってて」


 大分慣れたとはいえ、初日で不慣れの上力もなくミラにはかなり迷惑をかけた。少しでも助けになれればと思った。


 広い通路を見る。他の階よりも歩いている人間が少なかった。書庫の階だからかもしれない。これが軍部のある階なら話はまた違っただろうが、この階ならまあ問題ないだろう。ヒルマにひとりになるなとは言われていたが、バケツを片付ける位のほんの僅かな間だ。


「あら、じゃあユサにお願いするわね。私は先に行って用具を片付けてくるわ。戻ったら控室で待機だからね」

「ああ」


 ミラがよっこいしょと用具を持つのを見て、ユサも水場に駆け足で向かった。どの階もとにかく広い。急がないと本当に鐘が鳴ってしまいそうだった。


 水場にはバケツが先程置いておいた状態であった。こぼさぬ様中の黒い水を流し、蛇口を捻りバケツの底に溜まった泥を何度か洗って綺麗にし、水場の足元にある空間にバケツを片付けた。ついでに石鹸で手をゴシゴシと洗って終了だ。今日はよく働いた。


 手の水をぱっと振って払い振り向いた。


「うわ!」


 すぐ目の前にいつの間にか人がいた。一歩下がって顔を見ようとしたが、頭と腰をガッと掴まれ抱きすくめられてしまった。


「ちょ、あの」


 服装を見る限り従業員ではない。グレーの質の良さそうな生地のスーツを着た男で、蹴り飛ばしていいものか悩む。下手なことをして明日働けなくなるのは困るのだ。


 精一杯抜け出そうと抵抗するが、ユサの非力さでは無理だった。


 後悔した。ヒルマがあんなに心配して言ってたのに、これはちょっとだからと思って油断したユサが招いたミスだ。


「ちょっと、離してくれ!」


 足を踏む位ならいいか、そう思った矢先。


「ユサ、何でこんな所にいるんですか?」


 男が喋った。ユサの心臓が一瞬止まった気がした。聞き覚えのある声だった。


 男の手の力が少し緩まる。


「え……?」


 ユサは信じられない気持ちでゆっくりと相手の顔を見上げた。嘘だろう、夢に違いない。こいつがここにいる筈がなかった。


 糸目の男がユサを見下ろしていた。ヒルマよりは大分背が低いので顔が近い。


 糸目の奥に見える薄茶の瞳。スッとした鼻梁、薄い唇、少し明るい茶色い髪を後ろに撫で付けたこの髪型。


「アキ……何で」

「それは私の台詞ですよユサ」


 この喋り方。ユサにもいつも敬語で、距離感が掴めなかった奴。時折分かりづらい優しさを見せられた時、それがどんなにユサの心を救ったことか。



 あの日までは。


「お前化けて出て来たのか? 俺を恨んでるのか?」

「何言ってるんですユサ。それに『俺』だなんて口の利き方」

「何言ってるってだって、アキ死んだじゃないか……! 俺が刺して殺したのに、何で」


 アキと呼ばれた糸目の男が薄く呆れた様に笑った。


「ユサ、私は生きてますよ」

「え」


 だって、あんなに血だらけになって、ユサの足元で動かなくなって。


 アキがユサの後頭部を優しく撫でる。ヒルマの熱い手とは違う、このヒンヤリとした手、指。


 本物だった。


 カランカラン、と鐘の音が響く。


「あの時は痛みで気絶してしまった様ですが、幸い内臓は無事だった様で割とすぐ仕事にも復帰しましたよ」

「き……気絶?」

「だから化けて出てなんかいません」


 ユサは殺してなかったのか。ユサは人殺しになってなかったのだ。ジワジワと嬉しい気持ちが起き上がる。だが。


「アキ、お前が死んでなかったのは分かった。だけどお前は裏切り者だ、俺はお前に謝る気も許す気もな……」


 だから離せ。そう続けるつもりだったが。


「……!」


 アキの口がユサの口を塞いだ。頭を押さえつけられて逃げられない。胸を拳で押して逃げようとするが力負けする。


 何で、何で裏切り者のこいつがこんなことをする。ユサは暴れる。苦しい。息も苦しく、胸も苦しかった。


 この男は過去だ。もう戻れない過去なのだ。


 ガブ、とアキの下唇を噛んだ。


「つ……!」


 アキがぱっと顔を上げた。唇から血が少量流れていた。ユサの口の中にも広がる鉄の味。


 吐き出したかった。


 アキは懲りもせずまたユサをきつく抱き締めた。ユサはいい加減頭にきていた。


「お前もう離せよ! いい加減にしろ!」

「違うんですユサ、違うんです!」

「何が違うんだよ!」


 ユサは目一杯抵抗する。こいつなら金的も有効だろう。何としてでも離れたかった。過去は過去だ、今にはもう必要ない。


「順序が逆なんです!」


 アキが声を張り上げた。


「貴女に近付いたのは皇子の命令があったからなんです! 貴女の気持ちを試そうと私に命令され、それで私は貴女に近付きました」

「……は?」


 ユサは固まる。ではユサを助けると言っていたのは、ユサを愛してると言ったのは全て嘘だったのか? それを信じてこの男を待った過去は。


 胸の奥に冷たいものが入り込んだ。この男の手の様なヒンヤリとしたもの。


「だけど私は貴女が段々好きになって……呼び出された時、一緒に逃げようと心に決めて貴女の元に向かったんです」


 騙してたのだ。始めから騙してたのだ。ユサの水色の瞳から涙が溢れた。


「やっぱり裏切り者じゃねえか……!」

「ユサ、始めはそうでした! でも私は……!」

「離せよ! 蹴り飛ばすぞ!」

「ユサ、聞いてください!」


 逃げようと暴れるユサ。腕の中から出そうとしないアキ。


 嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だこんなの。ユサの頭の中はぐしゃぐしゃだった。顔もきっと涙でぐしゃぐしゃだ。


「……マ、ヒルマ、ヒルマああ!」


 心からあの男の名を叫んだ。あいつだけは、あのでかい優しい男だけはユサを裏切らないから。


 すると。


 ベリ、とアキの腕から引き剥がされた。


 アキが吹っ飛んで床に倒れた音が聞こえた。


 温かい大きな胸の中に引き寄せられる。霞んだ緑色の服、無精髭の顎。


 ユサの目から涙が更にぼろぼろと溢れ出した。来た。ちゃんと呼んだら来た。


「ヒルマああ……!」

「よしよし。もう大丈夫だぞ」


 青い瞳がユサを覗き込む。ユサの口に付着した血を見てハッとした。床に尻餅をついて胸を押さえているアキの口の端に流れる血を見る。


「……お前ユサに何した?」


 ヒルマの身体から怒気が立ち昇った。

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