第45話 糸目

 やはり窓拭きは腕にきた。


 外から眺めた時は小窓に見えた窓は案外大きく、上部は専用の道具を使って拭くらしい。始めユサも挑戦してみたが、棒の先に雑巾を括り付けた道具の先端を持ち上げることすら出来ず、班長のミラがすぐに道具をユサから取り上げて自分で作業をし始めた。ユサは窓枠の下の部分の拭き掃除担当になった。


「ミラ、悪い」


 恰幅のいいミラがゴシゴシと窓を磨きながら笑った。


「まあそんなに細いからはなから期待なんざしちゃいなかったけどね。しかしあれかい? 病み上がりか何かかい?」


 大分肥えたと思っていたが、もしかしてまだ足りないのだろうか。確かにこんなことも出来ないんじゃヒルマの足手纏いにしかならないが。


 これまでの環境のせいとはいえ、まともに働く体力すらなかったのは我ながらショックだった。


「前は全然食べられなくて。これでも大分太ったんだけど」


 硝子窓を仕上げ磨きしているメイがびっくりした声を上げた。


「ユサ今より痩せてたの!? そりゃ旦那さんも心配になるわねえ」

「そ、そうか?」


 やはりどうもユサが自分で思っていたよりもまだ全然痩せているらしかった。


 ヒルマがやたらと食え食えと言う訳だ。あいつの好みだからとは言っていたが、本気でもっと肉を付けさせようとしていたのかもしれない。


 そりゃそうだ。よく考えてみたら、ヒルマに引っ張ってもらわないと坂道すら登れなかった。どこからどう見ても体力がないのは明白だった。


 少し、少しだけヒルマに対し罪悪感を覚えた。もう少しだけ素直にあいつの言うことに耳を傾けておけばよかった。


 それにしても重労働だ。


「ミラ、今日はどこまで拭くんだ?」

「今日は10階分の半分の5階迄出来たらいいんだけどねえ」

「ごっ……」


 ユサが絶句していると、メイが先輩風を吹かせて言った。


「ユサ、今日やるか明日やるかの違いよ」

「そ、そうだな……」


 本当に本当に重労働だった。ユサは思わず天を仰ぐ。


 すると、上の方から光が差した。思わず手が止まる。あれだ、ヒルマの一部だ。ある、確かに上にある。本当にあった。


 何故か笑みが溢れ出て来た。


 メイが若干引き気味でユサに声をかける。


「ユサ? だ、大丈夫?」


 怖がらせてしまったらしい。確かに天井を見て笑っていたらただの危ない奴だ。ユサは顔を真顔に戻す努力をする。でも口の端がどうしても上がってしまった。


 とりあえず誤魔化すしかない。


「いや、昼飯を考えてたらつい」


 メイが笑う。


「いやねえユサったら。じゃあ美味しく食べられる様に頑張って働きましょ!」

「ああ、そうだな」


 早く上の階に上がりたかった。であれば真面目に拭いて早く上の階に進むしかない。


「よし!」


 ユサは改めて気合いを入れ直し、窓枠を拭き始めた。


 少し離れた所からひとりの男がユサを観察していることには、気付かなかった。







 カランカランと鐘の音が鳴り響いた。2階の掃除がほぼ終わりかけたところでのタイミングだった。

 ミラがユサとメイに声を掛ける。


「掃除道具を用具置き場に戻しましょう。急がないと休憩してる時間がなくなるわよ」

「はい!」


 ユサ達は小走りに階下へと降りて行く。用具置き場は朝集合した控室を出てすぐ脇に設置されていた。その横に手洗い場もあるが、用具に関しては休憩の際1階まで戻って片付ける必要があるようだった。


 水場は各階に備え付けられているのでバケツはそこに置いてある物を使用した。バケツもいちいち戻してたらユサの腕はもう今頃上がらなくなっていただろう。


 階段を降りると控室に向かってぞろぞろと霞んだ緑色の服を着た集団が歩いていた。


 ユサ達はその集団を迂回して少し大きい箪笥位の大きさの用具入れに雑巾等を戻し、横に備え付けられている手洗い場で手を洗った。少し独特な匂いがする黄ばんだ色の石鹸で手をよく洗う。ただの水洗いだけでは雑巾臭くて食事に支障が出そうだった。水を切り、手のひらの匂いを嗅ぐ。若干残っている気もしないではない。もう一度洗おうとすると、メイがクスリと笑って先に控室に戻ってしまった。


 後ろを見ると、殆ど皆控室に入ってしまっている。ユサは焦って急いでもう一度手を洗った。食いっぱぐれでもしたら悲しい。早くしないと。


 ぱっぱっと水を切った。



 少し離れた所から、ひとりの男がユサの様子を窺っていた。朝、ユサの名前に反応した糸目の男だ。


 声を掛けようとしたのか、男がユサに手を伸ばす。だがユサは控室の方を気にしており気付かない。


 男の口が開く。


「ユ……」

「おーいユサ? 何してんだ、食事だぞ」


 びく、と男の手が止まった。ユサが振り返り声のした方向を向いた。男とは逆の方向にいる背の高い男の方だった。男が慈しむようにユサに笑いかけると、ユサは男の横に軽やかに駆け寄った。


 糸目の男の手が下がる。


 背の高い青黒い髪をした男の手が当たり前の様にユサの腰に回った。親しげにユサの耳に何か話しかけると、ユサが男を見上げて子供の様な笑顔を見せた。


 糸目の男のところまでは、会話の内容は聞こえなかった。


 ユサが従業員の控室の中に消えたその瞬間、ユサにくっついていた男が糸目の男をぱっと振り返った。ふたりの目が合う。


 その男は、糸目の男に向かってべ、と舌を出すと口の端で笑いながらドアを閉めた。

 糸目の男はその場に立ち尽くす。


「ユサ……何なんですかあの男は……」


 男の拳が握りしめられ、ぎり、と骨がこすれる音がした。








 ユサは幸せを噛み締めていた。


 ヒルマが先程教えてくれた通り、昼飯は炭火焼きだった。調理場ですでに調理されてきておりやや冷めてはいたが、米の上に乗せられたあれだった。野菜はトマトと玉葱が刺さっていた。焼いたトマトのこれまた美味しいこと。しかも暖かいコーンスープ付き。何て贅沢な賄いだろうか。


「ヒルマ、旨いな」

「はは、食え食えもっと食え」


 さっさと食べ終わってしまったヒルマは、もぐもぐと食べているユサを片肘をついてにこにこと眺めていた。


「さっき班長に病み上がりかって聞かれた。俺ってまだそんなに痩せて見えるんだな」

「元々骨も細いからなあ、余計そう見えるんだろうな」


 ヒルマは否定しなかった。やはりまだまだだった様だ。ユサは決めた。


「ヒルマ、俺もっと肉をつける。午前中働いてみて、力のなさを物凄い感じたんだ。せめて上り坂くらい自分の足だけで登れないと駄目だもんな」

「別にいつでも引っ張ってあげるけど。でも偉い偉い」


 ヒルマがそう褒めるとユサの頭を撫でた。褒められるのは悪くない。ユサは頭の上の手をはたいてのけるのは止めておいた。


 ユサがコーンスープの皿に口を付けて飲み干した。旨かった。実に旨かった。


「ユサ、付いてる」


 ヒルマはそう言うと親指でユサの唇の上をスッと拭い、親指に付いたスープをペロリと舐めた。


 前もこんなことがあったような。ユサは若干身体を後ろに引いて眉を顰めた。


「お前なあ」

「別にいいだろ、勿体なかっただけだ」


 悪戯っ子の様に笑った。そして急に真面目な顔に戻る。


「そういやさっき、変な男がユサに声を掛けようとしてたぞ」

「変な男?」

「ユサが手を洗ってる時だよ。内部の人間かな? ピシッとした服を着てた奴だった」

「へえ」


 全然気付かなかった。ヒルマが口を尖らせて続ける。


「こんな変な色の制服着てても声を掛けられそうになるなんて俺は不安だ」

「はあ」


 そんなこと言われてもユサにはどうしようもない。


 ヒルマが身体を近付けてきた。


「だから、班の奴と絶対離れるな。いいか? 一時いっときたりとも駄目だからな。また午後声を掛けられそうになるかもしれん」

「そんな大袈裟な」


 どれだけ過保護なんだとユサは呆れるが、ヒルマは至って真面目だった。


「大袈裟でもいいんだよ。何かあってからじゃ遅い。頼む、約束してくれ」


 青い瞳が懇願する様に揺れる。あの卑怯なやつだ。ユサはこれに弱かった。


 渋々だが頷く。


「分かった、ひとりにならない様にするから」

「絶対だぞ」


 念押しされて苦笑する。


「分かったって。あ、そういえば例のあれだけど、まだ上の方にあるってことしか分からないんだけど、あったぞ」

「本当か? 凄いなユサ、さすがだ」


 そう言うとまた撫でられた。すると、カランカランという鐘の音が鳴り始めた。


「午後が始まるぞ。食器片付けないと」


 丁度よかったのでさっと立ち上がると、ヒルマの手が撫でる対象を失い宙に浮き、やがて降ろされた。


 ヒルマがふ、と笑う。


「あんまり無理するなよ」

「大丈夫だって。お前もしっかり働けよ!」

「おう」


 ヒルマが軽く手を上げて挨拶をした。ユサは軽く頷くと、急いで食器を片付けに行き待っているミラとメイの元に走って行った。

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