第44話 労働開始
翌日、ユサとヒルマは判子が押された書類を手に鉄格子で出来た境界線を越えた。
ユサは城を見上げる。一体何階建なのか、無数にある小窓の奥は薄暗くて見えない。全体的に四角いこの建造物は、やはり城よりは要塞だ。屋上には監視塔が建っており、豆粒の様な兵が何人か確認出来た。
目を凝らすと要塞の外部に這うように設置された通路や階段にも兵の影がある。壁が全体的に
「このまま真っ直ぐ行ってそこの正面玄関を入ったらすぐ右の部屋ね、そこに制服係がいるから書類を見せて」
昨日と同じ門番兼受付兼採用係が要塞の大きな入り口を指差した。やはり顔色が悪い。一体毎日何時間働いているのか。やはりこの要塞の主は人使いが荒そうだった。
自分の体力で持つだろうか。ユサは不安になってきた。ユサは光でヒルマの欠けた物の大まかな位置が分かるので、内部を
表情の暗いユサを見て、ヒルマが心配そうな顔で覗き込んだ。
「ユサどうした? 具合でも悪いのか?」
「いや、そういう訳じゃない。大丈夫だ」
「本当か? 無理するなよ。無理してまですることじゃない」
「それはどっちのことだ? 働くことか? それとも探すことか?」
「働くこと」
ヒルマは平然と驚きの発言をした。今日は労働初日だ。初日から働かないときっとすぐクビになる。一度クビになったらもう敷居は
ヒルマは石のネックレスを持っているが、日中はあまり役に立たない。明るい時間帯の潜入調査はユサの方が能力は上だった。だからこいつは考えなしなのだ。結果を何も考えないでその場で考えたことをすぐ口にする。
「阿呆。初日からサボる奴があるか。大丈夫、ちょっと不安になっただけだ」
「ならまあいいけど。ひとりで無理するなよ? 捕まったら元も子もないからな」
ユサは呆れた。心配性にも程がある。これじゃ子離れ出来ない親だ。
「お前俺を誰だと思ってんだ? 俺もれっきとした盗賊だぞ」
「そういや会った時も盗んでたもんなあ」
ヒルマが屈託のない笑顔を見せた。ヒルマに無理矢理肩に担がれた記憶が蘇り、ユサは眉間に皺を寄せる。
「なにその顔」
「いきなり俺を担ぎ上げたり飛んだり滅茶苦茶だったな、と」
「あれはもう忘れてくれよ」
照れたように笑う。何故照れるのか。ユサは思わずこめかみを押さえた。
「ユサ、ここじゃないか?」
見上げる程の高さがある正面玄関を抜けてすぐ右に、門番兼受付兼採用係が言っていた場所があった。ドアは開放されており、奥に部屋が続いているようだ。
ヒルマを先頭に中に入ると、壁に棚が備え付けてあるのが確認出来た。これが制服なのだろう、くすんだ緑色のきちんと畳まれた服が棚に積み上げられていた。
ヒルマが部屋の片隅にある執務机で一心不乱に何かを書いている男に声をかけた。
「今日からここで働く者だが」
「書類見せて」
顔を上げないまま、ほれ、と手を出す。書く手は止まらなかった。
ヒルマが書類を2枚とも男の手の上に置くと、ようやく男がペンを机に置きヒルマを見た。やはりこの男も顔色が悪かった。
「ふたり? えーと、運搬係と掃除係ね」
立ち上がると畳んである制服を手に取りそれぞれヒルマとユサに渡し、くいっと顎で奥にあるドアを差した。
「左が男、右が女の更衣室。中で着替える。ロッカーの鍵は自己管理ね。更衣室の奥にドアがあるから、出たところで待機すること。係が来たら班分けする。じゃあ頑張って」
男は連絡事項を言うだけ言うと、また机に座って書き物を始めた。ヒルマとユサは顔を見合わせる。
「ま、じゃあ着替えようか」
「覗くなよ」
「ユサ俺のこと何だと思ってんの?」
ヒルマがぶつくさ言いながら男子更衣室へ入ったのを見届けてから、ユサも女子更衣室のドアを開けて入った。入ると重そうな金属のロッカーが立ち並んでいる。所々紐のついた小さな板が扉の前に刺さっている物があった。番号が書いてある。金勘定に必要だったのでユサは数字だけは読めた。一番近くの物を試しに上に引っこ抜く。金属の板には切れ込みが入っていた。どうやらこれが鍵のようだった。
ドアの前にはカーテンも何もなく、開けたら丸見えになりそうだった。念の為外から一番見えにくい場所に移動してさっと着替えを済ます。あまり時間をかけるとヒルマは何も考えず向こう側から探しにきそうだった。
制服は七分袖のシャツに裾のすぼまった長ズボン。頭に巻くのだろうか、三角頭巾があった。ユサの髪の色はそこそこ珍しいので印象に残りやすいので有り難かった。
鍵についた紐を首からぶら下げて完了だ。これでどこから見ても掃除婦である。
「よし!」
頬を両手で軽くペチンと叩き気合いを入れた。久々の盗みの前の下調べだ。少しワクワクしてきた。
反対側のドアを開けて出る。広い部屋だった。同じ格好をした者がパラパラと椅子に座って寛いでいる。従業員の控室なのかもしれなかった。男が多いようだ。何人かの視線が集まり、ユサは居心地が悪くなって急いでヒルマを探す。
でかいヒルマはすぐ分かった。ユサを見つけたヒルマがにこっとする。
「ユサ」
尻尾が生えていたら横にブンブン振っていそうな顔で近づいてきた。ヒルマは三角頭巾ではなく前つば付きの帽子を被っている。男女で違うのだろう。後ろにだらしなく伸びた髪は今はひとつに結ばれており、普段は隠れている耳から顎にかけてのラインが見え、硬そうなそれにユサは胸がざわついた。普段緩すぎる程緩いヒルマがふと男に見える瞬間は、どうしても落ち着かない。
ヒルマが無言でユサの腰に手を回す。
「おい」
ユサが軽く睨みつけると、ヒルマがユサの耳に顔を近づけて囁いた。
「牽制」
息がかかってゾワッとした。勘弁してほしい。
「あ?」
「またそれ」
腰に伸びたヒルマの手を解こうと手を引っ張るががっしり捕まえていて取れない。しまいにはヒルマの指に手が絡め取られてしまい、これじゃどこからどう見てもいちゃついている様にしか見えない。
どこからか、チッと舌打ちする音がした。ほら、周りも呆れているじゃないか。ユサは焦った。仕事初日から敵は作りたくない。
「離せよ、仕事しに来たんだろうが」
「ユサ今の聞いただろ? これで敵がひとり減った」
また耳元で囁かれた。
「はあ? 違うだろ、呆れてんだよ」
「どっちでもいい。とにかく牽制にはなった」
にやりと意地悪そうにヒルマが笑った。ユサが小さく溜息をつくと、更に奥のドアから、班分け係だろう、巻いた紙を持った男が入ってきた。ようやくこれで開放される。空いている方の手でヒルマの腕をペチンと叩いた。
「つれないんだから」
「うるせえ。さ、仕事だ仕事」
「はいはい」
男が紙を見ながら名前を読んで班分けをしていく。ヒルマは男4人男の班に振り分けられた。ユサは少し年配のふくよかな女性とそばかすの若い女性と3人の班になった。男がいないので少しホッとした。ヒルマも嬉しそうに頷いている。
男が説明をする。
「今日が初めての者もいるので説明するが、休憩を知らせる鐘が鳴ったら各自作業を中断させてここに集まること。昼食を用意する。食後は鐘が鳴ったら休憩終了。次は夕方にもう一度鐘が鳴ったら終了となる。速やかにここに集合。日当を手渡す。制服は着替えたら洗濯カゴに入れて終了。何か質問は?」
誰も何も言わない。ユサ達以外は皆ベテランなのかもしれなかった。
「では、各班の班長の指示に従い作業を行なうように」
男がそう言うと、静かだった部屋が急にざわつき始めた。ふくよかな女性がユサに笑いかける。
「お嬢ちゃん初めましてだね。私はミラ。で、こっちがメイ。あんたは?」
「お、俺はユサ」
女が少しびっくりした様にユサを見た。
「俺? あんたみたいな美人さんがそんな言葉遣いじゃ勿体ないわねえ」
「あ、あはは、もう癖で」
「そうなの? まあいいわ。今日はまずはこの階の窓拭きから始まるから。こっちよ」
「ああ」
ユサが戸惑いつつも女についていくと、そばかすの若い女性がユサににこやかに話しかけてきた。さほど美人ではないが愛嬌があって可愛い子だった。ユサと同い年位だろうか。
「見たわよさっきの。あれ旦那さん? 格好いいじゃない! あんなにくっついちゃって、見ててうはってなっちゃったわよ」
「あ、あはは」
愛想笑いするしかなかった。この子の目にはヒルマは格好よく見えるらしい。物好きもいるものだ。
班毎にぞろぞろと城の中に続くドアをくぐっていく。ドアの先は完全に城の中。床は磨かれた石。天井は高く、広い廊下の片側が窓、片側は部屋がずらりと並んでいた。この窓をひたすら拭くらしい。明日はもしかしたら腕が上がらないかもしれなかった。
中で働く者だろう、書類を持って走る人間やブツブツ言いながら歩いている人間が行き交っていた。
「ユサー! 後でな!」
ユサとは反対側に連れて行かれているヒルマが大きく手を振った。子供か。ユサは苦笑した。
「旦那さんユサのことが大好きなのね。羨ましいわー」
メイがユサの脇腹を肘でつつく。
「そ、そんなこと」
ある。あるのでユサは黙った。ミラが振り返ってふたりを呼んだ。
「メイ、ユサ! お喋りしてないで行くよ!」
「はい!」
ユサとメイは顔を見合わせて笑うと、急いでミラの後を追いかけた。
書類を持って歩いていた男が足を止める。糸よりは若干太そうな目でじっとユサの後ろ姿を追った。
「ユサ……?」
男が呟いた。
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