第39話 夜の海

 ユサの大きく開いた口を見て、ヒルマが怪訝そうに聞いてきた。


「どうしたユサ。顎でも外れたか?」


 そういう問題じゃなかった。


「お前なあ……! 何で石がない国にわざわざ来るんだよ! ばっかじゃねえか!?」


 ヒルマがムッとして反論を始めた。


「だーかーら、今言っただろ? ユサに海を見せてあげたかったんだよ。生国だからな、一番始めに集まってたんだよ」


「だって、俺は別に海を見せてくれなんて言ってないだろ!」

「喜ぶかなと思ったんだよ。いいじゃないか。それにあんな楽しそうにしてただろ?」


 ユサがぐ、と詰まる。確かにはしゃいだ。思い切り楽しんだ。


「あ、今丁度イカ漁の時期なのよ。後で見に行ってみたら? 綺麗よお」


 奥から先程買い込んだ惣菜を並べたお皿を持ってマージが居間にきて、新たに設置された少し高めのテーブルの上に乗せた。


「イカ漁? 綺麗?」


 言っている意味がよく分からなかった。イカ漁の一体何が綺麗なのか。


 ユサは首を傾げていたが、さすがこの国の生まれ。ヒルマはすんなり理解した。


「そうか、そんな時期だったな。ユサ、後で海に行こう」


 ヒルマはにこにこととにかく嬉しそうだ。ユサに新しい物を見せるのがとにかく楽しいようだった。


「意味分かんねえよ。それの何が綺麗なんだ?」

「見たら分かるさ。ユサ驚くかもな」

「見ていらっしゃいよ。ああ、そうしたらジェイ、私達も行きましょうよ。カイルもたまにはああいう風情があるものを見るといいんだわ」


 ヒルマもマージも答えになってなかったが、マージが行くならまあ行ってもいいかな。そんな気になってきた。


 ヒルマが顔を斜めにして確認してきた。


「な? ユサ」

「……分かった」


 ヒルマがとにかくユサに見てもらいたいなら、まあそこまで悪いものでもないだろう。頷いた。


 マージがジェイに声をかける。


「じゃあご飯にしちゃいましょうか。ジェイ、カイル呼んできてもらえる?」

「はいはい。あいつ随分静かだけど何やってんだろう?」


 首を傾げながらジェイが廊下の奥に消えていった。そういえばしばらく見ていなかった。先程はあまりにもぐいぐい来るので本当に対応に困った。また同じことをされたら、またヒルマの機嫌が悪くなるのだろうか?


 チラリとヒルマを見ると、ヒルマが嬉しそうに笑った。本当によく笑う奴だ。頭の中には一体何が詰まってるんだろうか。今日見た海の向こうに見えたようなフワフワの雲でも詰まってるのかもしれなかった。


「ほらカイル、シャッキリして」

「もうこんな時間かあー、ふああ」


 廊下の奥から、明らかに寝ていたであろうカイルの声が聞こえてきた。


 居間に入るとユサを見てニヤリとする。


「ユサ可愛いじゃん」


 カイルがそう言った瞬間、ヒルマが立ち上がりユサの前に立った。背中にユサを隠す。


 大袈裟な。親がいる目の前で何がある訳でもなかろうに。そう思ったのだが。


 ヒルマが小さな声でユサに言った。


「怖かったら隠れてていいぞ」


 ユサはハッとした。そうか、そういうことだったのだ。ヒルマはただカイルを邪険にしていた訳ではなく、ユサが怖がるといけないと思って庇っていたのだ。全然気付かなかった。


 ヒルマの大きな背中が、これまで感じていた考えなしの阿呆ではなく、少しだけ頼りがいのあるものに思えた。少しだけ。


 ヒルマの服の後ろをツン、と引っ張る。


「大丈夫だ。相手は子供だし」


 ヒルマが急にぶるっと震えた。こいつ大丈夫か?


「どうした?」

「いや、今、ツンて」

「あ?」

「……いや、大丈夫です何でもないです」

「? 何だよ気味悪いな」


 よく分からないがまあ何でもないならそれでいい。ユサはヒルマの影から顔を覗かせた。旨そうな食べ物がテーブルの上に並んでいる。


 ぐう、と腹が鳴った。ヒルマが苦笑する。


「はは、食え食え。ちゃんと金は半分払っといたから遠慮するな」


 いつの間にかそんなことをしていたらしい。ヒルマは阿呆で馬鹿だとは思っているが、でも礼儀のない奴ではないらしい。


「じゃあ食う」


 ユサが宣言すると、またヒルマが目を細めてユサを眺めていた。







 夕餉は和やかに過ぎていった。カイルが隙あらばユサの隣を陣取ろうとするのをヒルマが遮りの繰り返しではあったが、ヒルマがきちんと牽制してくれたおかげでユサは思う存分食す事が出来た。


 初めて食べる物ばかりだったが、どれも美味かった。


「ヒルマはこんな美味いもんばかり食ってたからそんなでかくなったんだな」


 ユサがからかうと、ようやく食べ物を口に入れても泣かなくなったヒルマが頷いた。


「美味いだろ? な? この国の食べ物が俺は一番好きだなあ。ユサも好きだといいんだけど」

「確かにこれは好きだな。全体的に酸味が効いてる中に甘味があって、絶妙な美味さだ」

「だろ?」


 ユサとヒルマが話していると、少し酔いが覚めた顔をしたジェイが話に入ってきた。


「全部揃ったらふたりでこの国に住めばいいじゃないか」

「俺はいいけど。ユサはどうだ?」

「そもそもこのペースだと一体いつになったら全部揃うんだよ」


 呑気に観光に来てしまう位だ。ユサがそう聞くと、ヒルマが急に真面目な顔になった。


「じゃあ、本腰入れて探す。集まったらユサと暮らしていいのか?」


 今まで本腰を入れてなかったのか。その事実の方が驚きだった。


 ユサが答えないでいると、ヒルマがまた口を尖らせた。


「なあってば」


 面倒くさい。ユサは適当にあしらうことにした。


「気が向けばな」

「じゃあ気が向くようにする」


 ニヤリと笑った。


 そんなふたりを見て何を思ったか、マージが唐突にパン! と手を叩いた。


「じゃあ海に行きましょう」


 マージに率先されて家を出る。外はまだ人通りが多く、屋台にも人が群がっていた。


 カイルがユサの隣に並ぼうとしたが、マージが耳を引っ張って前に連れて行った。痛そうだった。


「ユサ、海岸は暗いから。手を貸せ」

「ん? ああ」


 手を差し出すと、そっと、だが離せない程度の力を込めてヒルマがユサの手を握った。何だろう、違和感しかない。


「本当に真っ暗だから、手を離すなよ」

「あ、ああ」


 別に照れくさい訳ではない。暗いから、本当に迷子防止の為なのだろう。だが、ヒルマの手のひらの汗がやけに現実的で、いつもと違いすぎて戸惑う。


 海岸に着いた。確かに真っ暗だ。気付かない間に足元が土から砂浜に切り替わっていて、始めの一歩でユサは足を取られた。


 ヒルマが繋いだ手に力を込めてユサが転ばぬよう支える。


 低い声が、ヒルマがいる辺りから聞こえてきた。


「ユサ、海の方を見てみろ」


 ヒルマに言われた通り、暗い闇の向こう側を見てみた。海の水も暗いが、その上に広がる満天の星が見えて空と海の境界線が見えた。


 その境界線に浮かぶのは、小さな火を放つ無数の物体。目が暗闇に慣れてくると、その陰影が船舶の形をしていることに気が付いた。


 そしてその無数の船舶の放つ光。



 ただ純粋に、綺麗だった。本当だった。



「ユサ、あれがイカ釣り漁船だ」

「何であんなに光ってるんだ?」


 あんなに明るくしたら魚も逃げそうだと思ったのは、素人の考えゆえか。

 

「光に集まってきたイカを捕まえるんだ。焼くと美味いんだぞ。明日食べてみよう、ユサ」

「いいな。食べよう」


 少し慣れてきた目に、ヒルマの輪郭と星の光を反射した瞳が見えた。ヒルマの目にもユサは同じ程度しか見えてないに違いない。


 ちゃんと伝えよう。ふいに思った。ヒルマの顔がちゃんと見えない今なら、言える気がした。


「ヒルマ」

「おう」


 いつものこのやり取り。今日これすらもユサは捨てようとしたのだ。ヒルマの泣きそうだった顔が脳裏に浮かぶ。


「俺の命をお前に預けていいか?」


 ヒルマの息を飲む音がした。


 いつまた発作的にいなくなりたくなるかはユサにも分からない。もうないかもしれない、でもまたあるかもしれない。


 だから、ヒルマに預けようと思った。


「いいか?」


 返事がなかったので確認する。ヒルマの顔の方を向いたがやはりよく見えない。


 ヒルマの低い声が囁いた。


「……ああ。預けてくれ」

「はは、よろしくな」


 ヒルマの大きな手がユサの頭に伸びてきた。こいつまた頭をわしゃわしゃするのか? とユサが身構えると。


 ユサの身体はヒルマの腕の中にいた。これではイカ釣り漁船が見えない。


「絶対守る」


 ユサの頭上から、ヒルマの掠れた声が聞こえてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る