第37話 誰が為に泣く

 ヒルマはソファーに浅く腰掛けがっくりと項垂れていた。隣にはジェイが座り、ヒルマの広い背中を慰める様にポンと軽く叩いた。


 ユサはマージに連れられ、ヒルマ達から少し離れた原色の花々が咲き乱れる中庭にあるベンチに腰掛けていた。


 先程まで大分いい感じに酔っていたマージだが、ユサの発言で一気に酔いが醒めたのか会った時の大人の目に戻っていた。こちらの方が安心出来た。


「ユサ、まずね、貴方は勘違いしてるわ」


 開口一番そう言われた。重大発表をするような顔をしていた。


「勘違い? 何を?」

「好きイコールあの行為ではないわよ」

「? だって皆好きって言いながらすぐに手を出してきたぞ」


 あの元クソ主人も然り、ユサが殺したあの男も然り。その後蟻塚の底辺で出会った男達も皆そうだった。


 何人かは返り討ちにしてやったが、そもそも拒絶していいということすら底辺に降りた直後は分かっていなかった。


「それはまあそういう一面もあるかもだけど」


 マージが小さな溜息をつく。どうも呆れられているらしいが、その原因がユサには分からない。


「それに俺の主人だった奴が言ってたぞ。奴が俺を求めるのは俺を好きだからで、だから俺は拒否しちゃ駄目なんだって。怒ってもってもそれは向こうが俺を好きな証拠で、男はそういうもんなんだって」


 だからユサの中では男にとっては行為イコール好きという理解だった。一度受け入れた奴には逆らっちゃいけない。ずっとそう言われ続けてきた。だから、ユサが殺したあいつだけは自分から受け入れたから好きだということなんだと思った。

 なのに、何でマージはそんな目でユサを見ているのだろう?


 そっと両手で手を包まれた。温かかった。


「それは違う」


 マージの茶色い瞳から涙が溢れ出した。お酒をいっぱい飲んでいたから、無駄遣いではないのかもしれないけど。


「マージ、何で泣いてるんだ?」

「ユサ、それは愛じゃない。それは支配よ」

「支配? まあ俺は奴の所有物だったけど」


 どうもユサとマージでは男の中での好きの定義が違うようだった。


 マージが涙を流しながらソファーで変わらずへこたれているヒルマに一瞥をくれた。


「ヒルマはその元主人っていう人のこと知ってるの?」


 始めに売られたことはざっと話した。リン・カブラに元主人の正体もばらされた。まあ知っていることになるのだろう。そしてこのこともマージになら話しても大丈夫そうだと思った。この優しい人なら。


「ああ。俺は親に紅国こうこくの皇子に売られたんだ。そんである時奴の側近の逃がしてやるって言葉に騙されて、だからそいつを殺して俺は逃げた。逃げた先で、今度はヒルマに取っ捕まった」

「ユサ、もしかしてさっき言ってた『自分のやったこと忘れて楽しんで』ってそのこと?」


 酔っぱらっていた癖によく覚えていたものだ。ユサが頷く。


「ああ。俺は自分のことを好きって言ってくれた奴を自分の自由の為に殺した。あいつの未来を奪った。だから、忘れて楽しむのは違うかなって」


 マージがぼろぼろと泣き始めた。こういう場合は何と言えばいいんだろう? そういえばユサの話を聞いてヒルマも泣いていた。


「何で皆他人の為に泣けるんだ?」


 口から突いて出たのは素朴な疑問だった。だって、ユサは自分の為以外に泣いたことなんてなかった。ユサの涙は全て自分の為だった。


 マージがユサを抱き締めた。酒のせいか、マージの身体は火照っていた。


「ユサもきっといつか人の為に泣けるようになるわ。ヒルマといれば、きっと出来るようになる」

「何でヒルマといると出来るようになるんだ?」


 先程からマージが発している言葉は、単語の意味は理解出来ても文章の意味がさっぱり理解出来なかった。


 ユサの顔に掛かるマージの黒髪には、近くでよく見ると白髪混じりだ。止まったヒルマの時間と動き続けたマージの時間の差。それが如実に表れていた。


「ユサ。貴女の元主人て奴は歪んだ奴よ。それは好きってことじゃない。ユサは騙されてたの」

「騙されてた?」


 続けるマージの声は鼻声だった。まだ泣いているのかもしれなかった。ぎゅっとされていて見えない。女の人にぎゅっとされるのは安心出来てなかなかいいものだった。


「ユサが他に逃げないよう、ユサを縛り付ける為に嘘をついてたのよ」

「……嘘?」


 何故自分の所有物にわざわざ嘘をつく必要があるのか。だが、ユサを縛り付ける為、という理由はすんなり納得出来た。確かにそういう捻じ曲がった奴ではあったから。


 マージが顔を上げ、ユサの肩を持ち目をじっと見つめてきた。揺らぎなく。


「いいユサ、好きっていうのはね、相手を傷つけたくないって思うことよ。大切にしたい、楽しませてあげたい、隣で一緒に笑っていたいって思うことよ」


 ユサは思い返していた。そういえばヒルマはいつも、ユサが新しい物を見てはしゃぐと眩しそうな顔をしてユサを見た。ユサが喜んでいたから、ヒルマも喜んだ?


「じゃあしなくていいのか?」


 マージが額をゴンとユサの肩にぶつけた。少し痛い。


「大丈夫か?」

「いや、あのねユサ……なんて言えば伝わるのかしらねえ。こりゃヒルマ大変だわ」

「へ?」


 やはりよく分からない。マージが子供に教えるようにゆっくり、はっきりと話し始めた。


「ユサ、その行為もね、お互いが想い合っていればしていいの。だけど、どっちか片方だけが想ってても駄目。分かる?」

「……えーと」

「ユサが想ってないのに無理矢理やろうとする奴は人間のクズよ、クズ。ヒルマはそんなことしないでしょ?」

「性欲ないしな。あ、でも初めて会った時に身包み剥がされて隅々まで見られた」


 ユサがそう言った瞬間、マージの血管がブチッと切れる音がしたような気がした。


「ユサはここにいて」


 そう言うとすっくと立ちあがり走って行ってしまった。酔っ払いなのによく走れるものだ。ユサが目で追っていると、マージは俯いているヒルマの頭に背後から跳び蹴りし、見事に決めた。ヒルマが顔面を床にぶつける。テーブルがあったらまた壊れてそうな勢いだ。ジェイは器用にワインが入ったグラスを持って逃げていた。


「お前もクズだ!」


 ドスの効いた声でマージが叫んだ。


 ユサは心の中で頷いた。確かに出会った頃のヒルマの所業といったらとんでもないものだった。今でこそユサを守ってくれるようになったが、腹を殴り気絶させ攫って身包み這いで縛って、それはもう色々とやられた。


 マージが箒を持って追いかけている。ヒルマは床を這いずって逃げ回っていた。何をやってるんだか。尚、ジェイは壁際に避難してそれでもワインを飲んでいる。落ち着いたものだった。


 ふと、気付く。今はこれだけユサに優しいヒルマですら出会った当初は酷かった。まるでユサを物のように扱っていた。多分、ヒルマの中でどこかの時点でユサは物から人に変わったのだ。


 元クソ主人や側近を思い出す。あいつらは一度だって優しいことがあっただろうか。まさか。


 あいつらにとって、ユサはただの物だったのだ。そういえばリン・カブラもユサのことを物のように扱っていた。そうだ、そういうことだったのだ。


 ルーシェは始めからユサを人間として見ていた。ルーシェがユサに寄せた好意。ヒルマの好意とは、あの延長線上にあるものなのかもしれなかった。


「ユサ! 助けてくれえ!」


 ヒルマがほぼ四つん這いの状態で中庭に走ってきた。ベンチに座るユサの前に縮こまった。ユサが座ったまま顔を近付ける。


「なあヒルマ。ヒルマは俺を傷つけたくないと思ってるのか?」


 あの青い瞳がユサを見つめ返した。追いかけ回されていたからだろうか、少し怯えの色が見えた。それでも答えた。


「思ってる」


 ユサは思い出そうとする。マージはあと何と言っていたか。


「大切にしたいか?」

「したい」


 ヒルマが四つん這いをやめてユサに向き膝をついた。


「一緒に笑っていたいか?」

「いたい」


 マージが追い付いてきたが、少し遠くで箒を持ったままユサ達の様子を窺っている。ジェイがとことこと様子を見にやってきてマージの隣に並んだ。


「もう俺はお前を怖がる必要はないのか?」

「……ない」


 ヒルマの顔は穏やかだった。ユサは、ひとつひとつ確認するように聞いていく。


「俺が死んだら困るか?」

「困る」

「どうしてだ? 俺がお前の欠けた物を持ってるからか?」


 始めはそうだった筈だ。ユサはヒルマの破片パーツ。だから物扱いだったのだ。そもそもユサのことを人だと思ってなかったのだ。


 ヒルマが首を横に振る。


「違う。ユサが楽しそうだと嬉しいからだ。ユサが悲しそうだと俺も悲しくなるからだ。なのにユサがいなくなっても俺はいなくなれない。ひとり置いていかれたら耐えられない」


 置いていくな。さっき、ヒルマが絞り出す様に言っていた台詞だった。そういう意味だったのだ。ようやく意味を理解した。


「ヒルマ」

「おう」

「俺にどうして欲しいんだ?」


 ヒルマがユサの手を取った。いつものごつごつした手だ。いつの間にかユサを守ってくれていた手だ。


「俺の隣で笑って怒って楽しんでほしいかな。怖がらないで、困ったら俺を頼ってくれ。言っただろ? 俺がユサの全部を背負うからって」

「お前の隣にいたら、俺もお前達みたいに他人の為に泣けるようになるか?」


 ヒルマが一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。


「きっとなるさ。ユサは優しいからな」


 自分があまり優しい人間だとは思ったことはないが、ヒルマから見たら優しいのだろうか。


「そっか。なら、とりあえずお前の隣にいることにする。でも別に好きとかそういうんじゃないぞ」

「ああ、それでいい」


 ヒルマはそういうと、ユサの膝におでこをつけた。肩が小刻みに震えている。まさか泣いてるのか?


「いなくならなければ、それでいい」


 掠れた声がユサの膝の上から小さく聞こえてきた。

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