第36話 「す」の続き

 マージがユサに手を差し伸べる。ヒルマがユサの腰を持って押し上げると、ユサはマージの手を掴んで立ち上がった。ユサの心は申し訳なさでいっぱいだった。

 

「マージ、あの、テーブル壊してごめん」


 ユサは素直に謝った。高かったと言っていたからきっと大事な物に違いなかった。


「まあかなりいい蹴りだったけど。でも謝る相手が違うわよ」

「え」


 マージは呆れ顔だ。人差し指でまだ壊れたテーブルの真ん中に転がっているヒルマを差した。にへ、とヒルマがユサに笑いかける。これに謝れというのか。


「あの、ヒルマ」


 何を謝ればいいのか。蹴ったことか、泣いたことか、それとも拒絶したことか。ユサが詰まっていると、マージがヒルマに言った。


「ヒルマ、あんたの言葉全っっ然響いてないみたいよ?」


 言葉? 何のことだろうか。ユサが首を傾げると、マージが額を押さえて溜息をついた。駄目だこりゃ、という心の声が聞こえた気がした。


「ほら、とりあえず手を出して起こしてあげて」


 背中をポンと押されたので、言われるがまま手を伸ばす。それをヒルマのごつい手が掴んだ。足に力を入れて引っ張るとヒルマが上半身を起こす。全然力なんて要らなかった。ヒルマはほぼ自分の力だけで起き上がってきたから。


 指を離すがヒルマはユサの手を握ったまま離さなかった。ぐ、と引っ張るが抜けない。


「ヒルマ、離せよ」

「嫌だね。離したらどっか行くだろ」


 そう口を尖らせた。助けを求めマージを見たがさっと目を逸らされた。口元が微かに笑っているように見えたのは気のせいだろうか。


 仕方ない。自分で撒いた種だ、自分で何とかするしかなかった。


「……どこにも行かないから」

「信用出来るか。ユサがこれをするのは2回目だ」


 ぐ、と返答に詰まった。つい目が泳ぐ。


「そ……そんなこと、だって俺自分のやったこと忘れて呑気に楽しんで」


 言い訳が口を突いて出る。だが一体誰に向かっての言い訳か。


 マージが助けてくれないかと思いもう一度振り返ると、ジェイとワインで乾杯を始めていた。いつの間に。というかほったらかしか? 美味そうにくいーっとグラスを一気に空けていた。いやいやいや。


「ユサ、忘れろよ」


 ヒルマが笑いかけてきた。これだけ散々ユサがやったのに何でまだ笑うことが出来るのか。やっぱり阿呆に違いない。


「代わりに俺が覚えててやるから、ユサは忘れろ」


 笑顔だが真剣なヒルマと、後ろで飲み始めたふたりのこの温度差。違和感しかなかった。チラリとまた見ると、2杯目を口に含みつつ生温い目でこちらを眺めている。いやいやいや。


 とりあえず目の前のヒルマを何とかしよう。


「お前は関係ないだろ」

「関係ある。そう突き放した言い方をするな。傷つく」

「何でお前が傷つくんだよ。それにどうせ覚えてなんかいられないだろ」


 ユサの言葉にジェイがぷっと吹いた。マージがぺちんと叩く音がした。昔の仲間にすら笑われる記憶力とは。


「ちゃんと覚えていられる。ユサのことは丸ごと全部俺が背負う」


 ヒルマがユサの手の甲を指で撫でる。じっと見つめられて居心地が悪いったらない。


「だから、ヒルマには関係ないだろ」

「あるってば」

「何でだよ」


 ヒルマは今回は随分としつこかった。さっきから何かを伝えようとしているようだが。唾を飲み込んだのか、喉仏が動いた。


「それは、俺がユサのことをす」

「たっだいまーー! あれテーブルどうしたの? お客さん? あ、また昼から飲んで! おお、お姉さん美人」


 出かけたヒルマの言葉を遮ったのは、マージにとても似たよく日に焼けた美形の青年の騒々しい声だった。

 マージの小さい溜息が聞こえた。







 真っ二つに割れたテーブルはヒルマとジェイが片付け、今はその空間は空になっていた。


 ソファーに腰掛けるユサの真後ろに立ってちびちびとワインを口にするヒルマから立ち昇るのは、あからさまな怒気。隠すことなく発されている。


 ユサはヒヤリとしていた。というのも。


「へえ、お姉さんユサっていうの。すっげー可愛いね。ショートヘア似合ってる。ねえ彼氏いるの?」


 ユサの隣を当たり前のように陣取るこの軽い男は、カイルと名乗った。


「カイル、お客さんなんだぞ。もう少し遠慮しなさい」


 ジェイが嗜めるが迫力はない。


「えーいいじゃん。滅茶苦茶好みだし。ねえ彼氏いるのいないの?」


 頬に手をついてにっこりされる。なまじ顔がマージそっくりなのでやりにくいことこの上ない。


「い、いない」


 元クソ主人の所有物ではあったが、逃げた身だからそれでいいだろう。多分。


 カイルがぱあっと笑顔になった。


「えーじゃあ俺と付き合ってよ!」


 言った瞬間、ヒルマが後ろから頭をはたいた。カイルが頭を押さえて抗議する。


「あんた誰? 俺の恋路の邪魔すんなよ」

「ジェイ、マージ、お前達の子供か? 随分と頭が軽そうだが」


 ヒルマがむすっとしたまま、立った状態で次々とワインを口にするふたりを振り返った。ジェイは済まなそうに感じているように見えるが、マージはニヤニヤしているだけだ。何がそこまで楽しいのか。


「許してやってくれ。今正に青春真っ盛りの男子なんだ」

「ただの盛りのついたおすじゃないか。ほら、ユサもちゃんと言えよ。嫌だって」

「ねえユサ、この男ユサの何?」

「いや、あの」


 カイルがユサに近づくと、ヒルマが口にグラスを咥えてぐいっとユサとカイルの肩を掴んで左右に引き離した。カイルが振り返って睨みつける。


「何すんだよおっさん!」


 ヒルマが無言で口に咥えていたグラスをユサに持たせると、背後からユサの脇を抱えてひょいと持ち上げてそのまま横抱きにしてしまった。ユサは物か。


「ユサに近づくな」


 カイルを上から見下ろして偉そうに言った。カイルが噛みつく。


「別におっさんの物でもないだろ!」

「ユサは物じゃない。な? ユサ」


 酒臭いヒルマが、腕の中のユサを覗き込んで同意を求めた。


「そりゃ物じゃないけど、お前のこの扱いは物扱いだぞ。降ろせよ」

「嫌だ。おいマージ。自分の子供くらいちゃんと躾けろよ」


 大分頬が赤くなってきているマージが笑いながら返答した。


「無理無理、ぴちぴちの17歳よ、親の言うことなんて聞かないってば」

「反抗期は終わったんだけどねぇ」


 ジェイもくいっとワインを飲んでほんわり笑う。ヒルマの眉間に皺が寄った。


「ユサ、折角会えた昔の仲間だけどもうそろそろ行こうと思う」

「まだ話したいんじゃないのか?」


 ヒルマはチラリとワインをガブガブ飲んでいる昔馴染みを見る。わざとらしく首を横に振って溜息をついてみせた。


「ユサの安全の方が大事だ」

「安全って……大袈裟だな」


 ぷぷっと笑う声がした。ジェイが腹を抱えて笑いを抑え込もうとして失敗していた。口の端からワインが垂れているのを指で拭っている。


「ヒルマ、お前そんなんだったっけ? もう少し斜に構えてた記憶しかないんだけど。しかしまあ随分と夢中になってるんだな! あはははは!」

「笑うなよ。いいだろ別に」

「夢中?」


 どんどん話が見えなくなってくる。首を傾げるユサを見て、マージがようやく助け船を出した。


「カイル、とりあえずあんたは学校の宿題でもやってなさい。女の子ナンパしてる場合じゃないでしょ。それにこの子は駄目よ、先約済だから」

「えー何だよそれ」


 カイルがふくれっ面を見せたが、それでもマージの言うことには素直に従うつもりらしい。立ち上がると、「後でね」とユサにウインクをして廊下の奥へと消えていった。ヒルマが苦々しげにその後ろ姿を見ている。相変わらず大人げのない奴だ。それでもカイルが行ってしまうと、ユサを床に降ろしてくれた。どうやら本当に守ってくれたつもりらしい。


 マージがユサの前まで歩いてきた。そこそこ酒が回っているのか、少し足取りが危うい。


「ねえユサ、貴方ほーんとうに分かってないの?」


 これが絡み酒というやつであろうか。目も座っていた。先程までの熟女の色香は何処へ行ってしまったのか。どうみてもだたの酔っ払いだ。つい顔が引きつってしまい、一歩下がってヒルマにぶつかり足を踏みつけた。まあヒルマだ。いいだろう。


「ユサ踏んでる」

「あーはいはい」


 言われたのでどかした。マージは左右にゆらゆらと揺れている。本当に大丈夫だろうか。伴侶であるジェイはにこにことその様子を眺めていた。大丈夫かこの夫婦。


「ユサー? 聞いてるのー?」

「聞いてるけど、何のことを言ってるんだか分からないし」

「ヒルマの気持ちよおー」

「ヒルマの気持ち?」


 ユサが後ろに立つヒルマを振り返って見上げる。犬みたいに扱われてるのは分かるが。


「ヒルマーさっきの続き言ってあげなさいよおー。さっきの『す』の続き。ほらー」


 酔っ払いがヒルマに言った。先程言いかけた何かだ。ユサの丸ごとを背負ってやるとか言ってたあれの続きだろう。ユサがヒルマを見つめると、ヒルマの頬が少し赤くなった気がした。こいつも酔っぱらってるのだろうか。


「そういや何だったんだ?」

「ほらヒルマー」

「分かった、言うからマージはもう黙ってろ」


 ヒルマが軽く咳払いをし、ユサの両肩に手を置いた。


「あーユサ」

「ああ、だから何だ?」

「俺はな、ユサが好きなんだ」


 ヒルマが言った。ユサは怪訝そうな顔をする。だっておかしい。

 ヒルマの口の端がひくついた。


「ユサ、何でそんな顔してるんだ?」

「いやだってさ、おかしいだろ」

「何が」

「だってお前性欲ないんだろ? なのに好きってどういうことだ?」


 ユサそうが言った瞬間。


 それまで陽気に酔っぱらっていた3人の顎がぱかっと開いた。

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