第35話 消えたい

 扉を開けると、そこには居心地の良さそうな空間が広がっていた。


 全体的に家具の位置は低いが、翠国すいこくのように床に座る仕様ではなく、低い椅子やテーブルが設置してある。家の奥は窓が開放されており、庭に咲き乱れる原色の花々がその美しさを競って咲き乱れていた。


「ユサはここ」


 マージはそう言うと、居間の中程にあるクッションが敷き詰められた低いソファーの上にユサを座らせた。優しい笑顔でユサを見、少し遅れて家に入ってきたヒルマには冷たい目線を送った。


「ジェイを呼んで来るから、動かないで扉の前で待ってなさい」

「……はい」


 ヒルマは大きな図体を扉の前に縮こまらせ待機した。視界の片隅でそれが確認出来たが、視線を向けるのはやめた。恐らくヒルマもそれは望んでいないだろう。


 居間の奥の廊下に消えてしまったマージを静かに待つ。


 この沈黙はきつい。だが、この状況を招いたのはユサだ。ユサの不用意な油断が招いた結果だ。


 ヒルマは悪くない。


 それは分かっていた。本当は分かっていたのだ。ヒルマには悪意はない。害意もない。あるのはただありのままを受け入れる気持ちだけ。ユサはそれが心地よくて、つい立場を忘れて手を伸ばしてしまった。


 だから悪いのはユサだ。何もかも全てユサが悪い。ヒルマも何もこんな奴がヒルマの欠けた物を持っていなくてもよかっただろうにときっと思っているに違いない。


 男が怖くて飯代は嵩む、だけど虚勢だけは一人前のガリガリの役立たずなユサなんて。



 消えてなくなりたかった。



 あのまま、ヒルマに止められることなくこの喉にあいつを刺したナイフを突き刺すことが出来ていたら、今頃こんな思いをすることもなかった。こんな思いをヒルマにさせることもなかった。


 ふと、自分の腰にナイフが収められているのを思い出した。


 マージの家を汚すのは申し訳ないが、いい機会じゃないか。そう、思った。


 ナイフを腰から抜く。あのクソ主人に与えられた、黒い国だかどこかの逸品とかいう代物だ。切れ味は抜群にいい。ヒルマが勢い余って自分の太ももを刺してしまう位は。


 やるならヒルマの視線が外れている今だろう。喉は痛そうだから、ここは一気に心臓にいこうか。


 ユサは小さく息を吐き、止めた。目を閉じる。ヒルマの動く音はしない。大丈夫、今度こそ上手くいく。


 胸に切先を当てて、覚悟を決めた。よし、もう十分だ。もう、よかった。


 腕に力を込めた。


「……馬鹿か!」


 気付くと、いつの間にか手首を掴まれていた。ギリ、と骨と骨がぶつかって鳴る。ヒルマの渾身の力でナイフを持つ腕がユサの心臓から遠のいていく。ソファーの背もたれに手首を押し付けられた。


 ヒルマがユサに覆い被さってきて、反対側の肩も背もたれに押しつけられてしまった。加減もくそもなかった。


「痛い……」

「じゃあ離せ!」


 また怒鳴る。嫌だと言っているのに。ああ、また涙が出始めてしまった。涙は卑怯だから嫌いだ。


 だがユサが泣いてもヒルマの手の力は緩まなかった。ヒルマは怒っていた。今度こそ、ユサ本人に対して怒っていた。


 ユサの発する声は涙混じりだった。


「……嫌だ、離さない」

「もうあんたにこれは持たせない」


 ヒルマが歯を食いしばりながら小さく言った。ギリ、と奥歯が擦れる嫌な音がする。手首を押さえられ、肩を反対の手で押さえつけられ、身体の上を跨がれ。ここにも自由はなかった。元々どこにも自由なんてないのかもしれなかった。そんなもの、この世のどこにも始めからなかったのかもしれない。


「嫌だ、もう嫌なんだ。頼む、手を離してくれ」

「駄目だ、俺だって嫌だ! いなくなるなよ、死のうとするなよ……!」


 ヒルマの青い目が懇願してくる。ずるい。ユサはこれに弱い。つい許してしまいたくなってしまう。ヒルマのせいにして、自分を許してしまいたくなる。



 甘えたくなってしまうじゃないか。



「……お前のそれは一時の気の迷いだ。俺がいなくなれば、その内忘れる」


 絞り出した。いいから手の力を緩めてくれ、そう願う。だけどヒルマは更に力を込めた。もう折れてしまいそうだった。


「ユサは俺のこと馬鹿だ馬鹿だって言うけどな、ユサの方が余程馬鹿だ!」


 ヒルマが怒鳴りつけてきた。カチンときた。何故か今度は怖くはなかった。何故だ? だが、怒りが沸々ふつふつと沸いてきた。


「何だと? お前にだけは言われたくねえ! お前の方が絶対馬鹿だ! ばーか!」

「いーやユサの方が馬鹿だよ! 俺がどれだけあんたを必要としてるのかちっとも分かってないじゃないか!」

「俺がお前の欠けたもんだからだろ! それだけだ!」

「違う!」


 部屋にヒルマの大声が鳴り響いた。とうとうユサの手からナイフがぽろりと落ち、カランと床で固い音を立てた。


 ヒルマの顔は近かった。短いバラバラの前髪がユサの頬に届く位近かった。


 ヒルマの声が掠れた。


「違う、そんなんじゃない。そんなの関係ない」

「……関係あるだろうが」


 押さえつけられ身動きが取れなくなった今更、ようやくユサは冷静さを取り戻した。ヒルマが取り乱して、ようやく正気に戻れた。


 視野が戻ってきた。いつの間にか聞こえなくなっていた周りの音も、普通に耳に入ってくるようになった。外から差すのは明るい日の光。


 こちらに慌てたように走ってくる足音が聞こえる。マージだろう。


 泣きそうな青い目。吸い込まれそうだった。


 吸い込まれたらどうなるんだろう。


「とりあえず落ち着け、な?」

「死のうとしてたユサに言われたくない」


 ユサのおでこにヒルマのおでこが触れた。ヒルマが近距離でユサの目を見ながら低く囁く。


「俺を置いていかないでくれ」


 ヒルマの熱い息がかかる。何やってんだこの男は。恐怖はない。嫌悪もない。ただあるのは困惑だった。


 だって、意味が分からない。


「ヒルマ、人の話聞いてたの?」


 マージの声がした。ヒルマがはっと顔をあげ、ようやくユサの視界が元に戻った。マージは床に落ちたユサのナイフを綺麗な所作で拾い上げ眺めている。


「まあでも、ヒルマにしてはよくやったのかしらね」


 マージはそう言うと、マージの後ろにいつの間にか立っていた線の細い男性にナイフを渡した。


「ジェイ、これ隠しておいて」

「ん」


 ジェイと呼ばれた男性。盗賊仲間でマージの結婚相手だ。背はさして高くなく、マージよりほんの少し高い位だろうか。茶色い髪に茶色い瞳、痩せた頬。眉毛は優しそうな曲線を描いている。歳はマージ位だろうか?ほうれい線すらも優しげだった。


 マージを見返す視線も慈愛に満ちたものだった。


「鞘はある?」


 穏やかな男の瞳がヒルマを見た。ヒルマは小さく頷くと、ユサの肩を押さえていた手を離してユサの腰帯に刺さる鞘を引っこ抜き、ジェイに向かって投げた。ジェイはそれを軽い仕草でぽんと受け取るとさっとナイフを鞘に収める。


「お嬢さんの目を塞いでおいたら?」

「そうだな」


 ユサが抵抗する間もなく、ヒルマがユサの頭を腕で抱えヒルマの胸に押しつけてしまった。耳ごと抱えられ、ジェイが進む方向すら分からなくなる。


 ユサはどんどん腹が立ってきた。こいつはいつもこうだ。ユサの意見なんかお構いなしで、自分のやりたいようにやる。蹴っても効かないのは重々承知していたが、これはせめてもの抵抗だ。


 空いている方の手で無理やりヒルマの拘束から抜け出ると、ユサは足を曲げて自分の身体にばっと引き寄せ、両足でユサに跨るヒルマの胸を思いきりドン! と蹴り上げた。


「うわっ」


 痛くはなくとも勢いがあればユサから離れるだろう。そう思ったが、誤算があった。ヒルマはひっくり返りはしたが、ユサの手首は離さなかったのだ。


 ソファーの前に置かれていた背の低いテーブルの上に、ユサごと倒れ込んだ。何かの植物の葉で編み込んであるのか、そのテーブルはふたり分の重さに耐えきれずに真ん中で見事に折れた。ヒルマの上で振動でユサの身体がポンと跳ね上がり、ゴン! とヒルマの鎖骨におでこをぶつけた。目の前に星がチカチカまたたく。前にもこんなことがあったような。


「うおおお……!」

「すごい音したな。ユサ大丈夫か?」

「あーそれ高かったのに」

「ヒルマはでかいからなあ」


 最後にのんびりと声を発したのは、いつの間にか戻ってきていたジェイだった。


「とりあえず何か飲む?」


 にこりと、これまたいつの間に持ってきたのかワインのボトルを掲げて見せたジェイだった。

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