第33話 元恋人

 白い砂浜。目の前に広がるどこまでも青い海から押し出された白い波が足元に打ち寄せる。


「これが海か!」


 ユサは興奮気味だった。ズボンの裾をまくり上げ、裸足になって波に足をつけた。波が火照った足を冷やしていく。と、今度はユサの足に砂を巻き付けて海の方に戻って行ってしまった。心なしか足が砂に埋もれている。


「ヒルマ! 気持ちいいぞ!」


 曇りのない笑顔でヒルマを振り返ると、ヒルマがまたあの目眩まぶしいものを見るような目をしていた。あれは何なのだろうか。時折あの目で見られる。先程も然り、翠国すいこくで初めて草原を見た時も然り。


 物を知らない阿呆だとでも思われているのだろうか? それにしては優しい眼つきだ。ユサが初めてのものを見てはしゃいでいるのを喜んでいるのだろうか。


 そういえば、好きなものを見せてやると言われていたことを思い出した。まだ何も答えていなかったが、今もまた初めて見るものに足を付けることが出来ていることを考えると、ヒルマと一緒に旅をするのもそう悪いことではないように思えるようになってきた。


 先程はユサの元クソ主人の知識に嫉妬をしていた位なので、自分の方がもっと色々なものを知ってるぞ、と主張したいのかもしれない。きっとそうなのだろう。そう考えれば筋も通る。考えなしのヒルマのことだ、理由はきっとそれ位単純なものだろう。


「じゃあ俺も」


 ヒルマはそう言うと、外套を砂の上にポンと投げその場で靴を脱いだ。周りを見渡す。人が多い。盗難を心配したのか、鞄は背負ったままユサの方にジャブジャブと歩いてきた。


「ユサ、浅く思えても結構波に足を取られるから気を付けろよ」


 楽しくなって沖の方へ何歩か進んで行ったユサにヒルマが声をかけた。ヒルマの言う通り、確かに波に足がが持っていかれそうになる。ユサはバランスを取って波に対し横向きになった。


「ヒルマは海は詳しいのか?」

「おう。俺は元々この国の出身だからな」

「そうだったのか? そんなことひと言も言ってなかったじゃねえか……うわっ」


 大きな波が知らぬ間に押し寄せてきて、ユサの服のふくらはぎ部分まで濡らしてしまった。


「ああユサ、何やってんだ」

「いや波が思ったよりも大きくて、うわっととと」


 今度は沖に戻っていく波に流されそうになりバランスを崩しかけ、大きな一歩を踏み込んでユサの腕を捕まえたヒルマに何とか支えられた。ヒルマが苦笑いしてユサを見下ろしてきた。


「ほら、気を付けろ」

「はは、悪いな」


 海の中でひっくり返ったら大変だ。ユサはヒルマの腕にしがみ付いてえっちらおっちらと砂浜へと向かった。


「うわっ」


 また波に足を取られ、海の中にひっくり返りそうになる。すると、ヒルマがひょいとユサを横抱きに抱えた。


「言ってる傍から」


 やれやれ、という顔で笑っている。ヒルマはそのまま靴が置いてある場所まで戻ると、そっとユサを砂の上に降ろした。


 言い訳のしようもない。


「……調子乗っちまった。悪い」

「別に構わないけどさ。楽しかったんだろ?」

「はは。楽しかった」


 ユサは正直に答えた。こんな広大な水は生まれてこの方見たこともなければ触ったこともなかった。しかも何だ、この空は。ホワホワとした白い雲が地平線の向こうから立ち昇り、その空の青さとの陰影は見ていると吸い込まれてしまいそうだった。


 ヒルマもユサの横に並び立ち遠くの雲を眺めた。


「懐かしいなあ」

「生国なのに寄ってないのか?」


 自身も生国である紅国こうこくから飛び出し、もとい連れ出された身なので偉そうなことは言えないが、ヒルマ程自由そうな人間が気楽に寄り付けない理由があるのだろうか。


 ヒルマが言い淀む。これは何かあるな。ユサの目が光る。何か悪さでもやったか。こんな身体にされる位の悪さをやった奴だ、その可能性は十分に考えられた。


「あの、そのだな」

「はっきりしねえ奴だな。何なんだよ」


 舌打ちするユサに、ヒルマが若干体を引いた。怖いとでも言いたいのだろうか。失礼な奴だ。


「その、あの」

「だから何なんだよ」


 ユサが折角いい気分を味わっていたのに、こいつのウジウジした態度で台無しだ。すねを蹴飛ばそうかと頭の片隅で考えた、その瞬間。


「ヒルマ……? ヒルマ!」


 なんとも魅惑的な女性の声がユサ達の背後から鳴り響いた。


 振り返るヒルマの顔。その顔を見てしまったユサは。


 何だか面白くなかった。


「マージ……!」


 ヒルマが声がした方に一歩あゆみ寄った。ユサはヒルマの視線を追う。その先には、四十路位だろうか、少し目尻に小皺が見られるが、それでも輝くような美貌の持ち主がヒルマを泣きそうな目で見つめていた。


 勝気そうなハリのある唇。漆黒の腰まで届くサラサラの長い髪。メリハリのある肢体は同性のユサから見てもとてつもなく魅力的な女性に見えた。



 何故こんな美女がヒルマの名を呼ぶ? 過去になんかやらかしたか?



 一瞬ヒルマを疑ったが、見つめ合うふたりの様子を見る限りもう少し親密な関係のようだ。


 ふたりだけの世界。つまり、ユサには入り込めない世界だ。


 当然面白くはないが、かと言ってユサはただの相棒である。


 従って、ここは傍観に徹することにした。


 女の目が潤んでいる。こんな美女を泣かせるなんて本当に何をやらかしたのか。


「全然、変わらないのね」


 ポツリと女が呟いた。胸の奥をつままれるような声だった。


 返すヒルマは色気もなく頭をガリガリとかいている。フケを吹くなよ、吹くなよと心の中で願ったが、残念ながらその願いは届かなかったようだ。横に向かって爪の間のフケを吹いた。後ろから頭をはたいてやりたくなった。


「久しぶりだな。元気にしてたか?」

「ええ。ジェイも元気よ。貴方は……元気そうね。相変わらず」


 女は後ろに突っ立っているユサを見た。


「そちらの方は?」


 ユサは思わずビクッとしてしまった。こんな優しげなグラマラス美人に見られては落ち着く訳がない。


 ヒルマがユサを振り返り、少し眉を上げて笑った。


「いいだろ? 今の俺の相棒だ」

「相棒? 貴方まだ続けてるの?」


 ユサだけ話について行けてない。だが、口を挟める雰囲気ではなかった。


 するとヒルマがポツンと所在なさげに立ち尽くすユサの元に戻り、ユサの肩を抱いた。脇腹を突いてやろうかと思ったが、ユサは目の前の美女から目が離せない。


「ユサ、あいつは昔の盗賊仲間だ」

「え……あの綺麗な人が?」


 ユサが驚くと、女がクスクスと笑った。


「嫌だわ。おばちゃんを捕まえてそんなこと言わないで、恥ずかしいわ」

「いや、だって」


 こんな女性にだったら、ユサだってさすがになってみたい。たとえ女だろうが。


「ヒルマは昔から面食いだものね、ふふ」


 女が可笑しそうに笑い続ける。ヒルマが横でブスッとしていた。


「余計なこと言うな」

「ごめんなさい、面白くてつい」

「マージ」


 ユサは訳が分からずふたりを見比べているだけだった。


 女が首を少し傾げ、ユサに笑いかけた。


「こんにちは、初めまして。私、マージというの」


 ユサはドギマギしながら答えた。


「俺は、ユサだ……です」


 女はふふ、と笑う。大人の女の余裕の笑みだった。


「実は私とヒルマは、昔は恋人同士だったの。ね? ヒルマ」

「おい! マージそれは」


 こんな美女とこのむさいヒルマが恋人同士だったと? ユサは怪しむ目でヒルマを見た。


 ヒルマが不貞腐れた顔をしている。


「……何だよ」

「嘘だろ、どうやってこんな美人捕まえたんだよ。騙したのか?」

「ユサ……それはあまりにも」


 ヒルマががっくりと項垂れた。


 すると、女が実に可笑しそうに笑い転げた。


「ふふふ……! あはは! ヒルマ相手にされてないじゃないの! ふ、ふふ」


 腹を押さえている。女はしばらくヒーヒー言いながら笑い続けていたが、やがてようやく落ち着くと言った。


「まあとりあえずうちへいらっしゃいな。お嬢さんも、是非」


 導かれるまま、ユサはふらりと歩き出したのだった。

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