第三章 瑠璃国

第32話 瑠璃国

 ヒルマはボロボロと涙を流していた。


 屋台の店主が、気味の悪いものを見てしまったのかの様な目でヒルマを見ている。身体は一歩後ろに下がっている。まあ、当然の反応だろう。


「姉ちゃん、このお連れさん頭大丈夫か?」


 隣で無視を決め込み残りの汁を勢いよく飲んでいたユサに、店主が恐る恐る尋ねた。


 とりあえず最後まで飲み干し、器を台に置いたところでようやく店主に答えた。


「まあ阿呆だが危ない奴じゃない」

「阿呆とは何だ、阿呆とは」


 涙を袖で拭ったヒルマが汁を飲みながら口を尖らせた。こういうのは器用なようだった。


「食う度に泣いてりゃ十分阿呆だ」

「だって温かいし美味いし、こんなのもう感動するなって言う方が無理だろうが」


 20年以上味覚も温かみも感じられなかったヒルマからしてみればそうなのだろうが、毎回食事の度に横で泣かれるユサの身にもなって欲しかった。その度に一緒に奇異の目で見られる居心地の悪さといったら。


 それにしても聞き捨てならないことを今言われた様な。この店主は、ユサのことを普通に『姉ちゃん』と呼んでいなかったか。


「おじさん、俺が女に見えるのか?」


 店主の目が、連れのユサも頭のおかしい奴なのかと疑っている様な目をした。


「どっからどう見ても年頃の美人な姉ちゃんだろう。あんたたち大丈夫か?」

「俺とこいつを一緒にするなよ」

「相棒だろ、酷いなあ」


 汁を全て飲み干したヒルマが不服そうに言った。


 ユサは自分の手を眺める。新たな石を嵌めた指輪は始めは中指でも緩かったのに、今ではピッタリだ。翠国すいこくを出立して数日、毎食しっかりと食べた。食べた結果。


「ユサ、ようやく少しふっくらしてきたな。まだまだガリガリだけど」


 隣のヒルマが目を細めて嬉しそうに微笑んだ。店主がそれに反応する。


「これよりガリガリだったのか姉ちゃん? そしたらそりゃまあ女には見られないかもなあ。骨だな骨。おかしいなんて言って悪かったな」


 ははは、と笑う店主に、ユサは苦笑いを返した。


「は、はは」

「よし、じゃあ行くか。ご馳走様、旨かったよ」


 ヒルマが立ち上がり、ユサに手を差し出してきたのでユサはそれを掴んで立ち上がった。


「仲のいいことで。毎度あり!」


 違う、そう言いたかったが、まあもう会うこともない相手だ。止めておいた。鞄を背負って隣を歩くヒルマの顔を見上げると、にやにやしている。味覚が戻ったことで頭のネジが一本吹っ飛んだか。


 目を輝かせてユサを覗き込んできた。


「ユサ、俺が触るの嫌がらなくなってきたな」

「無害だからな」


 にべもなく答えるとヒルマはまたあのふくれっ面をしてきたが、ユサはこれ以上取り合うのはやめた。ヒルマに害意がないのは事実だし、あまりヒルマを拒絶してまたあの揺らぐ目を見たくなかった。ただそれだけの理由だったが、それを本人に言ったところで調子に乗らせるだけなのは分かっていた。


 翠国すいこくを出た後は、ひたすら南下した。空気は段々と湿気を帯び、暖かくなってきた。翠国で見た永遠に続いていそうな地平線いっぱいに広がる草原はもう跡形もなく、今目前にあるのは翠国の草よりももっと濃い緑色をした、大きな葉が見事な植物らだった。色鮮やかな大きな花があちらこちらで咲き乱れ、大きな木も見かけるようになった。


 ヒルマがシャツの前を掴んでパタパタと扇ぎながら話しかけてきた。暑さを感じられている主張でもしているのだろうか。


「そろそろ瑠璃国るりこくに入ったかな」

「瑠璃国?」


 ヒルマが頷く。気温が高い為、ヒルマもユサも外套は腰に結んでいるだけで羽織ってはいない。その内長袖を着用するのもきつくなりそうな湿気だった。背中はすでに汗でシャツがくっついてしまっていて、非常に気持ちが悪い。


 ユサは記憶を辿る。瑠璃国。聞き覚えはあったが。


「別名青国せいこくとも呼ばれているな」

「ああ、それなら聞いたことがある。海……てのがあるんだっけ? 珊瑚や貝殻、海産物が主な産業」

「……相変わらず他国の産業はよく知ってるんだな」


 ヒルマの声色がおかしくなった。ユサがヒルマの方を向くと、さっと視線を逸らされた。ヒルマの癖に随分な態度だ。自然、ユサの声も段々と不機嫌なものに変わる。


「何だってんだよ」

「別に」


 かちんときたユサは、ヒルマのふくらはぎを横から蹴飛ばした。ヒルマが驚いた表情でようやくユサを見る。


「蹴るなよ」

「むかつくんだよ、お前のそういう態度」


 ユサがそう言ってもヒルマは何も答えない。だったらユサも黙ることにした。


「もういい」


 それきり、口をつぐんだ。







 町の中心部に近づいたのか、通りには人が多く行き交いするようになってきた。石を積んだ平家造りの家や店が立ち並ぶ。


 先を進むヒルマがチラチラとユサを振り返るが、ユサは腕組みをしたままムスッとして無視をする。多分財布をすった後の処理をお願いしたいのだろうが、何も言わないならやる義務はなかった。そのまま無言で進む。


 すると、ヒルマが急にくるりと向いて止まると、ひょいとユサを肩に抱き上げて横道に入ってしまった。怒鳴りつけようとも思ったが、口を開きたくはなかったのでぐっと口に力を入れて我慢する。


 狭い石造りの家と家の隙間に降ろされた。蟻塚の通路を思い出した。両手を伸ばせば壁に手がつく狭さだった。


「ユサ、話をしてくれ」


 ヒルマがユサに向き合う。ユサが一歩後退すると、ヒルマが壁にとん、と手をついて逃げ道を塞いだ。すぐに反対側に逃げようとすると、そちらも反対の腕でゆったりと、だが確実なスピードで塞がれてしまった。壁にじり、と追い詰められる。


 ユサはヒルマを無言で睨み付けた。きつく結ばれた口に目線をやったヒルマの情けない顔。


 ヒルマがもう一度言った。


「ユサ。頼む、何か喋ってくれよ」


 懇願するような声を出された。だが、ここまで意地を張ってしまうともうどう取り繕ったらいいのかユサにも分からなくなってしまって、結果そのまま黙り込むことにした。


「ユサ」


 上から覗き込むヒルマの不思議な青い目が揺らいだ。ああ、揺らがせてしまった。ユサは内心焦る。だが、何も口から言葉が出てこなかった。


「ユサ、さっきのは俺が悪かった」

「……先に黙ったのはお前の方だ」


 ようやく、声が出た。ユサの言葉を聞いたヒルマの安堵の表情といったら、子供か? と思う位ホッとしたもので、悪いことをしたのがこちらかの様な錯覚を覚えた。いやいや、先に突っかかってきたのはヒルマだ。ユサは悪くない。


 多分。


「つまらないことで嫉妬したのは俺だ。悪かった」

「嫉妬?」


 一体この男は何を言っているのか。人を逃げれない様閉じ込めておいて殊勝に謝ってきているこの矛盾。無茶苦茶だった。


「その、紅国こうこくの皇子だかに教わったんだろ? そのこと」

「そのこと?」


 ヒルマがじと、とした目でユサを見る。掘り下げるのは面倒くさそうだった。出来れば避けたい。だが、それは無理そうだった。この体勢では。


 ヒルマの顔が近い。怒った様な顔かと思ったが、これはもしかして照れているのか? 頬がほんのり赤かった。そして目が泳いでいる。


「他の国のこと」


 他国の産業についてのことか。ようやく思い至った。普通に底辺で暮らしてたら知るよしもないことをユサが知っている。それをユサに教えたのは、ヒルマの予想通り紅国の皇子だ。ユサのクソ主人だった男だ。


「それがユサの知識になってるのが悔しくて」

「ああ、あいつはお前よりも若造だもんな。腹も立つか」


 そんな単純なことだったのか。嫉妬は、ユサのクソ主人に対して嫉妬していたのだ。


 そうであれば何ら問題はない。


「まあお前ももうすぐ50だもんな! 腹も立つか!」

「いや、あの、ユサ」


 ヒルマの手が緩んだ。ユサが笑う。


「お前も大人ならもう少し寛容になれよ。な?」


 ヒルマの肩をポン、と叩いてヒルマの腕を表通りに向かって引っ張った。


「ほら行くぞ。たらたらしてんじゃねえよ」

「お、おう」


 戸惑うような表情だったが、まあ他人と他人だ、意思の疎通なんてこんな程度のレベルなのだ、きっと。


「海、見せてくれよ」


 笑顔で振り返ると、またあの眩しそうな目をしてヒルマが笑った。


「ああ、そうだな」

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