第31話 祈りを捧ぐ
人混みの中を、ヒルマに肩と頭を抱き寄せられたまま進んで行く。
ヒルマの気遣わしげな顔がユサの視界にチラチラと入ってくる。ルーシェが余計なことを言うから。ユサは内心溜息をついた。
気付かれないと思っていた涙の跡。本来ならきっと鈍感で気付かない筈だったヒルマにも気付かれてしまった。ここのところユサの涙腺はちっとも言うことを聞いてくれず、機会があればすぐに水分を出そうとしてくるので参った。
「ユサ、何か旨い物を食おう。な?」
「……米が食いたい」
朝食は麺類だったので昼は米類を食べてみたいが、あるだろうか。頭に乗せられたヒルマの手を持ってヒルマを見上げると、いつものあの青い瞳がじっとユサを見つめていた。今回はさすがに振り払わなかった。あの揺らぐ目は、何故かもう見たくなかった。
「もう大丈夫だから。ちゃんと歩ける」
ヒルマの手を離した。
「……おう。あのさ、ユサ」
「何だ」
もう涙は出ていない。なのにヒルマの声はまだ困ったような声色だった。馬鹿で考えなしで、お人好し。ユサの中のヒルマの評価にまたひとつ新規項目が追加された。
「あの犬はきっとエロガキが可愛がるから心配するな。エロガキも爺さんが付いてるから大丈夫だ。な? だから元気出せ」
そうか、ヒルマはユサが心配したり寂しくなったりして泣いていたと思っているのだ。ではまあ、そのまま誤解させておこう。その方が都合がいい、ユサはそう思ってひと言だけ返事をした。
「そうだな」
「な? 大丈夫大丈夫。そうだ、食べたら指輪に嵌める石も探そう。そしたらもうひと稼ぎしてから出発だ」
「あれをまだやる気か?」
昨日あれだけ財布をすった癖にまだ足りないらしい。随分と仕事熱心なことだ。ユサが呆れ顔をすると、ヒルマが口を尖らせた。
「仕方ないだろ。食い扶持がひとり増えて、しかもこんなガリガリじゃあもっと食べさせないといけないし」
「ガリガリで悪かったな」
でもまあヒルマのやる気はユサの為らしい。何だか理由が純粋で可愛らしいなと思った後、慌ててその考えを振り払う為頭をぶんぶん横に振った。ヒルマが怪しむように見ているが、無視した。無視無視。それがいい。
昨日から可愛い物に囲まれていたので、少し気が緩んでしまっているのだろう。多分。
気合いを入れた。
「よし! 食うぞ!」
「はは、食え食え」
ほっとした様子でヒルマがユサの頭を撫でた。
今度はユサも逃げなかった。
稼ぎは昨日よりも多く得ることが出来た。ヒルマの財布を抜き取るスピードは回数を重ねる毎に速くなり、ユサが取り出されたお金を受け取るのに手間取る程だった。何故この器用さを他に転用出来ないのか、本当に謎だった。
指輪に嵌める代わりの石も買った。ルーシェの瞳と同じ緑色の不透明の石を見つけたのでそれに決めた。「もっといいのを買えばいいのに」とヒルマは不満げだったが、闇夜に紛れないといけない盗賊がキラキラ光を反射する宝石を身に付けて盗みを働く訳にもいくまい。「これがいいんだ」と言ったら、もうそれ以上は何も言わなかった。
夕方には子犬の糞を洗い流した川まで来た。いい加減せめて身体を拭いてくれというユサの注文に「ひいいい冷たいいい」と言いながら川に裸になって入っていた。別に男の裸など見たくもないので、ユサは待っている間に指輪の石を爪で取り出し、買っておいた緑の石を代わりに嵌め、カンを爪でぎゅっと押して固定したりしていた。入れ替え作業が終わってもまだ川の方からジャバジャバと音がしている。多分相当垢がこびりついているのだろう。ならばまだかかりそうだった。
ユサは草の上に寝転んで、見事な赤に染まっていく空をぼんやりと眺めていた。
「ユサー? どこだー?」
しばらくすると、びちゃびちゃと音を立てながらヒルマが呼んできた。もしかしたらまだ素っ裸なのかもしれない。今はまだ起き上がらない方が無難そうだった。
「ここだ」
手をひらひらとさせて居場所を教えた。ふう、と息を吐く音が聞こえた。いなくなったとでも思ったのだろうか。
「俺まだ裸だから見ないでね」
「見ねえよ」
「もし見たかったら見てもいいぞ」
「うるせえ。早く服着てくれ」
ガサゴソ音がし始めた。少しずつ空が暗くなってくる。宵闇はもう近かった。
「ヒルマ、この後どうするんだ? 石を飲むんだろ?」
「おう。ただな、もう少し町から離れたいから暗くなる前に出来るだけ移動する。ユサはおんぶと抱っこ、どっちがいい?」
「あ?」
手ぬぐいを頭に巻いて新しい服を着たヒルマがユサの視界にぬっと現れた。ユサに手を差し出す。ユサは素直にその手を掴んで起き上がった。
「俺がユサを持って走った方が早い。さすがにこの辺りで野営をしたら怪しいだろ?」
確かにヒルマの足は速い。だが、何だか段々接触するのが当たり前になってはいないだろうか。契約には『触るな』という項目があった筈だが。そしてふとヒルマ側の要項に『攻撃をするな』という項目があったのを思い出した。今日もいっぱいヒルマに攻撃をした記憶が蘇った。金的もした。足も何度か蹴った。
「……これまで通りの持ち方で」
「おう。じゃあ急ごう」
ヒルマが外套を羽織り鞄を背負ってから、慣れた手つきでユサを軽々と抱きかかえた。ヒルマの身体は水浴びのせいか冷えていて、髪から水滴が垂れ外套の襟元が濡れてしまっている。全体的に雑なのだろう。
「ちゃんとしっかりしがみついてろよ」
「へいへい。ていうかどっちの方向に行くんだ?」
「
「……そっか」
なら、いい。もうあの国には近寄りたくはなかった。一度出た国だ。もう十分だった。
「よし。行く」
ヒルマが言い、次いで一気に走り出した。ヒルマの首にしがみついたユサは、夕日がどんどん地平線に沈んでいく様をただ静かに眺めていた。
ヒルマは日が沈むまで風を切って走り続けた。始めは冷えていた身体は今はもうすっかり火照り、こめかみからは汗が流れている。それでも大して息が上がっていないのはさすがというか。
大市場から空に反射する灯りももう見えなくなった。
ヒルマが歩みを止め、ユサを降ろして鞄を足元に投げた。
辺りはもう十分に暗くなっていた。近くにいるヒルマの表情もよく分からない。
ヒルマが胸元からネックレスを取り出した途端、辺りがそこから発せられる白い光を反射し始めた。
ユサは、ポケットに入れていた淡く光るふたつの石をヒルマに手渡した。
「こんなに一気に集められたのは久々だなあ」
ヒルマは嬉々とした表情で手の中の石を見つめていた。するとその場で膝をつき、石を両手で胸に当てまるで祈るかのように目を瞑った。
ユサが何事かと見守る中、ヒルマはじっとして動かない。
宵闇にぽつんと光るヒルマが何者かに祈りを捧ぐその様があまりにも神秘的で、ユサはこの男のことを美しいと感じた。
祈りが終わったのか、ヒルマが静かに目を開ける。ヒルマの青い瞳が光を反射して煌めいていた。胸に当てていた手をゆっくりと開くと、淡く光を放つふたつの石を口に含み。
そして飲み込んだ。
ユサは見た。その瞬間、ヒルマの身体全体から淡い白い光りが発せられるところを。それはまるで夢のような光景だった。
ユサが待っていると、ヒルマを覆う光が段々と弱まっていき、最後には首に掛かるネックレスの光だけが残った。
先程よりも光が弱い。光る石が3つからユサの分のひとつになったからだろう。
ヒルマがユサを見ながら立ち上がった。すると、急に顔を歪ませた。
「まっず……! 暑いし…!」
ヒルマのその言葉で、欠けていた何が戻ってきたのかをユサも知ることになったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます