第30話 犬の名は
気付けば太陽は真上に位置していた。
比較的短時間で石の洗浄作業は終わったと感じていたが、それなりに時間がかかっていたようだ。それだけユサも集中していたのだろう。市場には屋台が所狭しと立ち並び、自分を食ってくれと主張する匂いがあちらこちらから漂ってきていた。
ユサの腹の虫がぐうう、と音を鳴らした。
ここのところ毎食存分に食べていたので、以前は活動をやや控えていた胃腸が元気に働き始めたようだった。
「昼は何食べようか?」
隣を歩くヒルマが、ザルを小脇に抱えて火ばさみをカチカチ鳴らしながら聞いてきた。
この道具は一体どうするつもりだろうか。いくら洗ったとはいえ気分的にもう綺麗だとは思えない代物を、今後も持ち歩くつもりだろうか。今のようにカチカチ鳴らしながら。
「その前にこいつだよ。この子を連れたまま飯なんて食えねえだろうが」
ユサが子犬を腕に抱えながら返した。飲食店には動物を連れて行けないし、この子犬はどうも腹を空かせているようだ。石を思わず飲み込んでしまう位である。早くルーシェに渡して美味しい物でも食べさせてあげたかった。
尤もらしい顔をしてヒルマが頷く。
「そりゃまあそうだな。じゃあさっさと天幕の近くまで行ってあのエロガキがまた
ヒルマが手を伸ばし、ユサが頭に巻いているスカーフを前にぎゅっと引っ張った。すると、目の半分の所までスカーフが下がってしまった。
「あ、後ろが出た」
そうぼそりと呟くと、今度は後ろに引っ張る。すると前が先程よりも出てしまったようで額がスースーした。
「おい、余計酷くなってるじゃねえか。お前はもう触るな」
「……すまん」
小さく溜息をついたユサは子犬を地面に降ろすと、その場でしゃがみスカーフを解くと、改めて巻き直した。指で前後を確認する。髪は出ていないようだ。
所在なさげに突っ立っているヒルマを見上げる。
「これでいいだろ?」
「おう」
おうじゃねえ、誰のせいだと思ったが、どうせ不毛な会話が続くだけなのでそれ以上掘り下げて会話するのはやめた。大人しくユサの足元でつぶらな瞳でユサを見ていた子犬を再び抱き上げ、立ち上がる。
リン・カブラの天幕はもうすぐそこだった。
ヒルマが辺りをキョロキョロと見回す。背が高いからよく見渡せるのだろう。ユサはそれを羨ましく思った。人に見下げられない高さは気持ちが良さそうだ。
「ていうか、お前の方こそ目立つんじゃないか? でかいし」
「ふーん?」
聞いてるのか聞いてないのか微妙な答えが返ってきた。この様子だと、多分聞いていない。ユサは続けた。
「それに俺はそろそろどこかに隠れてた方がいいと思うんだけど」
「はぐれるのは困る」
一応聞いてはいたらしい。ぱっと見ルーシェが見当たらなかったのか、ようやくヒルマの視線がユサに向いた。
「これだけ明るいと、ユサを見失うと探せないから嫌だ」
ヒルマの表情は読めない。駄々っ子のような言い分に聞こえるが、探せなくなるのは事実だ。だが嫌だと言われても困る。結果、ユサは返答内容が考えつかずただ黙り込んだ。
ヒルマはユサの沈黙を肯定と受け取ったのか、先を続けた。
「俺があのエロガキがその辺にいないか探してみて、いなかったら天幕の中にぱっと入って連れてくるから、それまでユサは近くにいてくれ」
珍しく少し先のことを計画的に話しているように聞こえるが、よくよく考えると行き当たりばったりの杜撰な計画だった。
だがまあ、ヒルマがやるのであってユサがやる訳ではない。どうせこの男は何をしても痛くもなければ死にもしない。問題ないだろう。
そう結論付け、ユサが頷いた。
「分かった。よし行け」
「おう。じゃあここにいろ。動くなよ」
ヒルマが念を押す。
「分かったからさっさと行け」
しっしっと追いやる仕草をすると、ヒルマの青い瞳が一瞬揺らいだ。
少し。ほんの少しだけ、罪悪感を持った。
「あの、ヒルマ」
ユサが声をかけたが、ヒルマはそのまま背を向けると人混みに紛れてしまった。
目で追うと、他の頭の中に半分飛び出た青黒い髪の頭が見え隠れする。
「……どうすりゃ良かったんだよ」
距離感が分からなかった。
男にどうしても恐怖を感じてしまう瞬間があるユサにとって、ヒルマはあくまで男だった。時間を追うごとに気安くなっていっても、それでもやはりヒルマは男だ。
この子犬に対するような慈愛も、ルーシェに対するような警戒のなさも持てなかった。
「クウン?」
ユサの腕の中の子犬がユサを見上げ、次いでぷるぷると身体を震わせて水滴を払った。
ユサの腕からするりと抜け出すと、ユサの水色の瞳から流れ出た涙をペロリ、と舐めた。
ルーシェは膝を抱えて自室の絨毯の上に座り込んでいた。父親のリン・カブラに謹慎を言い渡されていたので、今日は1日外出禁止となっていた。
その父親は会合に出かけて不在。横には老人だけが控えていた。
「爺や……爺やは知ってたの? お父さんのこと」
白髭を揺らして老人がルーシェに応える。
「坊ちゃま、あまり気を落とされぬよう」
ルーシェが涙目で声を荒げた。
「そういうこと言ってるんじゃないよ! 何で爺やまで黒い服着てたの!? 僕だけ知らなかったの……?」
「坊ちゃま……」
ルーシェが声を張り上げた。
「みんな悪い人なの!?」
「完全な善人なんていやしないさ」
答える声は、この場にいる筈のない人間の声だった。部屋の仕切りの向こう側から声がした。
老人が構える仕草をしたが、ルーシェはそれを手で遮ると、仕切りに近づいて恐る恐るめくる。
見覚えのあるでかい男が佇んでいた。
「お前……何でまたここに」
仕切りを手で避けつつ男が呑気そうな顔を覗かせた。
青黒い髪にまばらに生えた髭。ルーシェの父親程ではないがそこそこ見栄えのいい顔をし、ルーシェの父親よりもずっと逞しい印象の持ち主。ルーシェが惹かれた優しいユサをひたすら守ろうと、ずっとルーシェと父親を牽制していた男がそこにいた。
「よう、エロガキ」
「僕はエロガキじゃないってば。何? 何の用?」
警戒するようなルーシェの様子に男が馬鹿にしたように笑った。
「お前に悪人になってもらいたくないって言ってるユサが外で待ってるぞ」
「ユサお姉ちゃんが!?」
ルーシェに迷いはなかった。さっと立ち上がり駆け出す。その後を老人が追った。
天幕の外に出ると辺りを見回す。いた。不安そうに細い身体を縮こませて立っている、儚げな美しい女性。
「ユサお姉ちゃん!」
「ルーシェ!」
ルーシェがかがんだユサの首に抱きつくと、ふたりの隙間から「ワフッ」と声がした。ルーシェが驚いて隙間を見ると、ふわふわの塊がいた。ユサを見る。
「ユサお姉ちゃん、この子……?」
「ルーシェに育ててもらおうと思って連れてきた。女の子だぞ」
「僕に?」
「ああ。俺は旅をしてるから連れていくのは厳しいけど、ルーシェならきっと可愛がってくれると思って。どうかな?」
ルーシェは即答した。
「僕、可愛がる! ユサお姉ちゃんだと思って、最後までちゃんと面倒みるよ!」
「ありがとう。頼んだぞルーシェ」
ユサが犬をそっと優しく持ち上げると、ルーシェに手渡した。子犬がルーシェの口をぺろんと舐める。
「わわ」
不慣れな様子でそれでも落とさぬよう子犬を抱えると、ルーシェが聞いた。
「この子、ユサって名前にしてもいい?」
ユサは驚いた顔をしたが、すぐに輝くような笑顔になって頷いた。
「ああ。俺だと思って優しくしてやってくれ」
「うん! ふふ、ユサ。よろしくね」
ルーシェが子犬に頬ずりをすると、ユサが立ち上がった。今度こそお別れなのだろう。
「ヒルマ、ありがとう」
ユサがルーシェの背後に老人と並んで立っていたヒルマに礼を言うと、ヒルマは少し驚いた様子を見せた。それから嬉しそうに微笑むと、ユサを護るように横に並んだ。まるで自分のものだと主張するかのように。
「そろそろ行こうか」
「……ああ」
長居が危険なのは皆が承知していた。ルーシェが天幕の方に駆け足で戻ってユサ達を振り返る。
「ヒルマ! ユサお姉ちゃんをちゃんと守れよ! 何泣かせてんだよしっかりしてよ!」
ルーシェが声を張り上げると、ヒルマが慌てたようにユサの顔を覗き込み、ユサがさっと顔を手で隠した。
ルーシェが手を振る。隣の老人が深々とお辞儀をした。顔を隠したままのユサの頭を手で自分の胸に引き寄せたヒルマが軽く手を上げ、そのまま人混みに紛れて、やがて見えなくなった。
しばらく見送っていたルーシェは、背後に静かに控える老人に笑いかけた。
「爺や、僕に犬の育て方を教えて。僕がちゃんと面倒を見るから」
今までとは何かが違うルーシェの様子に気付いたのか、老人は嬉しそうに目を細めた。
「承知しました。喜んで」
そうして、ふたりは大きな天幕の中に戻っていったのだった。
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