第20話 行方不明
結局、身体の火照りが取れる位は長い間、ユサとルーシェは風呂の天幕の前で待っていた。「お先に」と、風呂で一緒になった中年女性ふたりがユサ達に挨拶して去って行った。
念の為男風呂の方をルーシェに見てもらったが、そちらにもヒルマはいなかった。
仕方なく首長リン・カブラの天幕に戻ってみたが、客間には置かれたままのヒルマの鞄がポツンとあるのみ。食事をした広間には老人がいて片付けをしていた。所在を聞いてみたが、知らないとの返答だった。
ルーシェが一緒に天幕内をくまなく見て回ってくれたが、やはりヒルマはいなかった。リン・カブラは自室にいたようだ。それはルーシェが教えてくれた。さすがに主人がいる自室をジロジロと覗くわけにもいかないので、これはルーシェの言葉を信じることにした。
「どこに行ったんだあの馬鹿」
待っていると言っていたのに。これから家探しが待っているというのに、肝心の本人が石を持ったままいなくなってはどうしようもないだろうに。
「外で散歩でもしてるんじゃない?」
「散歩? あいつが? するかな……」
散歩という言葉が全く似合わない。この大市場に幾つか反応があるとは言っていたが、それにしてもこんなタイミングで勝手にひとりで探しに行くとは思えなかった。
何故なら、少なくともこの天幕内にはユサを含めふたつ反応がある。それを盗らずして、他所に目を向けるとは思えなかった。いくらヒルマが考えなしだからと言って、そこまで阿呆だとは思いたくなかった。
「あ、そうだユサお姉ちゃん、さっき言ってた僕からの贈り物! 見にきてよ!」
「ああ、さっき言ってたやつだな。じゃあ今から行こうかな? その間に戻ってくるかもしれないしな」
とりあえずこうしていても仕方ない。ユサは素直にルーシェの後をついて行った。ルーシェがユサの手を引っ張る。たとえエロガキだとしても、これだけ小さく愛らしければ嫌悪感は生まれない。ルーシェからは悪意が感じられないからかもしれなかった。
この天幕に入った時に教えてもらったルーシェの自室の仕切りをルーシェが開ける。中はこじんまりしていたが、床には上等な絨毯が広間と同じように幾重にも重ねられ、柔らかそうな大きなクッションが置いてある。天井からはハンモックが吊り下げられ、中には温かそうな毛布が畳んで置いてあった。部屋の一番奥には
「ユサお姉ちゃん、座って座って」
ルーシェがふかふかのクッションの前にユサを座らせた。一所懸命さが何とも可愛い。ユサも気付かぬ内に、ユサの口に笑みが浮かんでいた。行李の蓋を開け、ルーシェがユサの前に座った。手に持った小さな指輪を小さな手のひらに乗せて見せてくれた。
白い真珠のような可愛らしい丸い石が、少し黒ずんだ座金に固定されている。指輪の部分も黒ずんでいるが、これは恐らく銀だろうか。磨けば綺麗になりそうだ。
「これ、あげる」
もらってくれるだろうかと心配するような表情でユサを上目遣いで見るルーシェは、小動物のようだった。愛を欲しがる、小さな生き物。
「これ、どうしたんだ?」
子供のやることだ。もしかして大事な物だったらいけない。
「お母さん、いっぱい色んなの持ってたんだ。その中のひとつ」
やはり大事な物だった。ユサは指輪を持つルーシェの手を包み、握らせた。ルーシェが混乱していそうな顔をしていたので、説明をしてやる。
「お前これ形見ってやつじゃないのか? こんな簡単に人にあげちゃ駄目だろ」
「大丈夫だよ、まだいっぱいあるし、それに僕すごく嬉しかったんだ」
ルーシェの目が潤んでいる。吸い込まれそうな綺麗な緑色。これは本当に将来とんでもない美形になりそうだった。
「嬉しかった?」
「僕、こういう風な市場が開かれるとつい楽しくなっちゃって外に出ちゃうんだけど、何度か連れ去られそうになったことがあって」
「そんな上等な服着てひとりでうろついてりゃあそうなるだろ」
「ユサお姉ちゃん、聞いて」
「あ、悪い」
ルーシェが何か伝えようとしているのについ茶化してしまった。ルーシェは真っ直ぐにユサを見つめている。
「ユサお姉ちゃんを見た時、何となく雰囲気っていうのかな、お母さんみたいで優しそうだなって思ってつい服を掴んじゃった」
「ルーシェ」
「そうしたら、やっぱりユサお姉ちゃん優しかった。嫌な顔しないで抱っこしてここまで連れてきてくれた。僕はそれが嬉しかったんだ」
随分と大人びた発言だった。
「ルーシェ、お前いくつだ?」
「ユサお姉ちゃん、僕のお話聞いてた? 僕、6歳だけど」
「4歳位かと思ってた」
「何それ。確かにチビだけどさ」
可愛いほっぺを膨らませている。ユサは思わずルーシェの頭を撫でた。
「悪い悪い」
心からの笑顔が出た。すると、ふくれっ面をしていたルーシェも嬉しそうに笑った。
「僕、皆は僕がお父さんの子供だから優しくしてくれてるだけだと思うんだ」
「そんなことないんじゃないか?」
皆、ルーシェを見る目は慈愛に満ちたものだったようにユサには思えたが、立場が立場だとこういうこともつい考えてしまうのかもしれなかった。ユサには無縁の悩みである。
「まあだからとにかく僕は嬉しかったの! ユサお姉ちゃん、僕が誰かも知らなくても親切にしてくれて、あの男が何言っても僕を庇ってくれて、嬉しかったの! だからもらって」
そう言ってずい、と指輪をユサの方に差し出した。
「ちょっと黒くなってるけど、これユサお姉ちゃんのだなって思ったから」
可愛らしいことを言うではないか。思わず胸がきゅっと締め付けられた。もうこれ以上遠慮してもルーシェの好意を無下にすることになりそうだった。素直にもらおう。ユサはそう決めると、指輪をそっと摘まんで持ち上げた。
「ルーシェ、ありがとう」
純粋な好意とはこんなにも嬉しいものなのだろうか。そんなもの、経験したことがなかった。皆、打算、欲望、そんな感情ばかりだった。ヒルマについては……読めない。あいつは多分何も考えなさすぎているせいだろう。
「はめてあげる」
にこにこしながらユサの手の指輪を取ると、ユサの細い指にはめていくが、小指、薬指にはぶかぶかだった。中指にはめてようやくサイズが合った。確かにルーシェの言う通り、しっくりくる気がした。違和感がない。元々ユサの物だったのかのように。
ルーシェがユサの手を小さな両手で包んだ。ルーシェのしっとりする肌が温かかった。
「ユサお姉ちゃん、もっと食べなよ。ガリガリじゃないの」
「……そうだな、もう少しちゃんと食べるようにする」
食べたくても食べられない環境だったからなのだが、そんなことをこの子に説明したところで何にもならない。これからはヒルマと一緒で食事はヒルマが何とかすると言っていたから、その内もう少し肉が付くかもしれなかった。
そう、そのヒルマだ。
「ルーシェ、ちょっとだけ表を見てくる。お前はもう寝ろよ」
「あいつを探すの?」
ユサは微笑みながら頷く。ルーシェは不満そうだったが、ヒルマにはユサと一緒にいなければならない理由がある。だからこそ契約を交わした。そして、ヒルマといればユサは安全に食事にありつくことが出来る。お互い、一緒にいなければならない理由があるのに、あの男がユサを置いてどこかに行くなんてやはりあり得ない。
であれば。
何かあったとしか思えなかった。だからといってユサがどうこう出来るものではないだろうが、護身用にナイフはないとさすがに心許なかった。ユサは立ち上がると、ルーシェの頭をもう一度撫でた。
「また明日な」
「うん、ユサお姉ちゃんも早く寝てね」
「ああ」
そう言うと、ユサはルーシェの部屋から出た。客間に行くと、やはりヒルマの鞄がぽつんとあるだけ。その鞄の中にしまってあったユサのナイフを取り出した。腰の帯に鞘をぐっと押し込む。
立ち上がり、天幕の外に向かった。
外気を感じた。
見上げると、リン・カブラが揺れる炎を反射して妖艶に微笑んでいた。
「おやユサさん、どちらへ行かれますか」
「いや、あの
振りほどこうとするが、見た目以上のリンの力に振りほどくことが出来ない。男の笑みが怖かった。あのルーシェの父親だというのに、こんなにも触れられるのが嫌だった。この男からは感じることが出来る。欲望と打算とを。
「夜も大分更けてまいりました。夜のひとり歩きは危険ですよ」
「……悪いが、離してくれないか」
「何故です? あの男は中におりますよ」
「え?」
先程探して、見なかったのはこの男の部屋だけだった。ということは。
ユサがリンを睨みつけた。
「お前、あいつに何した」
リンが楽しそうに笑った。弱者を踏みつけ笑う、汚い笑いだった。
「まだ何もしてませんよ。するのはこれからです」
「どういうことだ!」
リンが笑いながら、ガ! と腕でユサの首を締めあげた。喉が締め付けられる。両手を隙間に挟み少しでも隙間を作ろうと抵抗するが、リンの力の方が強かった。
分からなかった。何故、こんな貧乏そうなヒルマとユサを狙うのか。
「こんなところでお会い出来るとは思っておりませんでしたよ。――
ユサの耳元でリンが囁いた。実に嬉しそうな声色だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます