第19話 蒸し風呂

 ルーシェがユサの手を引っ張る。その反対のユサの手は、何故かヒルマが固く握ったままだ。ルーシェが時折ユサを振り返っては、その後ろにぴったりとくっついているヒルマを忌々しげに見上げていた。

 両手を繋がれて、歩きにくいことこの上ない。


 後ろに続くヒルマを振り返って見上げると、まあ機嫌の悪そうな顔をしている。何がそんなに不満なのか。叱りつけてやりたかったが、ここにはルーシェがいる。手を振り払いたいが、怪しく思われると面倒だ。仕方ないので我慢した。


「こっちだよ!」


 ルーシェに導かれて天幕の外に出る。天幕の入り口には篝火かがりびが焚かれていて明るい。あちこちで同じようにそれぞれの天幕の前で篝火が焚かれており、その灯りが天幕に反射していてまるで昼間みたいだった。


 空気は色々な食べ物の香りで満ちているが、通り抜けていく風は清々しく首筋を撫でる空気が気持ちいい。


 ユサが空を見上げると、そこには一面の星空が広がっていた。油断すると吸い込まれてしまいそうな暗闇に、少々心許なさを感じる。狭くて暗い蟻塚にずっと隠れるように住んでいたせいだろうか、あまりにも広さを感じると落ち着かなかった。


 首長の天幕を出てすぐ左手を、ルーシェに引っ張られながらぐるりと沿って歩いていく。天幕の裏には小さな天幕が所狭しと設置されており、中からは楽しそうな声が聞こえてきていた。これらは皆リンがいう親類の天幕なのかもしれない。


 後ろに繋がれた手が、違和感があってムズムズした。ルーシェに気付かれなさそうなこの隙に振りほどいてやろうか。そう思ったが、握られた手は痛い位きつく握られたままだった。何なんだ一体。ヒルマは勝手すぎて理解が出来ない。


 首長の天幕の丁度裏あたりになるだろうか、他とは少し雰囲気の違う天幕があった。他の天幕より一段高く設置されており、入口の手前に木の階段が二段ある。天幕の入口自体はひとつだが、中を入ってすぐに二手に分断されているようだった。


 天幕の入口には、一体いつ申しつけられたのか、あの爺やと呼ばれた老人がユサとルーシェの着替えを手に持って待機していた。もしかしたらこの老人はふたり位いるのかもしれない。そう思える程この老人はどこにでもいた。


「ユサ様、こちらをどうぞ。坊ちゃまのはこちらです」


 ささっとふたりに着替えを渡すと、「私はこれで」と去って行った。老人の割には動きが素早かった。


 老人が立ち去るのを見届けてから、ルーシェが緑の瞳をキラキラと輝かせてユサを振り返った。


「ここは一族の共同風呂なんだ。女性は右、男性は左だよ! 僕はまだ子供だから、ユサお姉ちゃんと一緒に右に入るんだ、ふふ」


 実に嬉しそうに宣言した。さすがにあの女好きの血を引いているだけあった。遠慮も恥じらいもない。


「さ、行こうユサお姉ちゃん! あ、お前はここで待ってるんだよね? じゃあねー!」


 ルーシェが、勝ち誇ったようにヒルマに向かって元気よく手を振った。ヒルマが目を細めてルーシェを無言で見下ろした。


 ようやくユサの手を離したので、ユサは汗ばんでしまった手のひらをルーシェからは見えない角度の服の裾で拭った。それを見てヒルマが一瞬悲しそうな目をしたが、気づかなかったふりをする。


 そもそも握る必要などなかったものだ。


「おい、エロガキ」

「僕はエロガキじゃないぞ」


 反論するルーシェを無視し、ヒルマは左右をさっと確認する。口の端が意地悪そうに上がった。


 唐突に、ルーシェのこめかみを両手でグリグリし始めた。目が真剣だった。


「イタタタ痛い痛い! 何すんだよ!」

「絶っっっ対、触るなよ」


 ヒルマ自身は触りまくってたくせによく言うなと呆れたが、触られないに越したことはないので黙って見ていた。


 ルーシェが助けを求めてくる。


「ユサお姉ちゃん! 見てないで止めてよ!」

「……いや、まあその、触るなよ」

「そういうことだ」


 ヒルマがにやりとした。ユサはこんなむかつく笑いでも、むっとされてるよりは大分いいもんだなどと思ってしまった。


 やはり、どうしても怒る男は怖い。


 先程ヒルマが怒鳴った時はただ怖かった。怒気をはらんだ声も怖かった。どうしても身がすくんでしまうのだ。身体に染み付いてしまった反射なのだ。慣れるのは無理だった。


「わ、分かったよ!」

「一度言ったことは守れよ」

「分かったってば! だから離してよ!」

「約束だぞ。ユサを泣かすんじゃねえぞ」


 ヒルマの最後の言葉に、ユサはどきっとした。


 ヒルマはルーシェから手を離し、天幕の入口の脇に腕組みをして立った。顎をくい、とする。


「ほら、さっさと行ってこい」

「ユサお姉ちゃん、ほら!」


 ルーシェが再びユサの手を取り急いで引っ張って行った。もう早くヒルマから離れたいのだろう。ふたりはヒルマの前を通り過ぎる。


「あ、あの、じゃあ行ってくるから」

「おう」


 欠伸を噛み締めながら返事をしたヒルマが天幕の仕切りに隠れて見えなくなった。


 中に入ると右に通路が続いていて、次いですぐ左に曲がる。成程、こうしておけば間違って入ってきた人間に見られることもない。更にもう一度右に折り返すと、天幕沿いに台が設置されており、ルーシェがその上に着替えを置いた。柔らかそうなタオルがきれいに畳んで積み上げられている。先客がいるのだろう、台には他の者のだろうと思われる服が畳んで置いてあった。


「ここで脱ぐんだよ。で、そこのタオルを持っていくの」


 そういうとさっさと服を脱ぎ始めた。ユサもルーシェを真似て着替えを台に置き、覚悟を決めてばっと脱ぐ。サラシは解くのが面倒だが、今回は少し緩めに着けていたのでスルスル取れた。くるくると巻き上げて畳み、台の上に置く。


「こっちだよ!」


 裸になったルーシェがタオルを一枚腕にかけて、ユサの手を引っ張った。目線が胸に来る。やはりエロガキだ。


 更にもう一度折り返した先は、それなりの広さの空間になっていた。見ると、床に板が張られているが、隙間から蒸気が吹き出していて、辺り一面湯気で白く奥までよく見えない。2か所程大きな水瓶があり、その上に柄杓ひしゃくが置いてある。板の隙間を覗くと、石が敷き詰められているのが見えた。


「お外で薪を焚いてて、そこのお湯が湯気になって中に入ってきてるんだよ!」

「へえ」


 天幕の下の方には、ルーシェが言うように所々湯気が吹き出している穴があった。


「この石は?」


 板の間から見える石を指さすと、ルーシェが誇らしげに教えてくれた。


「ここに水瓶のお水をかけると湯気に変わるんだよ!」

「面白いなあ」

「あ、身体はタオルで拭きとってね。熱くなったらお水をかけるんだよ」

「分かった」


 用意されている木の板で出来たベンチに座ると、奥に座っている中年の女性ふたりが会釈をしてきた。


「ルーシェ坊ちゃま、こんばんは」

「そちらはどなた?」

「ふふ、可愛いでしょ、ユサお姉ちゃんて言うんだ!」

「あ、どうも初めまして」

「初めまして。あら、確かにルーシェ坊ちゃまが好きそうなお胸を、あらうふふ」


 手前にいる方の女性が口を押さえて笑った。ユサは自分が何故ここまで急激にルーシェに懐かれたのか、その理由をようやく理解した。胸だ。可愛い顔してとんでもないエロガキだ。ユサは隣に座ってにこにこユサの胸を見ているルーシェに呆れた目を向けた。そっとタオルで隠した。


「ルーシェ、お前な……」

「減るもんじゃないし隠さないでよ」

「減る」


 心が。


「まあ……いい。ルーシェ、髪を洗いたいのはどうすればいい?」

「あ、じゃあ僕がお湯かけてあげる!」


 そんなことを言い合いながら、ユサは久々の風呂を堪能することが出来て嬉しかった。ルーシェにジロジロ見られるのは少し居心地が悪いが、まあ子供だ。それに、これまで溜まった汚れや垢が蒸気で浮き出てきて、タオルでさっと撫でると綺麗に流れ落ちていく。これは気持ちよかった。最後にぬるま湯で全身を流すと、下の石がジュッと音を立てて蒸気が立ち昇った。


 中年女性たちはまだ中にいたが、ユサ達は先に出ることにした。外でヒルマを待たせているので、あまり長いこと待たせるのも悪い気がしたのもあった。


 タオルを絞り、それでまた身体を拭く。新しい肌着は女性用の上下だった。


「お姉ちゃんサラシは色気ないからやめなよ」

「色気はいらねえ」


 だが、そこそこ汚れているのでそろそろ洗いたいのもあったので、素直に女性用の肌着を身につけた。服はリン・カブラが着用していたような少し裾が長い前合わせの服だが、刺繍などはなく至ってシンプルだが鮮やかな水色をしている。下に履くズボンは膝下までで、やや細身だ。あの老人がユサのサイズを正確に把握していたのだろうか、上は多少ゆったりだが下はぴったりだった。


 タオルは台の下にある籠に入れた。入って来た時と同様、折り曲がった通路を進むと外の空気を感じられた。涼しくて気持ちいい。


「ヒルマ、お待たせ……あれ?」

「ユサお姉ちゃん、どうしたの?」


 ヒルマが立っていた場所に、ヒルマがいない。周りを見渡しても、あのでかい男の姿はなかった。


「ヒルマー?」


 少し大きな声で呼んでみるが、返事がない。どこに行ったのか。


「先に戻ったんじゃないの?」

「ヒルマがそんなことするかな……」


 あの雰囲気ではいつまでも待っていそうだったが、相当飲んでいたのでもしかしたら用足しにでも行ったのかもしれない。


「ちょっとだけ待つよ」

「えーユサお姉ちゃん、あんなのに甘すぎ」

「あんなのって」


 まだ身体は火照って汗が吹き出ている。多少外で待ったところで問題はないだろう。ふたりは他愛もない話をしながらしばらく待った。


 待ったが、ヒルマがここに戻ってくることはなかった。

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