第17話 女好き
この天幕の主人、首長リン・カブラについて無類の女好きと言い切ったヒルマは、ひそひそ話を続ける。
「俺のことなんか完全無視だったろ? とにかく女、女、女なんだよ。しかもあの顔だ、選り取り見取りな上に全く遠慮がないらしい」
「はあ」
ユサは思わず気の抜けた返事をしてしまったが、ヒルマの表情はあくまで真剣そのものである。
「ルーシェだって見たろ? 完全にあの男の血を引いてる。ずっとユサしか目に入ってなかったじゃないか。胸が柔らかいだの何だの余計な情報を与えやがって、ユサ分かってたか? さっきリン・カブラの前に座ってた時、あの男ずっとユサの胸見てたぞ」
全然気付かなかった。
「ユサは細い癖にしっかりあるから、多分目を付けられたぞ。始めから夫婦だって言っておいて正解だったな」
「おい待て、お前どこまで見たんだ」
「仕方ないだろ、隙間に挟まってるかもしれなかったじゃないか」
隙間とかいう問題じゃない。折角少し引いてきた頭の痛みがぶり返してきた。
「……サラシ返せ」
「今つけるのか? 苦しくなるぞ」
「自衛の為だ」
ヒルマは横に置いてある鞄から大人しくサラシを取り出し、ユサに渡した。ユサが待つ。待つが、一向にヒルマは動かない。
「……何してる」
「何してるって、何が」
「いや、ほら、これ巻くから」
「夫婦なのに俺が出て行ったらおかしいだろ」
ユサがあからさまに嫌そうな顔をしたのを見て、またニヤリと笑った。こいつは人の嫌がることをやるのが好きなのかもしれない。ユサはそう感じた。
「仕方ねえ、せめて後ろ向いてろ」
「はいはい」
もう諦めた。どうせ一度見られた裸だ、ヒルマには性欲もない。我慢だ、我慢我慢。
ユサは呪文のように唱え、ヒルマが背を向けて座ったのを確認してから、思い切ってシャツを脱いだ。急いでサラシを巻いていく。あまり締めると、確かにヒルマの言う通り苦しくなりそうだったので多少緩めに巻く。ようやく巻き終わり、久々に安定した胸に満足する。端を隙間に織り込んで完成だ。シャツを手に取った。
「ユサさん、失礼しますよ」
リンの声がしたと思った瞬間、いきなり仕切りが開いた。リンがおや、という顔でユサの肩から胸にかけて舐めるように見る。
「おい! いきなり開けるな!」
「わ!」
ヒルマが怒って、ユサをリンの視線から隠すように抱きすくめて、自分の身体でユサを包み込んだ。
ユサの心臓がバクバクいっていた。不思議と先程から近寄られる怖さは減っていたが、ヒルマの怒鳴り声が怖くて、身がすくんでしまった。自分に言われた訳ではないのに、怖かった。震えたくないのに、震えがきた。
「ああ、これは失礼。お着換えの最中でしたか。お食事の支度が出来ましたので、先程の広間においでいただけたらと思いましてお声がけさせていただきました」
ニコニコ言うが、立ち去らない。ヒルマの声が、怖かった。
「……いいから、早くそこ閉めてもらえるか」
「ああ、すみません。それではお待ちしておりますね」
リンはそう言ってようやく仕切りを閉じた。それを確認すると、ヒルマはパッとユサを離した。
「悪い、怖かっただろ? つい、咄嗟に」
ユサの顔を覗き込み、ユサの目に涙が溜まっているのを見た瞬間申し訳なさそうな顔をした。
「……ごめん」
何か返事をしたいが、手も顎も震えていうことを聞かない。こんなにも、まだ怖い。
ヒルマがふう、と息を吐くと、ユサの手からシャツをさっと手に取って、ユサの頭からがぽっと被せた。
「腕通しとけ」
そう言うと、くるりと後ろを向いてまた胡座をかいた。
何も言えないユサは、その少ししょんぼり猫背に曲がった背中を眺めている内に、少しずつ、少しずつだが震えが治まっていくのを感じていた。
怖かったのはこの男の怒った声に対してだったのに、この男を見て落ち着くなんて矛盾だらけだ。
この男は、馬鹿で考えなしでやることが滅茶苦茶で。
ユサに優しさをくれる。
嗚咽が止まらなくなった。袖を通す前の服の袖で目を覆った。
涙なんて、ただの水分の無駄遣いな筈なのに。
ユサの前で背中を向けるヒルマが、青黒いボサボサの髪をぐしゃ、と潰していた。
「先程はお着替え中に申し訳ありませんでした」
ニコニコと、先程ユサの肩から胸にかけて露骨に舐め回すように見ていた首長リン・カブラが、広間に入ってきたユサとヒルマを見て立ち上がった。
ヒルマがユサを庇うようにユサの前に立ち、リンに軽く会釈をする。
「遅くなって申し訳ないな。
と、『妻』の部分を強調して言った。明らかな嫌味だが、リンは変わらずニコニコしている。普通に考えると夫の前で妻のあられもない姿を見てしまったらもう少し済まなさそうな謙虚な態度を見せるものだろうが、この男にはそういった素振りは一切なかった。もしかしたら、この自分に見られて光栄だろう位思っているのかもしれない。
「ご説明もなくきついお酒をお出ししてしまい申し訳ありませんでした。お加減はいかがですか?」
リンはあくまでユサに話しかけてくる。この男が無類の女好きというヒルマの話は、やはり事実のようだった。こんなガリガリの上に目の前に夫と名乗る男が一緒にいても一切ぶれないこの態度。徹底している。それだけ、どんな相手でも落とせる自信があるのかもしれなかった。だとすると、それはユサの一番嫌いとするタイプだった。見目に自信だらけの男は大っ嫌いだ。たちが悪い。
3人の横では老人が絨毯の上に食事を並べ始めていた。湯気が立ち昇る黄色のスープに、何かの肉を焼いて切ったもの、見たことのない赤い小さな果物もある。かなり美味しそうだった。これは是非とも早く食べてみたい。ユサの腹がぐう、と鳴った。
「まだ少し頭が痛いけど、大分良くなった。あの、客間を借りてしまって悪かった…です」
ユサは、しばらく使う機会のなかった敬語を使ってみた。だがあまりにも久々でうまく出てこない。
先程恐怖の波が去った後、この後どうすべきかをヒルマと話し合った。ヒルマは始めは恐る恐るといった風にユサに接してきたが、ユサの態度が元に戻ったのが分かってからは、ヒルマの態度も元のものに戻った。
ヒルマは先程のことには何も触れなかった。少し、ほっとした顔をしていたように見えた。
結論としては、とにかく何とかこの天幕で一晩過ごせるように話を持っていくには、ヒルマよりもユサが交渉した方がいい。女好きには女だ。そう決めたばかりなのに、この態度。
ユサは内心小さく溜息をついて、隣に座るヒルマをチラリと見上げた。こういうのは怒気というのだろうか。それが目の前のリンに向けられ、ヒルマはそれも隠す気はなさそうだった。
やりにくいことこの上ない。やはり考えなしは駄目だ。後先考えずに気分だけで行動すると、ろくな結果にならない。これ以上ヒルマに邪魔される前にさっさと済まそう。早く食事にありつきたいのもある。ユサはそう決めると、リンの目をじっと見た。緑色の瞳が緩んでユサを見返してきた。一切逸らされない。さすが噂にのぼる程の女好きの異名を持つだけあった。
「あの、実はまだ今日の宿が決まっていない……んです。決める前にルーシェに会ったもんで。リンさんは、もしかして宿屋に伝手があったりしねえ……しませんか?」
リンがおや、という顔をした後、またあの柔和な嘘くさい笑顔になった。最高の笑顔の作り方を熟知している人間の笑顔だった。
「もう暗くなってまいりましたからね、今から宿を取るのは今日は無理かもしれませんねぇ。伝手はありますが、それよりも今夜はこちらに泊まられてはいかがですか?ルーシェも喜びますし」
あっさりと乗ってきた。これはすぐにでも乗っかるべきだろう。ユサは遠慮する態度など見せないでおこうと思った。ここは、確実にいきたい。
「え、いいのか……ですか? 助かります、ありがとう」
「いえいえ、そもそもご迷惑をおかけしたのはうちのルーシェですし」
にこにこ。じっとユサの目を見つめたまま、リンが笑った。キラキラの笑顔が気味悪くて仕方ないが、ユサは引きつりながらも辛うじて笑顔を返した。この機会を逃すと、ヒルマの探し物が遠のいてしまう。契約した以上、それは避けたかった。
「は、ははは」
「ふふふ、可愛らしいお方ですね」
「俺の妻だからな、可愛くて当然だ」
ぶすっとしてヒルマが口出ししてきた。もう少し愛想よくしてもらいたいものだが、まあもうこういう愛想のない男という設定でいくしかもうないかもしれない。ユサは諦めることにした。
「これの愛想がなくて申し訳ない、です」
「いえいえ、奥様であるユサさんを大切になさってるのは分かりますから、お気になさらず」
まあ、ユサはヒルマの欠けた何かのひとつだ。大切にするのは当然かもしれない。ユサがいなくなってはヒルマはずっと欠けたままなのだから。そう思ってちらっと隣に不貞腐れ顔で胡坐をかいているヒルマを見た。ユサの視線に気づくと、目元が少し優しくなった、気がした。
「ではそろそろ食事にしましょうか。爺や、ルーシェを呼んで来てもらえるか?」
「は、すぐに」
老人が腰を少し曲げたままスタスタと仕切りの奥に行った。「坊ちゃまー坊ちゃまー」とルーシェを呼ぶ声が遠くから聞こえる。あのチビはまたどこかに行ってしまってるんだろうか。ユサにヒルマが張り付いているものだから、もしかしたら別の女を物色しに行ったのかもなどと酷いことを考えたが、どうもそれはユサの勘違いだったらしい。老人に連れられて広間に入ってくると、起き上がっているユサを見てぱっと可愛い笑顔になった。
「ユサお姉ちゃん、もう大丈夫なの?」
「ああ、さっきよりは大分いい」
ルーシェが嬉しそうにヒルマとは反対側のユサの隣に座った。
「よかった! 僕、ユサお姉ちゃんにあげようと思ってちょっと探し物してたんだ。後で渡したいから、後で部屋に来てね」
「? ああ、分かった」
何だかよく分からないが、くれるという物は貰っておくのがユサの信条だ。軽く頷いたところ、ルーシェの笑顔が満開になった。やはり子供は可愛い。ユサも自然と笑顔になった。
そんなふたりを眺めるリンは獲物を狙う鷹のような目でユサを見ていたが、ユサは気付かなかった。だが、ヒルマはそんなリンを警戒するようにじっと見ていた。
リンは、自分に厳しい視線を寄こすヒルマをちらりと見て、薄く笑った。
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