第15話 泥酔
ヒルマの腕の中に、ユサが倒れ込んだ。
首長のリン・カブラは慌てたように立ち上がり、急ぎ老人に水を持ってくるよう言いつけた。ルーシェは何が起こったのか分からず、半泣きになってうろうろしているだけだ。
ヒルマは抱き抱えたユサの心臓の音と呼吸を耳を近付けて確認すると、ユサを軽々と抱き上げてリンに言った。
「どこか横になれる場所を借りられるか?」
「はい、すぐに。爺や! お嬢さんを寝かせられる場所をすぐに用意しなさい!」
水差しと空の器を持ってきた老人は、リンのその言葉に曲がっていた腰を少し伸ばし、急ぎヒルマを案内すべく先頭に立った。
「こちらへどうぞ。客間となっております」
仕切りの布を開けると、こじんまりとした部屋があった。先程いた広間と同じように地面に絨毯が敷き詰められ、大きめのクッションが置かれている。
ヒルマはユサの身体を横向きにして顎を少し上向きにさせて寝かすと、老人が持っていた水差しと空の器を受け取った。
「何か桶のような物も借りられるか? 吐くかもしれん」
「すぐにお持ち致します」
「あと、何かかける物を。身体が冷えてる」
「そちらもすぐに」
老人が仕切りを除けて出ていくと、泣き顔のルーシェが代わりに入ってきた。
「ユサお姉ちゃん、どうしたの? 大丈夫なの?」
いきなり倒れてしまったので驚いたらしい。不安げに自分の手を胸の前で握り締めている。ヒルマが苛ついた顔をしてルーシェに
「ただ酔って倒れただけだ。水飲ませて寝かせとけばその内目を覚ますだろ」
「酔って……? ユサお姉ちゃん、お酒駄目なの?」
ユサと出会って間もないヒルマがそんなことを知る訳がないのだが、当たり前のような顔をしてルーシェに言った。
「強くないくせに、あんな強い酒を一気飲みにするから。甘かったからな、気付かなかったんだろう」
「うう……ごめんなさい、ユサお姉ちゃん」
緑色の瞳を潤ませているが、ヒルマは相変わらず冷たい。そうこう言っている間に、老人が温かそうな毛布を2枚程持ってきてヒルマに手渡した。老人がルーシェに声をかける。
「さ、坊ちゃま、こちらへ」
「え、だって僕ユサお姉ちゃんが心配だよ! ここにいたい!」
ルーシェが駄々をこねる。そんなふたりの様子を冷めた目で眺めていたヒルマが、毛布でユサを包みながら口の端を歪ませてルーシェに言った。
「これからこいつに水飲ませて身体温めるから、ガキは見るんじゃない」
「え? 何で?」
ヒルマが面倒くさそうに溜息をついて、ルーシェの後ろでうろうろしている老人に声をかけた。
「爺さん、こいつをさっさと連れてってくれないか?」
「は、はい! 申し訳ありません、すぐに! さ、坊ちゃま行きますよ!」
「うう……」
半泣きのルーシェが老人に連れられて去って行った。ヒルマはふう、と息をつくと、ユサの上体を起こす。ユサは小さく震えていた。
「ユサ、水飲めるか?」
声をかけるが反応がない。器に水を注いで口元に持っていくが、紫色になった唇からは何の反応もない。いったん器を絨毯の上に置き、頬をぺちぺち叩く。
「おーいユサ」
本人が起きていたら怒って蹴りを入れてきそうなことをするが、相変わらずユサの反応はない。
ヒルマはふう、と小さく息を吐くと小声で恐る恐るといった風にユサに話しかけた。
「ユサ、頼むから怒るなよーこれは不可抗力だぞー」
床に置いていた器を持ち上げ、ヒルマは中身を口に含んだ。器を床に置き、片手でユサの頬を挟んで指にぐっと力を入れ、ユサの口を開ける。顔を近づけ、自分の顔を斜めに傾けて、水が口からこぼれないようユサの口を塞いだ。ゆっくりと水を流し込む。しばらくして、ユサが口の中に溜まった水を嚥下した。
「よしいい子だ。もう一回いくから、絶対怒るなよー」
ヒルマは昏倒しているユサにもう一度声をかけると、床に置いた器に水差しから水を注ぎ入れそれをもう一度カパッと口に含み、器を絨毯の上に置いてまたユサの顔を押さえて口を開け、口移しした。ユサが嚥下したのを確認して、今度はユサの首と手に順次触れていく。
「ユサ、冷えてるからだからな、怒るなよ。あー怒りそうだけどごめんなー」
ヒルマはそう言うと自分が着ていたシャツをバッと脱ぎ床にポイっと投げた。自分の首にかかっている小石のネックレスをチラッと見、口の端を緩ませる。
変わらず小さく震えるユサを見てしばらく停止していたが、ユサのシャツの一番上のボタンだけ外した。ヒルマはクッションの上に自分の体を上半身を少し起こすように横にし、脱いだ上半身の上にユサを横向きに寝かせて自分に密着させた。
「よいしょっと」
毛布をユサの上からかけ、ヒルマの体温が逃げないように自分ごと包む。冷えているユサの腕も包むように抱き締めた。
「……寝てりゃあただの可愛い女の子なのにねえ。すぐ足と口が出るんだから全く」
ヒルマがユサを暖めながら呟いた。その顔は、被保護者を見守る保護者のような慈愛に満ちたものだった。
ぐるぐる、ぐるぐる目が回る。頭がガンガンする。胃が痛い。身体が熱い。喉が渇いた。気持ち悪い。
頭の中で、ただ言葉が羅列されていく。
口の中に暖かい液体が入ってきた。ゆっくりゆっくり入ってくる。水だ。ほんのり甘味を感じる。ユサが嚥下すると、また少しずつ口の中に入ってきた。もっと欲しかった。この喉の渇きには、こんな量では足りない。もっと、もっと。
そう思った時、ユサの口から温かみが離れて行ったことに気付いた。顔の皮膚が急にひんやりとする。
少しそれが惜しく感じ、ユサは痛む頭を我慢して薄らと目を開けようとした時、また温かみが戻ってきて口の中に温かい水が入ってきた。それを吸うように飲み込み、そして。意識が、急激に戻ってきた。
まじか。
目を開けると、どう考えてもこれはヒルマだろうという青黒い髪が視界に飛び込んできた。無精髭の頬がすぐ目の前にある。
何やってんだこいつ。ぐらつく視界の中に、裸のヒルマの首筋から肩にかけてのがっしりとした身体が見えた。何でこいつ裸なんだ? どうなってる。
混乱する思考を必死で自分のコントロール下に置こうとするが、目が回って定まらない。
ヒルマの温もりが顔から離れた。不思議と怖くなかった。
「あ、ユサ起きたか。生きてるな?」
「ちょっと待て……状況がよく分かんねえ」
ズキズキする頭が思考の邪魔をする。ヒルマの固くて大きな手のひらが、ユサのおでこに当てられた。温かく感じた。先程から温かいと思っていたのは、ヒルマの体温だった。
「まだ少し冷たいな。寝てな。ルーシェんちにいるから、多少ゆっくりしても問題ないだろ」
ほっとしたような顔で言う裸のヒルマの上に寝かされ、よく見ると毛布でぐるぐる巻きにされているが、状況がよく分からない上に頭痛が酷い。本当によく分からない。そしてこのまま裸の男の上に寝るのは問題だった。
ユサが顔をしかめたからだろうか、ヒルマが心配そうに聞いてきた。
「もっと水欲しいか? もう自分で飲めそうだな。飲むか?」
「……ちょっと待て、どういう意味だ」
痛む頭を我慢しながら目の前のヒルマを見るが、目がいまいちちゃんと開かない。だが、ヒルマが顔をヒクヒクさせて微妙な笑いを浮かべているのは感じ取れた。
「ヒルマ……?」
ユサの声色が剣呑なものになったことが分かったのだろう、ヒルマが観念したように告白した。それでも腕はユサに回したままだ。
「ユサ、あんた酒飲んでぶっ倒れたんだよ。水は飲まない、身体は冷たくなる、で仕方なく俺が心を込めて介抱してあげた訳だ。だから怒るな」
「ヒルマ、答えになってない」
ユサが起き上がろうとするが、引き戻された。こめかみから後頭部にかけてガンガンする。あの白いトロリとした酒、あれのせいだ。
「まだくっついて温まってろ。唇、紫だったんだぞ」
「いや、そうじゃなくて、水ってもしかして」
ヒルマの肩の上に置いた痛む頭を上に動かし、ヒルマの目を探した。あった。そして、青い目が泳いでいた。
「おい……」
ヒルマが綺麗な青をユサに向けた。思ったよりも睫毛が長いのが意外だった。
「不可抗力だって。水飲まないと駄目そうな状況だったし、ユサ、自分で飲もうとしないから」
「から?」
「……口移ししたけどさ。仕方ないだろーが。そもそも、こうなったのは誰のせいだ」
「うっ……」
それを言われると言い返せなかった。ルーシェに絡まれたのも、酒を一気飲みしてしまったのも自分だ。言葉に詰まったユサを馬鹿にしたように見るヒルマの顔が近すぎて、落ち着かない。だけどあまり怖く感じないのは、酒のせいだろうか。
とりあえず口だけは袖で拭っておいた。ヒルマが微妙な顔をしてそれを見ていた。
「ユサ、全然酒飲めないのか?」
「いや……昔軽いのなら飲んだことあるけど」
「まあ、空腹だったしな。久々であれはキツイか」
ヒルマが納得したようだ。確かに迷惑をかけたようだ。それでも怒らないのは、ヒルマが基本穏やかな人間な証拠かもしれなかった。ただ単に細かいことを気にしない考えなしだからの可能性もあったが。
「ヒルマ、でもさすがにそろそろ起きないと」
客人が来て早々ぶっ倒れていつまでものんびり寝てる訳にもいかないだろう。ユサが気合いを入れて起き上がろうとしたその時、仕切りの奥からパタパタと走ってくる足音が聞こえてきた。ユサたちの話し声が聞こえたのだろうか。これはルーシェの足音だろう。
バッと仕切りが開いた。半泣きのルーシェがユサを確認し、次いでヒルマを見て、顔を歪ませた。
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