第14話 首長カブラ
ルーシェがユサの手を嬉しそうに引っ張って天幕の中を進む。
ユサはてっきり広々とした空間があるかと思っていたのだが、中に入るとまずは細い通路が目の前から続いていた。
天井を見上げると、放射線状に組まれた金棒に輪っかのような金具が列になり付いていて、そこに紐で括られた布がぶら下げられている。どうも、布で部屋を区切っているようだ。
この中で寝泊まりするのだ、考えてみれば仕切りがなければまずいのだろう。
ユサは初めて見る天幕の内側に素直に感動していた。こうやって、今まで知らなかった世界が毎日少しずつ知っている世界に変わっていくのだろうか。
楽しい、そんな気持ちはもうずっとなかった。
風を切るように蟻塚を離れていったあの気持ちが楽しいというものならば、やはりこの男の隣にいたら楽しくなるのかもしれない。
少し癪ではあったが、ユサは思った。ヒルマは汚いし下品だし馬鹿だし考えなしだが、少なくともこれ以上ユサに害を与えるつもりはないのも分かっている。
近くに寄られるとどうしても怖いが、もしそれを乗り越えることが出来るのなら。
「お姉ちゃん、ここが僕の部屋だよ。後で見せてあげるね」
天幕内部の通路脇に、奥があると予想される仕切りがあった。一見どこが部屋の入り口なのか判別出来ない。権力者の天幕だ、侵入者を欺くためあえてそのように作られている可能性もあった。
「ルーシェ、俺たちは挨拶だけしたら行くからな」
「ちょっと見るくらいいいじゃないか」
可愛らしく唇を尖らせてユサを見上げるが、そうは言われても恐らく後ろで苛々しているヒルマが許さない。この状況を招いたのはユサの不用意に見せてしまったルーシェへの優しさによるものだ。後で何を言われるか分からないし、好き勝手言われるのもユサは御免であった。
ルーシェが少し円曲している通路を進む。爺やと呼ばれた老人が、仕切りを押し上げてユサたちを通してくれた。一歩仕切りから出ると、そこは広い居心地のよさそうな空間だった。
地面に敷かれた幾枚もの絨毯。色合いは鮮やかで、細かく葉っぱの模様が入っていたりするものもあった。絨毯の上には柔らかそうな大きなクッションが置かれている。他からの視線を避ける為だろうか、薄い透けた赤い布が頭上に広がっており、人が動くと何とも滑らかに揺れ動いた。
だが、ヒルマにはその布の高さは少し低かったらしく、布に頭がぶつかってしまいしかめっ面で邪魔そうに手で避けた。情緒もへったくれもない。
「こちらへどうぞ」
先を歩いていたルーシェの父親が、絨毯の手前でサンダルを脱いでクッションが置いてある中心部に向かう。どうやら土足は禁止らしい。これだけ綺麗な絨毯だ、土がついたりでもしたら洗うのも大変そうである。
ユサは絨毯と地面の境目で靴を脱ぐと、さっさとサンダルを脱いで待ち受けていたルーシェに手を引っ張られて男の前に連れて来られた。ヒルマは靴がなかなか脱げないのか、座り込んで引っ張ったりしていた。何とも不器用な男だ。財布をする時はあんなに鮮やかな手際だったというのに。
「どうぞお座りください」
男はそう言うと、先に自分からその場に座り胡坐をかいた。半ばルーシェに引っ張られる形でユサもその場に座る。どう座ったらいいものか分からず、とりあえず正座してみた。ルーシェを見ると、男と同じように胡坐をかいている。もしかしたらこれがここでの正しい座り方なのかもしれなかった。
ヒルマが来るまで、しばし待つ。その間、目の前でにこにこしている男を観察することにした。年はユサよりは上そうだが、皺ひとつない。ルーシェの年齢を考えると、まだ20代半ば位なのかもしれない。見た目だけで言えば、ヒルマと同じ年の頃であろうか。肌ざわりの良さそうな、ルーシェが着ているのと同じような、黒の前合わせの服を着ている。丈はルーシェのものより長く、膝上まで届いている。帯は豪奢な金色の帯を締め、さすが権力者、といった風情である。
ルーシェよりは長い黒髪は胸の上の長さで綺麗に切りそろえられている。顔全体は柔和な雰囲気で、大きな緑色の瞳は優しげで睫毛が長く、少し女性的でもあった。遊牧民族ゆえ日に当たる機会が多いのか、日の当たらない蟻塚で過ごしていた色白のユサとは違い健康的な肌色をしている。髭は生えない体質なのか、顎には髭の跡は一切ない。薄い唇はやや赤みが強く、まるで紅を差しているかのようだった。
これは、相当もてそうな顔立ちである。ユサも昔はあれこれ着飾らないとならない環境にあったため、美醜の見分けはつく。むしろ他の人間よりも美しい顔立ちというものはよく見てきたかもしれない。目の前の男は、そんなユサの記憶の中でも群を抜く美しさを持っていた。
ようやく靴を脱ぎ終わったヒルマが、ユサを挟んでルーシェとは反対のユサの右側にどかっと胡坐をかいた。品格もくそもない。だがまあ目の前の育ちの良さそうなふたりと比べては哀れというものだろう。ユサだってどちらかと言わなくてもかなりヒルマ寄りの人間である。
ヒルマが座ったのを見計らって、老人が陶器の瓶と小さな器を3つ持ってきて、男とユサ達の前に置いた。次いで、ルーシェ用だろうか、白い液体が入った器を別に持ってきた。ルーシェが嬉しそうにそれを受け取る。
「改めまして、私はこの辺りを統括しております首長のリン・カブラと申します」
深々とお辞儀をされた。ユサも慌ててペコリとお辞儀をするが、横のヒルマは顎をくいっと引いただけだった。こんな挨拶で問題ないのだろうか。というか不遜にも程がある。早く立ち去りたいのだろうが、相手の心証をわざわざ悪くする事もあるまいに。
どうせなら何かお礼がもらえた方がいいに決まっている。だったら、ここは無難にやり過ごす方がいいとユサは思うのだが、どうも先程からヒルマの態度がおかしい。やはり、このリン・カブラと名乗った男にはやばい噂でもあるのだろうか。
「先程はルーシェを保護いただいた上にこちらまで連れてきていただき、誠に有難うございました」
「いや、まあすぐ近くだったし」
「お姉ちゃん、僕をずっと抱っこしてくれてたんだよ!」
ルーシェが嬉しそうに報告する。リンが少し困ったようにユサに笑いかけた。
「それは申し訳ありませんでした。この子は早くに母親を亡くした為、どうも女性と見るとやたらと接触したがる傾向がありまして」
「はあ」
「お姉ちゃんの胸、柔らかくって気持ちよかったよ」
「おいこらクソガもご」
ユサが慌ててヒルマの口を右手で塞いだ。髭が手に当たるし手のひらはヒルマの息で温かくなって正直気持ち悪いが、首長の息子を首長の目の前でクソガキ呼ばわりさせる訳にはいかなかった。ヒルマが何するんだ、という目でユサを見た。やはりこの男はもう少し先も見据えて行動や発言をすることを覚えるべきだろう。ヒルマの口が閉じたので、右手を外すとヒルマの胡坐をかいた腿をペチンと叩いた。ヒルマの口がまた尖ったが、無視する。
「まあ、護衛は付けた方がいいだろうな。ルーシェも次は気をつけろよ?」
「はあい。お姉ちゃん、そういえばお名前何て言うの?」
ユサは一瞬考えたが、まあそこまで珍しい名前でもない、筈だ。そのまま伝えた。
「俺はユサっていうんだ。で、こっちがヒルマ」
「へえーユサ! 可愛い名前だね!」
ヒルマの名前については一切触れる事なく、ルーシェは再びユサの手を握った。そんなふたりの様子をニコニコと眺めていたリンが、思い出したかのように目の前の瓶を手に持ち、自分とユサ達の器に注ぎ始めた。乳白色の少しトロリとした液体だ。ルーシェが飲んでいるのと同じ物だろうか。
「お近づきの印に、まあどうぞ」
そう言って首長自らが器を手に取りそれぞれユサとヒルマに手渡ししてきた。隣でヒルマがクンクンと匂いを嗅いでいる。リンも器を手に取ると、「乾杯」と言ってくいっと飲んだ。
同じ瓶に入っていた物だ、問題ないだろう。ユサはそう判断し、飲む前にヒルマ程あからさまにではないが匂いを嗅いでみた。ほんのり甘い匂いがした。ヤギのミルクか何かだろうか。蟻塚ではミルクなんて高級品はまず入手出来なかったので、どんな味だったかなど忘れてしまった。
横でヒルマがくいっとひと口で飲み干した。美味しかったのか、口についたそれを親指で拭い、指の腹をペロリと舐めた。ユサはそれを見て少し安心し、器に口を付けて同じようにくいっと飲んでみた。味は、やはりミルクのようだ。だが、これは。
喉が焼けるようだった。これは酒だ。しかも相当きついものだ。顔がカッと火のように熱くなったのに、首の後ろがゾクリとし始めた。
「ユサ? おい、どうした」
ヒルマの焦ったような声が聞こえたが、ユサはそれを遠くから聞いているような感覚を覚えた。
「おい! ユサ!」
ヒルマに肩を抱かれ支えられた気がしたが、ユサはそのまま意識を手放した。
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