第13話 天幕

 ルーシェが指差した天幕は、この町の中心にあった。確かにルーシェの言う通り、この辺りでも一番大きい。一体何人が入れるのだろうか、左右は幅広く、天には高く尖っている。その天辺と横の壁となる部分は無数の金棒と紐で吊り支えられ、天幕の入り口からは引っ切りなしに人が出入りしていた。その入り口の前には、少しひらけた円形の空き地がある。


 ユサは、抱き抱えていたルーシェをその場所に降ろした。


 ルーシェを抱えていたのは僅かの間のことだったが、先程まで腕の中にあった温もりが離れていってしまい、何だか少しだけ惜しい気がした。だが、たかが迷子を届けただけのことだ。ユサは頭をふるふると横に振ってその感覚を頭から押し出した。


「爺や! 僕だよ!」


 ルーシェが、天幕の入り口付近でキョロキョロしていた見事な白髭の老人にそう明るく声をかけた。老人ははっと驚いたように反応すると、少し腰を曲げながらスタスタと走り寄ってきた。痩せた顔が泣きそうになっている。ルーシェに差し出している手も腕も枯れ枝のようだった。


「坊ちゃま! 一体どちらへ行かれてたのですか! この爺や、もう心配で心配で」

「ちょっと迷子だったんだ。でも、この人が助けてくれたんだよ」


 ルーシェがそう言ってユサの手を握った。にこにことユサを見上げている。


「この人たち、ね」


 後ろでぼそっとヒルマが呟いたが、ルーシェはそれを見事に無視した。自分に凄みを利かせてきた粗暴そうな男は自分には関係ないものと見做みなしたらしい。


「無事に戻れて良かったな。じゃあ、俺たちは行くから」


 ルーシェは可愛かったが、その親となるとまた別の話だ。痛い腹を探られたくはないので、さっさとこの場から立ち去るに限る。ヒルマも同じ考えなのだろう、既に天幕に背中を向けて、早く行きたそうに顔だけでユサを振り返り待っていた。


「ユサ、行こう」

「ああ。――ルーシェ、じゃあな。もう迷子になるんじゃないぞ」


 そう言ってルーシェの手を離そうとしたその時。


「お姉ちゃん行かないで!」


 ルーシェがユサの腕にひし、としがみついてきた。それを見たヒルマのこめかみがピク、と動いたのをユサは視界の端で確認した。やはりヒルマは子供が嫌いのようだった。


 しがみつかれてしまったユサは、こんな小さな子供の手を無下に振り払う訳にもいかず、困ってしまってその場に立ち尽くしてしまった。ヒルマを見ると、いつの間にかユサの方を向いて偉そうに仁王立ちし、ユサにくっついているルーシェを苦々しそうに見ている。あまりにもあからさまなその態度に、やはりこの男は大人気ないな、とユサは内心溜息をついた。


「いや、あのなルーシェ」

「僕まだお礼言ってないよ!」


 キラキラと目を輝かせて一所懸命ユサを引き留めようとしている。先程爺やと呼ばれた老人も、うんうん頷いて賛同していた。


「坊ちゃま、偉いですぞ。きちんとお礼を言いたいなどという立派な発言、爺やは嬉しゅう思いますぞ」


 論点がずれているような気がしないでもなかったがあえてそこには触れず、若干引きつり笑いにはなってしまったが、ユサは頑張って笑顔を見せる努力をした。背後のヒルマの気配が段々と恐ろしいことになってきていて、早くどうにかこの場を立ち去りたかった。


「ル、ルーシェ、俺本当行かないとだから、な? 手を離してくれ」

「だって手を離したらお姉ちゃん行っちゃうんでしょ? もうちょっと一緒にいたい!」

「ほら、俺たちまだ宿も決まってないから、な? 頼むよ」

「やだ!」


 金持ちの坊ちゃんだからか、我儘が通るのが当たり前だと思って育ってきたのだろうか。老人がルーシェの周りをオロオロと彷徨いているだけで止めやしない。こんなのしか傍にいなかったら、このままだとろくな大人になりそうになかった。可哀想だが、ここは仕方ない。ユサは心を鬼にした。


「ルーシェ、悪いけど無理だ。もういい加減離してくれ」


 ユサは、少し突き放したように言った。途端、ルーシェは可愛らしい顔を今にも泣きそうに歪ませてきたが、今これを許してはこいつの為にならない。


「ルーシェ、人には都合ってもんがあるんだ。お前もいずれ人の上に立つ立場になるんなら、ちゃんと覚えとけ」

「ゔゔっ」


 次いで、爺やと呼ばれた老人を睨む。


「爺さん、あんたもこいつをちゃんとさせたいならダメなもんはダメだってしっかり教えろよ。甘やかすだけだとろくな人間にならねえぞ」

「甘やかされてろくでもない人間を見たような台詞だねえ」


 後ろから、何が楽しいのかニヤニヤしながら今まで傍観を決め込んでいたヒルマが急に口出しをしてきた。


 ユサが自力でルーシェを突き放したのが小気味良かったのかもしれない。


「お前だって似たようなもんだろうが」


 吐き捨てるように言うユサの言葉に、ヒルマは怒るでもなく楽しそうに笑った。


「違いねえな」

「じゃあなルーシェ。今度こそ行くから、本当迷子になるなよ」

「ユサ、俺に対する態度と大分違くない?」

「うるせえ」


 ヒルマが何だかんだ絡んでくるがあしらう。今にも涙をこぼしそうなルーシェをちらっと見たが、もう追いかけて来なかった。これでいい。


 そう思いユサがルーシェたちに背中を向けたその時。


「ルーシェ⁉︎ お前どこに行ってたんだ!」


 天幕の中から余裕のない大人の男性の声がルーシェを呼んだ。ヒルマが嫌そうに後ろをチラ見した。更に嫌そうな顔になった。


「行こう、面倒くさそうだ」

「……そうだな」


 人混みに紛れようとしたその時。虎の威を借る狐のような清々しいまでに勝ち誇った声色で、ルーシェがユサを呼んだ。


「お姉ちゃん! お父さんが、挨拶したいって!」


 権力者の父親の挨拶。さすがにもう無視は出来なかった。


 ヒルマがぶすっとしてユサに小声で話しかけた。


「……ユサ、お前子供にだけ甘すぎるんじゃないか?」

「……今後は気を付ける」


 もっと早めにここを立ち去るべきだった。今回は悪いのはユサだ。


 ヒルマはふう、と小さく息をつくと、更に小声でユサに言った。目が怖かった。


「いいか、今から俺たちは夫婦だ。ちゃんと演じろ」

「は? 何言ってんだお前」

「抱き抱えられて逃げるのとどっちがいい」

「……分かったよ。触んなよ」

「なるべくな」


 ヒルマの機嫌が相当悪いのは肌で感じられた。ヒルマはルーシェの父親の名前は知っている風だった。よくは分からないが、警戒する何かがある相手なのだろうということはユサでも予想がついた。


 仕方なしにゆっくりと天幕の方に振り返る。


 そこには、ルーシェが大人になったらこうなるに違いない、そう思える大人版ルーシェ、つまりとんでもない男前がニコニコしてこちらを見ていた。


 ぺこりとユサに一礼する。


「ありがとうございます。ルーシェが迷子になっているのをわざわざ連れてきていただいたそうで。お嬢さん、宜しければ是非天幕の中に」


 ルーシェと同じように緑色の瞳をキラキラさせてユサだけに話しかけてきた。ユサの頬がヒク、と引きつる。咄嗟に言葉が出なかった。


がお宅の坊ちゃんにしがみつかれまして」


 牽制するようにヒルマがユサのすぐ後ろに立った。ユサは気味が悪くなりゾワっとしてしまったが、ここはこのまま乗り切るしかない。目の前のキラキラしている男も後ろに立つむさい男もどちらも嫌だったが、まだヒルマの方が少し知っている。


「は、はは」


 わざとらしくなったが、一応肯定してみた。ルーシェの父親は、でかくてどう見てもすぐ目に入るであろうヒルマに初めて気付いたかのように、おや、と反応を見せた。


「ご夫婦でしたか。これは失敬」


 あくまでにこやかに、だが少し低くなった声で男が言った。


「立ち話も何ですから、是非中にどうぞ」

「お姉ちゃん! 来てよ!」


 ここぞとばかりにルーシェがユサの手を取る。後ろに立つ大きな男から立ち昇る怒りの気配が心底恐ろしかったが、もうここは従わざるを得ないだろう。まだこの場所で探し物をしなければならなかった。


 ユサとヒルマは、導かれるままこの町一番の天幕の中へと踏み入れた。

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