第8話 昏い過去

 緑一面の草原にふたつの影がある。


 大きな影と、小さな影。大きな影は、小さな影を心配するかのように寄り添っていた。



 ユサの呼吸が落ち着くまで、ヒルマは何も言わずにずっとユサの背中をさすっていた。


 しばらくしてようやく落ち着いてきたユサの水色の目には、息苦しかったせいで涙が滲んでいる。ヒルマは、あまり近くにいるとまた何が起こるか分からないと思ったのか、昨夜のようにまた少し距離を置いていた。縄は相変わらず繋がっているが。ユサの滲んだ涙を見て、ヒルマは何故か悲しそうな顔をして尋ねてきた。


「俺が嫌いか?」

「当たり前だろ」


 ユサは即答する。ヒルマはその返事を聞いてしょんぼりと項垂れた。ユサはそんなヒルマを見て、男ってやつは本当馬鹿な生き物だ、と呆れた。人の都合など考えず勝手をやって、それでも相手の好意を欲しがって得られると思っている、そんな都合のいい夢ばかりみているのだ。ユサに心の中で馬鹿にされているとは思ってもいないであろうヒルマは、また恐る恐るといった風に聞いてきた。


「俺が怖いか?」


 ユサは返答に詰まった。正直、非常に怖い。だがこれはヒルマだからというわけではない。ユサは、男全般が怖かった。ユサの過去の出来事ゆえに。だが、これ以上この男に不用意に近付かれたくなければ、嫌でも伝えた方がいいように思えた。過去を誰かに知られることは、屈辱以外の何ものでもなかったが。


 膝を抱えて小さくなって座り、外套から顔だけ出しているユサは、少し離れた場所で胡座をかいているヒルマを見つめながら考えた。この男がそれを知ったからといって、今後の対応は変わるだろうか?疑わしいものはあったが、もしかしたら少しは牽制になるかもしれない。逃げても駄目、死んでも駄目、駄目駄目駄目のオンパレードだ。このままじゃあ、昔と何ら変わらない。


 縄で繋がれている以上、多分ヒルマにはユサを解放する気はない。少しでも今のこの状況をいいものに変えたいのであれば、試してみる価値はあった。先程は絶望感と虚無感に襲われ咄嗟に自分の喉を刺そうとはしたが、一度助かってしまうとまたこの生にしがみつきたくなってしまった。たとえ大した生でなくとも、一度手に戻ってくると惜しい。


 ヒルマがユサを窺うようにチラチラと見ている。先程のユサの過剰反応に驚いたのだろう。その前までとは少し態度が変わっていた。これなら、もしかしたらいけるかもしれない。ユサは悩んだ末、思い切って話してみることにした。結果駄目なら自分の見る目がなかっただけということだ。


「ヒルマ」

「……おう」


 大きな男が何だか怯えた目をしてユサを見るのが何だか愉快だった。


「俺は小さい時親父に売られた」

「お、おう」


 明らかに戸惑っている。ざまあみろだ。こんなのを考えなしに攫ってくるからこういう目に合うんだ。心の中で毒づく。


「売られた先は金持ちだったからな。食い物はちゃんと与えられてたし、こんなガリガリじゃなかった。どっから見ても女って感じだったな」


 青い空を見上げてみた。鳥が飛んでいる。自由そうで楽しそうで、なにより世界が広かった。こんな世界があるなんて知らなかった。知らないことだらけだった。


 ヒルマはそんなユサを静かに見つめていた。一体何を考えているものやらだ。ユサは続きを話し始めた。出来るならさっさとこんなこと終わらせてしまいたい。


「髪の毛も伸ばさなくちゃならなくてさ。腰まであったな。クソ主人の趣味だよ。他の女どもは奴に好かれようと争ってたけど、俺はどうしても嫌で」


 毎日着飾って女同士争うだけの日々。見てるだけでうんざりだった。どうしてもその場所で戦う気になれなかった。下らない、そう思っていた。


 ユサは自嘲気味に笑う。


「この通りのひねくれた性格だからな。だけどそんな風にちっとも媚びてこない俺が逆に唆るって途中から何故か奴に気に入られちまって、もうそこからは地獄。奴に呼ばれちゃあやられ、戻れば女どもに蹴られ殴られ、怪我が治ってなくても奴は気にせずやるし」


 諦めてあの男に媚びていればよかったのだろうか?今でもどちらがよかったのか時々考える。でも、出来なかった。どうしても出来なかった。割り切れなかった。


 ヒルマの目線が痛い。この男は全般的に失礼な割に意外とこういう表情も出来るらしい。


 ヒルマは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


 本当、どこまでも馬鹿な男だ。泣いてなんの意味がある。身体から水分がなくなるだけだ。男の表情には気付かないふりをして話を進めた。ここまで言ったらもう最後まで話してしまえ。言ってしまえ。どうせ失うものなんて何もない。


「そんな時さ、奴の仕事で秘書みたいなことして働いてた男がさ、俺を助けてやる、ふたりで逃げようって声かけてきて、俺も阿呆だからそいつの言葉を信じて」


 草の上に寝転んだ。手を頭の上に伸ばしてみた。ユサをぐるりと囲む青々とした草の上には、青い空に白い雲。ヒルマの顔は草で見えなくなった。丁度いい。見たくなかったところだ。


「逃げる約束をした時間と場所にいたのはクソ主人だったよ。奴の後ろには約束してたアイツがいた。金に目が眩んだのか、奴が恐ろしくなったのか俺には分かんなかったけどさ、奴には俺に唆されたとか言ってやがった」


 ヒルマがいる辺りから、ズビッと鼻を啜る音がした。相変わらず下品な男だ。


「奴には逃げようとした罰だ、浮気した罰だって折檻されたよ。馬鹿だと思わねえか? 浮気だなんて、そもそも買ってきた女だぜ?うんざりしたよ。信じてた男は当たり前の顔して裏切るしさ。そしたらもう何か全部堪らなくなって、体が動くようになったらすぐにアイツを呼び出して、誘って、そんで殺した」


 手を空に伸ばした。細い骨みたいな手。この手で人を殺した。さっき自分を刺そうとしたナイフで初めて好きだと思ったあの男を刺した。ユサは自分の手で自分の心までも殺した。だから、この手は汚れている。洗ってももう落ちない。


「血塗れの服を奪ってさ、髪を切って、アイツのフリして外に出てやった。簡単だった。こんな簡単なことだったんだって思った」


 ブビッという鼻をかむ音がした。一体何で鼻をかんだんだろうか。ヒルマの手には触れない方がいいだろう。多分手でかんでいる。


「かなり上層の方だったから、一気に下に降りれば見つからないかと思って最下層まで行って、そこでも何人に騙されたかなあ」


 そこそこ騙された。信じては騙され、信じてはまた騙され。


「だからもう女はやめた。人を信じるのもやめた。俺は奪われる方から奪う方になることに決めたんだよ」


 ヒルマの嗚咽が聞こえてきた。男の野太い声の嗚咽など気味が悪いだけだった。


「男が俺を女として見るとゾッとする。触られると虫唾が走る。分かったか? 俺は男なんか大っ嫌いなんだよ」


 ユサが半身を起こした。ヒルマの方を見ると、顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。ユサは呆れてしまった。でもこれだけはきちんと言っておかねばならない。その為に忘れたかった過去をこの男に話したのだから。


「だから、男は怖い。無理なんだ。分かったら近寄らないでくれ」

「……わがっだ」


 思わず苦笑いが出た。この大きな男が泣きじゃくる小さな子供に見えてしまった。


 でも、この男もいつかは裏切る。


 人なんてそんなものだ。これまでのユサの人生で、嫌という程叩き込まれた事実だ。その刹那は神にも誓えても、心はいつか変わる。祈って誓ったことすら忘れる。


「お前はなんで俺を捕らえたんだ? なんで自由に出来ない?」


 そこには理由がある筈だ。恐らく、男が一度ユサに見せたあの光る石、あれが関係している。


「ぢょっど待で」


 ヒルマはそう言うと、思っていた通り手鼻をかみ、鼻水の付いた手のひらを地面に擦りつけた。ユサの顔が嫌悪に歪む。汚いにも程がある。


 ヒルマは今度は涙を袖で拭い、ようやく並みのレベルの顔に戻った。ふう、と息を吐く。


「俺に痛覚も性欲もなけりゃ血も流れてないのは分かっただろ?」

「ああ」


 ユサは頷いた。実際に経験した。この目で見た。間違いないだろう。


「昔、ヤバい奴に奪われたんだ。始めはもっと色々足りなかった。これでも大分集まった方だと思う」


 そう言って、服の中から小さな石が連なったあのネックレスを取り出して見せた。白い石の中に所々黒い石があった。輪の中で、ひと粒だけ白く光っている。


「白いのは返ってきたもんだ。黒いのはまだないもんだよ」


 ひとつひとつ指を差して見せた。ヒルマが光っている石を指す。


「こいつがユサに反応している。俺はこの反応を追ってあの家に入った。そしたらユサがいたって訳だ」

「なんであんな回りくどいことしたんだよ。攫わなくったってよかっただろう」


 ヒルマがユサにしたことは滅茶苦茶だった。ひと言説明していれば。

 ヒルマが、何言ってんだという顔をして言った。


「話聞く気なんて全くなかったじゃないか」

「……まあな」


 図星を指され不貞腐れ顔になったユサをしばし見つめた後、ヒルマが続けた。


「それに、今まで人間にあったことは一度もなかったんだよ。物とか石とかそんなもんばっかりだった。だから、てっきりユサが身に着けてる物かな、と思って」


 それで殴って気絶させて身ぐるみ剥がして隅々まで見た訳だ。まあ、見せてくれと言われても絶対見せなかった。やったことは悪党の所業だが、一応ヒルマにはヒルマなりの動機があった訳だ。許し難くはあるが。


「で? あったのか?」

「それだよ。ないんだよ。でもユサには反応する。俺もこのパターンは初めてで分からん。かといってじゃあどうしたらいいのかも分からん。だから、とりあえず他のを先に集めようと思って一緒に連れて来た」


 ヒルマはそう言いながら首を傾げている。ユサが溜息をついた。


「そういうのは言えよ」

「言ったって素直に聞いてないだろ」

「……まあな」


 ヒルマの目的はユサをどうこうしようというものではない、というのは理解してきた。ヒルマの欠けた一部とユサにどんな関係があるかは分からないが、ユサがいなければ戻ってこない。そういう意味では、男はユサに手出し出来ない。そもそも性欲がない。正直なところ、あの蟻塚に戻りたくもない。


 であれば。


「ヒルマ」

「おう」

「俺と契約しないか?」


 ユサが提案した。ヒルマは、ポカンとした顔をした。

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