第7話 抵抗

 ぽかぽかと温かい。


 まどろみの中でユサは思う。規則的な振動が身体に伝わり、まだ寝ろと言われているような心地よさを感じた。安心する、鼓動。……鼓動?


 昨日の記憶が一気に蘇ってきた。目を開けたくない。多分、目を開けたら現実に戻される。ユサは今恐らく、とんでもない悪党に抱き抱えられている。それを安心するなど、馬鹿の極みだった。


「おいユサ、いい加減起きないか? おーい」


 ユサの心の中の抵抗も虚しく、当の本人がユサの頭の上から間抜けな声をかけてきた。ユサが目覚め始めたのに気が付いたのだろう。仕方ないので、薄っすらと目を開けてみる。無精髭の男の顎が目に入った。次いで、不思議な青をした目とユサの目が合う。この男は、目だけは綺麗かもしれない。性根は腐ってそうだが。そんな事を思った。


「ようやく起きたな」


 男がユサを見下ろして呆れたように言った。そっと地面に降ろされる。


 確かによく寝たようだ。ユサが空を見上げると、太陽はなんと天辺にあった。こんなに寝たのは何年ぶりだろうか。多分、疲れと心労がピークに達したのだろう。ユサは欠伸をしながら伸びをした。


 なんせこの男のせいでとんでもないことの連続だった。そしてまたこの男の昨夜の悪行の数々を思い出し、イラッとした。


「おい」


 ユサは少し強気で男に声をかけた。蟻塚では経験したことのないこの身体全身に浴びる日光に、少し勇気を貰えたようだ。蟻塚の中は、いつもジメジメしていた。かび臭く、鼠に齧られないように気をつけねばならない生活だった。だが、この光のおかげで昨夜よりは少し闘争心が生まれていた。


 搾取されるのは蟻塚の中だけでもう十分だった。


「靴よこせ」

「……はいよ」


 男がしゃがんで鞄を降ろし、がさごそと漁り始めた。男の腰に、ユサが身につけていたナイフがあるのを確認した。そういえばないなと思ってたら、男が持っていたわけだ。


 ユサはあまりナイフを見ないようにし、代わりに辺りの様子を伺う。


 蟻塚の周りにあった赤い砂は全く見当たらなかった。一面、緑一色だ。膝を隠す長さの草が連なって、見渡す限りの草原だった。風が吹くと、風が波のように流れていく。


 でも、ユサはこれを何と言うのか知らなかった。


「おいお前」

「あのさ、いい加減名前聞いてきたりしない?」


 男が呆れ顔で言ってきた。ユサは阿呆か、と思う。何故攫われた人間が攫った人間に歩み寄って名前を聞いて馴れ合わなければならないのか。どうもやはりこの男には自分が行なったことの酷さというのが理解出来ていないらしい。


「言いたきゃ言えばいい。俺はどっちでもいい」

「冷たいねえ」


 男がそう返答をしながら鞄から靴を取り出した。ユサの前に並べるが、どう見ても左右逆だった。わざとだろうか。

 ユサはしゃがみ、無言で左右を入れ替えてから地面に座って靴を履き始めた。まずは問題ない右足から。靴紐をギュッと引っ張り、蝶々結びをして、ギュッと絞った。そして男を見上げた。


「で、これはどうすんだ?」


 左用の靴を持ってぷらぷらしてみせた。それを見て、男がユサの前にしゃがんで靴を受け取った。男は手を後ろの方に持っていって、先程のユサと同じようにぴらぴらとしてみせた。


「ヒルマ」

「あ?」

「その、あ? てのやめろ」


 男が不貞腐れ顔で言う。


「俺の名前。ヒルマ。お前はもうなしにしろ。いい加減不愉快だ」


 人を攫って勝手にここまで連れてきて、名前を呼ばなくて不愉快と言われる。あまりにも勝手な言い草だった。もう相手にしたくなかった。男の主張は聞かなかったことにした。


「靴、返せ」


 ユサが手を出す。ヒルマと名乗った男を睨みつけるが、靴を持ち上げている男は目を細めてユサを見返すだけだ。


 もう一度言った。


「自分で履く。返せ」


 少なくともこの男よりはちゃんと履ける自信はあった。この男の靴下の履かせ方といったら、とんでもないものだったから。


 だが、ヒルマは動かない。


「ヒルマ」


 むすっとしたまま、またヒルマは名前を言った。ユサは、何だか躾けられているペットのような気分になってきた。名前を呼べば褒美を貰えるのだろうが、こんな悪党に懐く気は起こらなかった。


「言葉分かんない?」

「その言葉そっくりそのままお前に返すよ」

「あ、またお前って言った」


 ヒルマの腰にあるユサのナイフは、いつでも抜けそうな距離にあるのが横目で確認できた。使い慣れたナイフだ。腰から抜いて、男を刺して、足首の縄を切る。いけそうな気がした。いや、だが痛覚がないと言っていた。なら、ナイフを奪い返し、顔面を蹴り飛ばすか踏みつけ、それから縄を切るの順かもしれない。これならいけそうだ。


「ほら、言ってみろ。ヒルマ」


 ヒルマはめげずに繰り返した。ユサはヒルマの目を見たまま言った。言えばきっと、油断が生まれる。その一瞬にかけようと思った。


「……ヒルマ」

「お、ちゃんと言えた……おい!」


 男の名前を呼んだ途端、案の定ヒルマに隙が出来た。その瞬間、ユサはヒルマの腰に収められていたユサのナイフを抜き取った。


 刃をヒルマに向ける。


「それ、どうする気だ?」


 ヒルマの目が怒りに満ちている。何をするのか分からないヒルマの目。本当は怖い。だが、男と馴れ合うのはもっと恐ろしかった。男になど従いたくはない。どうしても譲れなかった。


 ユサも負けじと睨み返した。


「これは元々俺のだ」


 ところが、ヒルマの返答は予想外のものだった。


「刺したいなら刺せばいい。どこがいい?どこでもいいぞ」


 そう言って、おどけた表情で両手を広げてみせた。ヒルマはユサには出来やしないと踏んで煽っているのだ。目は意地悪そうににやけていたが、深い青の奥底は怒っている。ユサは恐怖で動けなくなってしまった。やっぱりこの男はおかしい、狂ってる。


 手を広げたまま、ヒルマの顔がユサに近づいた。顔が笑っている。まるでそういうめんを付けているかのように。


「殺す覚悟もない癖に、そんなもん振り回すな」


 その言葉がユサの固まっていた心をトン、と押した。首か、胸か。一瞬迷ったが、首の方が確実だろう。ヒルマから視線をずらさぬまま、ユサが言った。ヒルマみたいに笑ってみせたかったが、それはさすがに無理だった。


「覚悟? あるさ」


 ユサの静かな表情に、ヒルマは眉をひそめた。ユサは息を吸い込む。


 刃をユサ自身に向け、ひと息に首に突き刺した!


 筈だった。


 ナイフは、ユサの首の前に伸ばされたヒルマの腕に刺さっていた。骨に当たっているのだろうか、固い感触が手に伝わってきた。嫌な感触だった。


 ヒルマの貼り付けたような笑顔が消えていた。青い目からは、純粋な怒り。ユサは理解出来ないヒルマの怒りに、恐怖を覚えた。ヒルマが何故怒るのか、分からなかった。ユサに向けていた刃の前に腕を差し出したのは、ヒルマの意思の筈なのに。今すぐヒルマから距離を置きたかった。


 ユサの腕に暖かいものが伝ってきた。ヒルマの血だろうか。チラリと見たが、目に入ったものが一体何なのかユサには分からなかった。何故こんなものが垂れてくるのか。黒い、少しねっとりとした液体がユサの腕を伝ってきていた。ぽたり、とユサの外套に落ちて小さな染みを作った。ぽたり、ぽたり。外套の染みがどんどん広がる。ヒルマの身体には、血ではなくこの黒いものが詰まっているのだろうか。だとしたら、まるでこの男を象徴するようだとぼんやり思った。


 ヒルマはユサの目線を追って、またユサに視線を戻した。ヒルマはユサが持っていたナイフの柄を掴み取り、何でもないかのように自身の腕から引き抜き、ナイフを軽く振って黒い液体を払った。ユサに届かないよう、地面に置いてある男の鞄の前に放り投げた。腕についた黒い液体も腕を振って払った。


 明らかに機嫌の悪い顔をして、ユサに顔を近付ける。


「何やってんだ、あんた」

「……何でお前が怒るんだよ」

「勝手に死ぬなって言ってんだよ」

「お前に関係ないだろ……!」

「関係ある」


 ヒルマがずい、と近づく。ユサが後ろにずるずると下がる。草が頬に当たってくすぐったかった。


「なんでそんなに嫌がるんだ? 死ぬほど嫌か?紅国こうこくの暮らしがそんなに良かったか? そんないいもんでもなさそうだったけど」


 ユサの外套の裾が、ヒルマの膝に踏まれてしまった。これ以上後ろにいけない。頭の中が白くなった。恐怖で身体が小刻みに震え始めた。


「どうしてそんなに怖がる?」


 ユサは首を横に振った。もうそれしか出来なかった。震えが止まらない。怖い。ただただ怖かった。そんなユサの様子を見て、ヒルマの怒りが少し引いたようだった。ヒルマが手をユサの顔に伸ばす。先程黒い液体が流れ出ていた場所は、もうどこにも見当たらなかった。やはりこの男はただの人間じゃない。狂ってるとかいうレベルの問題じゃないのかもしれない。ユサの理解の範疇を超えていた。


「ユサ、怖がるなよ」


 ヒルマの固い指がユサの頬にそっと触れた。ユサの呼吸が短くなる。胸が苦しい。息が吸えない。視界がグラグラして、ヒルマの顔がよく分からなくなった。


「ユサ?」


 ヒルマが驚いている。おい、と声をかけて、ユサの背中をさすり始めた。ユサは息が出来なくて苦しい中、あれだけの所業をした男がユサが過呼吸になってオロオロとしている様を少しだけ愉快に感じた。


 ざまあみろと冷静に笑っている自分がどこかいることに、気が付いた。

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