第5話 餌付け
「ほら、食えよ」
青みを帯びた黒髪の男が、小さくなって自分を睨んでいるユサに木の器を差し出した。器からは、暖かそうな湯気が立ち昇っている。男自身は、干し肉だろうか、くちゃくちゃと音を立てて噛んでいる。その粗野な感じがまた腹が立った。
「そんなスカスカなもん要らねえ」
小声で答える。お腹は非常に空いていたが、具もろくに入っていなそうなスープになど興味はなかった。
「どうせならそっち寄こせよ」
そう言って男の持っている干し肉を見る。男が自身の両手に持った干し肉とスープを見比べた。
「腹の中がそんな空っぽの状態でこんなん食ったって吐くだけだ。素直にこっち飲んでおけ」
そんな事知らないわけもないだろうに、と男がわざとらしく溜息をつく。ユサの貧乏生活を見破られたようでイラっとしたが、数日食事を抜くこともままある超がつく貧乏人だ。いきなり固形物を腹の中に入れたところで戻す事くらいは分かっていた。ただ、腹が立っていたからわざと突っかかっただけのことだ。
「ほら、意地張るな」
「……仕方ねえな」
ユサが差し出された器に手を伸ばす。男がニヤリとして言った。
「さっきみたいに抱っこして飲ませてあげてもいいんだけど」
ニヤニヤしながら男が提案してきた。最低な提案だった。情緒もくそもない。ユサは男を無視した。相手にすればそれだけ相手が調子に乗る。
「……飲む。寄こせ」
「始めからそう素直になっておけばいいのに」
ニコ、と見るものが見たら善人と受け取られそうな優しげな笑顔をして、男が器をはい、とユサに渡した。ユサは無言でそれを受け取った。なるべくならこの男と会話などしたくなかった。器に口をつける。スープはかなり熱そうだ。ほぼ液体だけのそれは、仄かに生姜の香りがした。細かく刻んだ肉が気持ち程度入っている。少し飲んでみる。熱い。体の中を、温かい液体が流れていくのが分かった。かなり薄味だが、生姜の効果だろうか、すぐに体がポカポカとしてきた。悪くない感覚だった。
ユサが無言でゆっくりとスープを飲んでいるのをじっと見て、男が聞いた。
「美味いか?」
男が聞く。
「……礼は言わねえぞ」
「答えになってないなあ」
「……まあまあだ」
いいなあ、とまたわけの分からない事を呟いている。なるべくこの変人とは関わりたくない。
ユサが落ち着いた後は、男は警戒する動物に餌付けをするが如く多少の距離感を持って接していた。だが、ユサの左足首に結ばれた綱は男の腰ベルトに結わえらえたままだ。これでは本当に捕らえられてきた野生動物の扱いそのものだ。腹立たしいことこの上ないが、見張られている以上そう簡単には逃げ出せそうになかった。食べ物を与えてくれると言われたので、この先逃げる体力を蓄えておくためにもここは大人しく従って食べておくことにした。
「おかわり」
器を持った手を、男の方に伸ばした。男が手を伸ばして器を受け取る。
「半分だけな」
そう言うと、温めている小鍋から少しだけスープを器に移した。
「まだあるんだろ、寄こせよ」
「一気に食べると吐くってば。また後で時間を置いたらあげるよ。今は我慢しな」
「……」
さっきまではユサに吐くものが残ってないと喜んでいた男は、今度はユサが食べ過ぎて吐くことを心配するようなことをほざく。矛盾だらけだ。それか、ただ吐かれるのを見たくないだけなのかもしれない。
ユサは無言で器を男に差し出した。男は素直に受け取り、本当に半分程度だけスープを入れてユサに渡した。ユサはそれを無言で受け取り、静かにふうふうしながら飲む。
あっという間に飲み終わってしまった。空になった器を無言で男に返す。男は何か言いたそうだったが、そのまま何も言わずに受け取った。
焚き火の爆ぜる音と、男の干し肉を噛む音しか聞こえなくなった。横を見ると、少し離れた所に先程までユサがいた蟻塚が見えた。時折、チラチラと監視塔の光が見える。こんなに遠くからあの場所を見るのは、初めてだった。離れてみれば、随分とちっぽけに見えるものだ。ユサにとっては生きる場所そのものであったというのに。
いつも胸に巻いているサラシがないからか、何となく肌寒い。胸も不安定だし本当は今すぐにでも巻きたかったが、この状況では巻けない。とりあえず靴下だけは履こうと思い、なるべく男を刺激しないよう小さく動く。
外套の中から手を伸ばして置いてあった靴下を取る。縄が繋がってない方の足はすんなり履けた。問題は、縄がある方の足だった。縄を変に引っ張って、縄を解こうとかしているなど誤解されて相手を刺激したくない。
だが、ユサのその様子を男がじっと見ていた。視線に気付き、ユサは思わずビクッとしてしまった。男が小さく息を吐いた。
「それは俺がやる。貸せ」
縄を触らせたくないのだろう。分かってはいるが、今までの人生で男に靴下を履かせてもらったことなど一度たりと無い。どういう顔をしたらいいのか分からなかった。なるべく無表情を心がけ、持っていた靴下を男の手前に投げた。男はそれを何も言わずに拾い、ユサの前にしゃがんだ。外套の中にあるユサの足を引っ張り出し、自分の膝の上に置いた。靴下を履かせようとするが、どうも半周回ってしまったらしく踵が合わない。首を傾げながら一度脱がせ、また挑戦するが今度は踵が上に来ている。どうしたらこうなるのか。
「ま、いいか」
「よくねーよ」
男の呟きについ即座に反応してしまった。しまった、と思ったがもう遅い。男が顔を上げてユサを見つめた。表情が読めない。怒らせてしまったのだろうか。怖かった。だが、怖がる様子を見せでもしたら、もっと付け込まれる。少しでも気を許すと、遠慮なくもっと懐に入ってこようとする。男なんてそんなもんだ、とユサは思っていた。だから、負けじとそのまま無言で見つめ返した。
先に目を逸らしたのは男の方だった。口の端が小さく笑っている。
「分かったよ、お嬢ちゃん」
そう言うと、もう一度靴下を脱がせて、今度はよく角度を見てそうっと履かせた。ようやく踵が合った。どんだけ不器用なんだと思ったが、それも黙っておいた。とにかく相手を刺激するようなことはこれ以上したくない。男の手で触れられている足がぞわぞわして気持ち悪かったが、我慢した。
「さて、お嬢ちゃん」
「……その呼び方はやめろ」
虫唾が走る。気持ち悪かった。あれだけの事を初対面のユサにしておいて、それなのに何もなかったかのように距離を縮めようとしてきているその神経が信じられなかった。
男が自身の膝の上からユサの足を降ろし、縄をふくらはぎから靴下の上に降ろした。
「じゃああんたの名前」
「……ユサ」
お嬢ちゃんよりはまだ本名が知れる方がマシだった。女性性を隠して生きてきたユサにとって、女性性を差す呼びかけは首の後ろが痒くなって掻きたくなる位嫌だった。女に生まれて得したことなど、今まで一度もなかったから。
「ユサ、今日はもう寝ようと思う。なので、ユサに選択肢を与えよう」
随分と上からの言い草だ。どうせろくな内容ではないだろうが、それでも選択肢が全くないよりはマシだろう。そう思って黙って男の次の言葉を待った。男が真面目な顔をして指を1本立てた。
「その1。手首を後ろで結んで寝る」
やはりろくなものではなかった。思わず眉を顰めてしまったユサだったが、これは致し方ないだろうと自分で思った。男はそんなユサの表情の変化を知ってか知らずか、2本目の指を立てた。
「その2。手首は結ばないが、俺にくっついて寝る」
どちらも馬鹿馬鹿しい選択肢だった。要は男が寝ている間にユサが逃げることが出来ないようにしておきたいということだろう。念の為聞いてみた。
「その3は」
「ない」
即答だった。であれば、ユサが選ぶのは当然前者しかない。見知らぬ男とくっついて寝るなど、死んでも嫌だった。
「その1」
「つれないねえ」
男がにやりとしたが、無視した。あれだけやらかした相手が、それでも自分にくっつくことを選ぶと思う神経自体がおかしい。やはりこの男はどこかおかしいのだろう。狂ってると言ったら笑ったのだ、本当に狂ってるとしか思えない。早速がさごそと男が鞄を漁り始めた。横の地面に取り出した鞄の中身を出している。ちらりと見ると、縄とか紐とかがやたらと出てきているが、一体いくつ持ってるんだろうか。この男は、もしかしたら人を縛るのが趣味なのかもしれない。だとしたらとんでもない趣味だ。
「その前に、あれだけ巻きたいんだけど」
「あれ?」
ユサの目線がサラシに行く。男が、ああ、という顔をして、またとんでもない事をのたまった。
「いいけど、その間見てるよ。逃げられちゃ困るし。いい?」
いい訳がない。ユサは諦めた。また次の機会が来るのを待つしかないだろう。
「じゃあいい」
「そう? まあいいけど」
色んな種類の縄をどれがいいか見比べながら、男が軽く返事をした。何だか楽しそうだ。
それを見て、ユサはバレないように溜息をついた。
まさか、自分が男に縛られることを選ぶ人生が来るとは、思ってもみなかった。未来とは本当に読めないものだ。男の楽しそうな横顔を無表情で眺めながら、そんなことを考えるユサだった。
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