第4話 拘束

 パチパチと、焚き火が爆ぜる音が聞こえてきた。腹が痛い。ズキズキしている。


 どうしたんだっけ、と思い出そうとする。盗みに入ったのは覚えてる。そこで変な男と盗みの場で鉢合わせて、それで絡まれた筈だ。まるで荷物のように扱われ、あっという間に連れ去られた。


 その後ズボンの中に手を入れられた事を思い出し、カッと頭に来てユサは目を開けた。ぼんやりと焚き火の明かりが見える。赤い砂の合間に、ちらほらと半分枯れた草が見える。地面に寝ているのだ。見覚えのない布がユサの上にかけられているのが視界に入った。これは、あの腹の立つ男が身につけていた物ではないだろうか。嫌な予感がした。


 腕に力を入れて半身を起こそうとしたところで、腹がズキンと痛んで吐き気が襲ってきた。


「オエ……」


 でもしばらく何も口にしていない。出るものは何もなく、胃酸の匂いだけがした。結局出たのは胃液だけだった。喉が焼けるように痛む。涙が滲んできた。何故殴られたのかも分からない。


「水飲むか?」


 男の声がした。ユサの足元の方に男が座って寛いでいた。焚き火の明かりで目に入っていなかったのだ。


 ムカムカする胃を堪えながら声がした方をゆっくりと見ると、予想通りそこにはあの憎たらしい間抜けな面をした男がいた。緩んだ顔をしてこちらを見ている。


「……殴った奴を信用出来るか」


 ユサが男を睨みつけると、男は手に持っている銅の水筒を横に振った。ちゃぽちゃぽと音がしている。


「ただの水だよ。酒がよけりゃ酒もあるけど、あんたしばらく何も口にしてないだろ。胃が空っぽだったよ」


 まあお陰で助かったけど、とへらへらと笑っている。ユサは男が恐ろしくなった。何が助かった、だ。人を殴って気絶させておいて、吐瀉物を引っ掛けられなくて喜んでいる。気が狂ってるとしか思えなかった。少なくともまともな人間ではない。


「とりあえず飲みな。大丈夫だから。そこまで鬼じゃないし」


 これまでの所業は十分鬼の所業だと思うが、確かに水は欲しかった。手を伸ばそうとして、また腹が痛んで体が縮こまった。


「ちょっと強過ぎたね、ごめんね」


 ちっとも悪気のなさそうな表情で謝ると、ユサの前に膝をついてユサを起こした。ユサの口に水筒を当てて、ゆっくりと傾ける。ユサの口の中に水が少し入ってきた。水の甘い味が口の中いっぱいに広がった。そのまま嚥下する。先程まであった口の中の酸味が消えてきた。すると、急に飢渇し始めた。


「もう少し、欲しい」

「おう」


 男がまた水筒を傾けてユサに水を飲ませた。美味い。美味かった。ユサの口の端から、少し水が溢れた。男がそれを指で掬うと、ペロリと舐めた。ユサが嫌悪に顔を顰める。


「そんな顔しなくったって……。勿体ないなと思っただけだろ」


 心外そうな顔をしてほざいているが、気持ち悪いものは気持ち悪い。それでも飲ませてもらった水のおかげで、ようやく身を起こすことが出来た。すると、ユサの上にかけられていた男の外套が座っているユサの足の上に落ちる。やけに体がスースーした。この違和感は。


「あー、ごめんね、流石にその胸のやつは上手く巻けなくて、取っちゃった。はは」


 その胸のやつ、と男が指差したものは、ユサの寝ていた脇にきちんと畳んであった。見覚えがある。胸に巻いていたサラシだった。何故、身につけていた物が自分の横に置いてあるのか。


 改めて自分の体をよく見てみる。着ているシャツのボタンも、よく見たら途中でひとつずつずれてはめられている。手首のところのシャツのボタンは、両方取れたままでだらんとしていた。右手首にはもう縄はついていないが、擦れて皮膚がぐるっと赤くなっている。ズボンの前のボタンは問題ない。だが、下着に違和感を感じる。服の上から手で触れてみると、全体的に捻れている。まるで、一度脱がされてまた履かされたような。足も、いつの間にか裸足だった。靴下が足元にくるんと束ねられて置いてあった。


 目の前で膝をついて座っている男を見た。にへら、と緩みまくった笑顔が返ってきた。


「何もしてないから安心して、な?」


 ユサは、視線で人を殺せるなら連続で殺しまくれる位の殺意を込めた視線で男を睨みつけた。怒りのあまり、噛み締めた奥歯がギリギリと音を立てている。声を絞り出した。


「……全部脱がせて、何した……!」


 一度裸にされたのは明らかだった。その上で、また服を着させられている。下着までずれていて、胸に巻いていたサラシは取られた状態のまま。ユサはまた泣きそうになった。捕まって、殴られて連れ去られて、裸にまでされて。ただ一所懸命生きようとしているだけなのに、この男もユサを搾取するのだ。人の気持ちなんてお構いなく。


 ユサが心底怒っていることが分かったのだろう、男が慰めるように言った。


「見ただけだよ。体、別にどこも違和感ないだろ?」


 いや、腹は痛いし手首は縄で擦れている。そういう意味ではないのは分かっているが、男の言い草が腹立った。 


「見た、だけだと? 殴って気絶させて、服脱がして?」


 男が頷く。悪びれた様子は伺えない。


「本当見ただけだって。何か他に持ってないかなって」


 男が、まあちょっと細かいところも見たけど、と口走った。どこの事なのかは、もう聞きたくなかった。ユサがゆっくりと立ち上がる。怒りで痛みは吹き飛んでいた。


「しかしあんたもう少し食べないと、ガリガリだね。あんなに胸を締め付けてると苦しそうだからもうちょっと方法考えたら?あ、それとヘソはもう少し綺麗にしておいた方がいいと思……」


 ガン! と、渾身の力で男の頭に回し蹴りを入れた。死ねばいい、そう心から願った。男は、頭を下に向けている。効いたか?


 男が、ゆっくりと顔を上げた。ボサボサの前髪から覗く青い瞳に、怒りの色が見えた。ユサは恐怖で思わず一歩後ろに下がった。この男、まさか痛みを感じないのか? こいつは、先程から何かがおかしい。


「人が話してる最中に頭蹴るって、流石にそれは失礼だろ」

「俺に、もう構うなよ……!」


 ユサの身体を、震えが襲った。逃げなければ、こいつはやばい、やば過ぎる。もう一歩下がろうとして、後ろにつんのめった。倒れそうになる。地面にぶつかる!


 男が地面を蹴ってユサの横に回り込み、瞬時にユサを受け止めた。ガクン、男の腕に受け止められて頭が揺れる。また吐き気が襲ってきた。


 左の足首に、何か巻きついていた。多分、あの縄だ。この男は、まだユサを逃すつもりはなかったのだ。


 ユサは必死に男の腕の中から出ようと藻掻もがくが、両方の手首を男の片手で掴まれ、また腕の中に引き戻されてしまった。動けない。怖い。怖かった。


「落ち着けって」


 恐怖の原因が、矛盾したことを言っている。ユサは足掻く。足掻いて藻掻いて暴れたが、男の力はちっとも緩まない。手首が痛い。体に回された腕が締め付けてきて苦しい。このまま捕まったら自分がどうされてしまうのか、恐ろしくてそれ以上考えたくなかった。でも抵抗をやめた瞬間、ユサは堕ちる。そうしたらもうユサではなくなってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。


 男がユサの顔を見て、これまでに一度も見せなかった表情を見せた。戸惑いだ。


「いや、その、あーどうしたらいいんだ?」


 男の腕の中で、堪えられずユサが泣いていた。理不尽に踏み躙られ、怒りすら無視され、力で敵わずとも、それでも心は死ねない。死にたくなくて、涙となって足掻いている。


「俺に……俺にもう構うなよ」


 切れ切れに、どうにか絞り出して言った。それなのに、男は戸惑った表情を見せつつも告げたのだ。


「それは無理だ。悪いな」

「なんで無理なんだよ……! もう、離してくれ」

「だから、無理だって」


 この男が自分を拘束している理由が分からなかった。ただ盗みの場でかち合っただけの男が、何故ユサを連れ去そうとするのか。


「俺を売るのか? こんなの売れないぞ」


 涙でぐしゃぐしゃで上を向けない。それに男の顔なぞ見たくもなかった。男が、ふ、と笑った気配がした。


「売りはしないよ。酷いこともしない。……多分」

「多分……て」


 滅茶苦茶な男の言葉に、ユサの心は恐怖を通り越して呆れ果ててしまった。会話が通じない。何を言ってもおかしな返答が返ってくる。頭がおかしくなりそうだった。


「……お前狂ってるよ」


 また何をされるか分からなかったが、つい言ってしまった。もう、殺されるのかもしれない。だったら、せめて楽に死にたかった。恐怖が麻痺していた。


 男が楽しそうに笑った。


「そうか、そうかもしれないな。あんたいい事言うな」


 何がいい事なのかも分からず、ユサはもうそれ以上何も言えなくなってしまった。そんなユサの様子を見て、落ち着いたと思ったのか、男が言った。


「とりあえず飯を食おう。今あんたに必要なのは食事だ」


 まだ少し声が弾んでいた。ユサは、ただ黙って動く男の喉を見ていた。

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