第16話 エバにとって、初めての旅だった。
ガダ合藩国とダン城壁連合は互いに大打撃を受けた。合わせて二百発以上の原子爆弾が飛び交い、爆発した。両国とも政府高官は核シェルターの中で生存していたが、官僚組織とほとんどの地方自治体が壊滅し、国家の態を成さぬほど弱体化した。ほぼ全土が放射能で汚染された。死者、行方不明者は推定六千万人、負傷者は数知れず。
それでも二億人以上の生存者がいた。死の灰を含む黒い雨が降り、住居もインフラも生産施設も破壊された焦土から、彼らは生き延びるために脱出しようとしていた。ガダの西隣のエデンアダム復活国、ダンの西隣のナテム共和国の国境には難民が押し寄せ、大混乱に陥っていた。ガダとダンの東は大海だったが、あてもなく船出する人々もいた。
エデンアダム復活国のカイエル・フープ法王はいち早く難民の受け入れを表明し、国境付近に多数のキャンプを設営した。一方、ナテム共和国はダンの城壁を逆封鎖し、難民の流入を阻止した。これにより、ダン難民もエデンアダム復活国に向かう流れが生じた。
それらの情勢をエバはすべてテレビで知った。
パピルス人民共和国のテレビ局はエデンアダム復活国の難民キャンプに特派員を送り、ニュース映像を撮影し、状況を解説した。
「こちらはエデンアダム復活国の南東部にあるサライ難民キャンプです。ここにはガダとダンの両方から難民が到来していて、ごった返しています。食糧も物資もテントも不足しており、多くの難民が野ざらしにされ、飢えに苦しんでいます。キャンプでは人材も不足しており、ボランティアを募集しています」
エバはかいがいしく働くボランティアの映像に注目した。彼らはキャンプ受け入れの事務手続きや炊き出しや生活必需品の配布など様々な仕事に無償で従事していた。これだ、とエバは思った。
彼女はビン・ハーン主席に会い、伝えた。
「難民キャンプへ行き、ボランティアとして働きます」
主席は困ったような顔をした。
「あなたは女神にも等しい信仰の対象です。できれば我が国に滞在していてもらいたいのですが」
「私は傍観者ではなく、当事者になりたいと思って知恵の樹の実を食べたのです。ここで安穏と過ごしているわけにはいきません。主席が協力してくださらないのなら、歩いてでもキャンプへ行きます」
ハーン主席は額に手を当てた。
「エバ様を手ぶらで行かせるわけにはいきません。三日ほど待ってください。援助隊を編成し、あなたと共に送ります」
エバは微笑み、三日間待つことにした。
三日後、指揮車両と食糧や物資を満載した二十台のトラックからなる援助隊が出発準備を整えた。エバは指揮車両の後部座席に乗せてもらった。
「支援隊長のリン・キム大尉です」と名乗った三十歳ぐらいに見える女性士官がエバの隣に座った。運転手も助手席に座った男性も軍服を着ていた。
「我々はサライ難民キャンプに向かいます。到着まで五日間の行程です。我が国土を三日で半横断し、エデンアダム国を二日で横断します」とキム大尉は告げた。
運転手が無言でアクセルを踏み、車両が動き出した。エバにとって、初めての旅だった。
大都市エデンの市街地を抜けると、肥沃な農地が広がっていた。エデンの園にたくさん生えていた果樹は少なく、小麦やトウモロコシの畑が多かった。なだらかな丘には羊が放牧されていた。エバは飽くことなく車窓を眺め続けた。
夕暮れ近くになって、援助隊はぶどう畑が広がる風景の中に入った。
「この地方はワインが特産なのですよ。マーレワインと呼ばれるブランドを生産しています。ぜひご賞味ください」と大尉が言った。
地域の中心都市マーレは煉瓦造りの住居やワイン工場、蔵などが建ち並ぶ美しい街だった。援助隊はマーレで停車し、隊員たちは宿屋に分宿した。指揮車両の乗員四名は最高級の旅館に宿泊した。
夕食は香辛料が効いた羊料理がメインで、もちろんワインも供された。エバは赤ワインをひと口飲んで、その甘みとほどよい渋みに魅了された。
「素晴らしいわ」と彼女は感嘆した。ソムリエが料理に合わせたおすすめのワインを次々とグラスに注いだ。エバは痛飲した。
二日目、援助隊は早朝から出発した。しだいに緑が少なくなり、砂礫の荒野に突入した。
「シド砂漠です。ただの荒野に見えますが、地下には豊富な石油が眠っています」
ところどころに原油採掘施設があり、煙突から火と煙を噴き出していた。パイプラインが地平線まで延び、こずこかへと消えていた。
午後になると、砂漠を越え、景色が変わった。五階建ての団地がどこまでも連なり、蛇人がその間を行き交っている。
「人民街です」とキム大尉が言った。
行けども行けども人民街は続いていた。同じような団地ばかり。たまにスーパーマーケットがあったり、農地や工場があるが、また団地が現れる。その繰り返しになった。
エバはついに風景を見るのに飽きた。
陽が沈み、援助隊はやや大きな都市に入った。団地が減り、代わりに高層マンションが建ち並んでいる。援助隊は大型ホテルの駐車場に止まった。
「このホテルに宿泊します」
夕食はバイキング形式だった。パンや肉料理、卵料理、サラダ、スープなどいろいろな料理があったが、どれもそれほど美味しくはなかった。まずいというほどではないが、何も印象に残らなかった。
三日目も援助隊は人民街の中を走り続けた。代わり映えのしないアスファルト道路を延々と走っていく。団地が連なり、ベランダには洗濯物が干してあったり、鉢植えの植物が置いてあったりしていた。空気はどんよりと濁っていた。蛇人たちの顔は総じて暗かった。たまに見かける工場は煙突からすすけた煙を吐き出している。
「人民街ばかりですね」
「エデンの郊外とマーレ地方は観光地です。他はたいがい人民街となっています。昔はもっと森林が多かったのですが、人口が増えるに従って、団地を建て、農地を切り拓いたと歴史書に書いてあります。もう森林はあまり残っていません」
「森林を見たかったです」
「北部に保護森林が残っています。森がさらに減少すると、大気中の酸素濃度が致命的なほど減少し、蛇人類は滅ぶと言われています」
「滅亡の原因は核戦争だけではないんですね」
「環境問題も深刻です」
大尉は無表情に説明した。エバは陰欝な気分になった。
空は灰色に曇っていた。普通の雲ではなく、粉塵を含む雲で、道路にも塵が降り始めていた。車のフロントガラスにもかかって、運転手がときどきワイパーで払った。
「核爆発により大量の灰が舞い上がって、大気を汚染したのです。この核の雲は世界中の空を覆って、核の冬を招くかもしれません」
「核の冬って?」
「大気中の微粒子が数か月あるいは数年浮遊して、太陽光線をさえぎるのです。それによって気温が下がり、冬が続く現象を言います。大規模核戦争は直接的な爆発によっても世界を破滅させ得ますが、核の冬によっても地上の生命を脅かすのです」
夜になってもライトを点けて、車両は走り続けた。周囲は相変わらず人民街で、団地の窓から明かりが漏れていた。歩道では疲れた表情の労働者たちがうつむきがちに歩いていた。空から微かに塵が降り続け、道に堆積していた。
「もうすぐ国境です」と大尉は告げた。
急に団地がなくなり、わずかに森林地帯を走った後、援助隊は停止した。金属のゲートと有刺鉄線のある柵がライトに照らされていた。キム大尉は書類を持って下車し、ゲートの前でエデンアダム復活国の軍人と言葉を交わした。
大尉が車に戻り、ゲートが開いた。指揮車両が門を通過し、トラック群が続いた。
「エデンアダム復活国に入国」と運転手がつぶやいた。彼が声を発するのは、とても珍しいことだった。
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