第5話 テレキャスターと『Let it be』
帰宅して早々、楓は夕食と入浴を済ませると自室のある二階へ上がり、ケースに大事にしまっていた真っ白なテレキャスターを取り出した。先ほど渚からもらったクリップチューナーをヘッドに取り付け、スイッチを入れて六弦から順にチューニングを合わせていく。ギターの標準的なチューニングは六弦(一番太い弦)から、EADGBE、ドレミファで言えばミラレソシミ。渚に教わった通り、チューニングを合わせるときは弦を張る側にペグを回しながら合わせていく。これはペグに使われている歯車にバックラッシュ(歯と歯の間の遊び)があることと、弦が緩む方向は張る方向に比べテンションの変わり方にムラがあるためだ。
楓はチューナーに表示される音程のメーターとにらめっこをして、デジタルの針がど真ん中に来るように粘り強く合わせていく。一番細い一弦までチューニングし終えたら、今度はまた六弦にむかってチューニングし直す。最初に合わせた六弦のチューニングは、他の弦が張り終わるとまたテンションが変わってずれていく。そのためチューニングは往復するようにやるのが鉄則だと渚は口酸っぱく言っていた。
チューニングを終えてチューナーの電源を切ると、とりあえず六本の弦をどこも押さえず開放状態でジャランと鳴らした。特に綺麗な和音でもなく、かといって極端な不協和音でもないギターの開放弦の音は、どこか不思議な感じ。唯一弾けるEメジャーコードを一度鳴らすと、楓はふと思い出して通学用の鞄から1冊の本を取り出した。
学校の図書館にあった初心者向けのギター教本だ。ご丁寧にギターの仕組みから各部の名称、手入れのやり方やコードの押さえ方までたくさん載っている。楓はその本のちょうど真ん中らへんにある、ギターコード表のページを開いた。
「コード……、こんなにたくさんあるんだ」
まるで英単語の活用一覧のようにびっしりとコードが図示されていて、パッと見ただけでは目が回りそうになる。ルート音Eの欄を見るだけでも、メジャー、マイナー、セブンス、マイナーセブンス、メジャーセブンス、ディミニッシュ、オーギュメント、サスペンデットフォース、アドナインス等々……。一応規則性のようなものはありそうだが、この量を覚えるのは骨が折れる。渚はこの膨大な数のコードを覚えたのかと思うと、楓には一気に尊敬の念が湧いてきた。もともと頭のいい渚といえども何か覚えるためのコツをもっているに違いない。そう思った楓はスマホを取り出し、さっそく渚に連絡を取ってみた。
『コードって、この表全部覚えないとダメ?』
メッセージと一緒にギターコード表のページを写真に撮って送った。するとほとんど間を置かずに渚から返事がきた。
『こんなん覚える必要ないよ。コードなんて曲を練習しながら覚えていけばいい』
その文面を見て楓は少し肩の力が抜けた。さすがの渚といえども、表の丸暗記はしなかったようだ。
『だいたい、英単語だって例文に出て実際に使うから覚える訳であって、コードも曲中で使わないと覚えらんないよ。現に私、オーギュメントとかディミニッシュ全然覚えてないし』
渚の説得に妙に納得してしまった楓は、コード表のページにさよならを告げて、教本の後ろ側にある課題曲のページを開いた。
「この曲なら知ってる。確か音楽の授業に出てきた」
課題曲の中にあったのはビートルズの『Let it be』、超が付くほど有名な曲であるのはもちろん、コードの数も少なく、テンポもゆっくりなので最初の一曲としてはかなりとっつきやすい。一応、渚にも相談してみようと思った楓は、これまた『Let it be』のページを写真に撮って渚へ送った。
『これ、練習にどうかな?』
『おー、めちゃめちゃセンスあるじゃん。それがいいよ』
渚は絶賛してくれた。そうなれば楓は早速練習に取り掛かる。スマホで動画サイトを開き、公式配信されている『Let it be』の動画へアクセスして曲を聴き込んだ。冒頭のコードはCメジャー。押さえ方をコード表で確認する。唯一知っているEメジャーとくらべて指と指との距離が遠く、なかなか上手に押さえられない。やっと押さえるポジションを見つけたと思って弦をかき鳴らすが、指がほかの弦に当たって上手く鳴らない。何とか無理くり押さえているうちに左手が痛くなってきた。そして、幾度となく右手で弦をかき鳴らしているうちに、一番細い一弦がぷつりと切れてしまった。
弦と同時に集中も切れてしまった楓は、替えの弦もないので今日のところは諦めて、また明日渚に教えを乞うことにした。半ば不貞寝のような形ではあるが、また明日渚に会えることを思うと、楓はワクワクしてしまい不貞寝のわりになかなか寝付けなかった。
翌日、授業を終えて颯爽と旧部室棟の軽音楽部室を訪れると、まるで朝からそこにいたのではないかというくらい入り浸っている様子の渚がいた。
「よっ、今日も来たね。『Let it be』は弾けた?」
「それが……」
楓は事情を話すと、渚はなるほどと手を叩いた。今時漫画でもそんなアクションは見ないけれど、何故か渚がやるとそれなりに様になる。
「そんじゃ、替えの弦でも買いに行こうか。んで、ギターのほうはちょっと修理してもらおう」
「修理って、楽器屋さんに?」
楓は財布の中身を心配した。ただでさえ昨日テレキャスターを買ったばかりなのに、さらに修理代がかさんだら火の車である。
「違う違う、電子部品の交換なら適任がいるんだよ。隣に」
「隣……?」
二人は軽音楽部の部室を出て、隣にある別の部活の部室のドアを叩いた。
「みなとー?いるー?ちょっと頼みがあるんだけど」
少しの間をおいて、その部室の扉が開いた。中から出てきたのは、背が低くて髪の長い眼鏡の女の子。おまけに、白衣までこしらえている。
「……要件は?」
「このギターの可変抵抗を交換してくれ。1MΩと250KΩ、どっちもAカーブで」
「……わかった」
みなとと呼ばれたその女の子は、楓のテレキャスターを手に取ると部室の奥へ消えていった。
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