第2話 テレキャスターと長い夜

 楓は帰宅してからもあのテレキャスターのサウンドが頭から離れなかった。楽器などせいぜいリコーダーと鍵盤ハーモニカ程度しか触れてこなかった楓にとって、それはまるで初めて手を出したドラッグのような衝撃と強烈な中毒性を持っていた。明日の授業の予習をしようにも興奮して手がつかないので、勉強中には絶対に手を触れないと決めていたスマホを手に取って、先ほど自分が鳴らしたギターについて調べることにして気を落ち着かせようとした。

「えっと……、『テレキャスターはフェンダー社の創始者、レオ・フェンダーが開発したエレクトリックギターである――』」

 その歴史は古く、テレキャスターの原型と呼べるギターは一九四九年ごろに完成したとされている。従来はまるで工芸品のように一本一本職人が作り上げていたギターをレオ・フェンダーは『工業製品』に仕立て上げたのだ。ボディは表面を曲面仕上げすることなくまっ平な形状を特徴とし、さらにボディとネックを別々に製造し、最終的にそれをボルトで固定するという大胆な手法を編み出した。このノウハウはさらに改善を重ねて後の後継機種に引き継がれていくが、基本的な要素は現在でもほとんど変わらない。また、弦の振動を電気信号に変えるピックアップと呼ばれる部品にも特徴があり、二つのシングルコイルから生み出される澄んだ高音域を持ったサウンドは、ロック、ポップスといった現代音楽にもマッチしている。

 このような感じで楓はインターネット上のテレキャスターに関する記事を読み漁っているわけだが、その程度で興奮が収まるはずもなかった。『普通』に過ごしていたら決して交わることが無かったテレキャスターの虜になってしまっていたのだ。欲しい。テレキャスターを自分のものにしてまたあのサウンドを全身で受け止めたい。そんな衝動的な気持ちは楓を楽器屋のホームページにアクセスさせていた。

「Fender USA のテレキャスター……、二十三万円……」

 とても高校一年生の楓に買えるような額ではない。テレキャスターは工業製品のように仕立て上げられたことで製造コストは下がったが、現代では木材がどんどん枯渇していて価格が上昇している。由緒正しい本家本元のアメリカ製テレキャスターならばブランド代もそれなりに加味されていて尚更高価だ。楓は楽器屋の検索画面を価格の安い順に並べ替える。しかし、『Fender』と名の付くものはメキシコ製や日本製でも六~七万円はする。そこまで値段が下がっても楓にはまだ手が届かない。

 現実を突きつけられてしまって意気消沈してしまった楓は、人前では見せたことのないくらい大げさにがっくりと肩を落とした。深呼吸をして心拍数を平常状態に無理やり近づけると、興奮していた脳から血が戻ってきた感覚に襲われる。先ほどまでの衝動的な勢いがなくなったので、楓は再びスマホを置いて明日の予習に取り掛かることにした。


 大体の予習と宿題をこなし終えたころ、晩御飯の準備ができたという祖母の声が一階から聞こえた。楓は実家を離れて母方の祖父母との三人暮らしをしている。これは別に実家の両親と不仲というわけではなくて、単純に隣の北秋田市の山奥にある実家と大館市の中心部にある高校が離れすぎていて、通学するのが困難なためである。返事をして一階へ降りた楓は、食事と入浴をささっと済ませてまた二階の自室に戻った。部活に入っていないので、帰宅して勉強して食事をとって入浴まで済ませてもまだ夜は浅い。この長い夜の時間が今までは別に何ともなかったのだけれども、今日に限ってはそれが辛くてしょうがなかった。ぼーっとするとやっぱりテレキャスターのことが頭に浮かんでくるのだ。

「やっぱり、あの子とまた話がしたい……。テレキャスターのこと」

 渚なら、何か自分のこのどうしようもない気持ちを何とかしてくれるかもしれない。楓はそう思った。というより、自分をこんな気持ちにさせたのは渚のせいであるのだから、彼女にはそれなりに責任をとってもらわなければ困るとさえ思っていた。強烈に何かが欲しくなったことも、誰かに急に会いたくなったことも、楓にとっては経験したことのないことで、『普通』に呪われていた人生にほんの少しのヒビが入ったのかもしれないという感覚に戸惑いながら夜は深まっていった。ただ、しっかり者の楓らしく、目覚まし時計の電池を新品に交換することは忘れていなかった。

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