僕みたいな大人にならないで/後編
何度か乗り換えを繰り返して、「世界の果て」に辿りついたのは夕方、日がゆっくりと西の山に沈もうとしていた。
「『世界の果て』って、日本の本州にあるんですね」
「僕の地元です。僕的にはもう終わった町、『世界の果て』です」
駅員がいない駅で改札をするりと抜けると、波がさざめく音が聞こえてきた。潮の香りなんて、何時ぶりだろう。慣れない生臭さに嫌そうな顔をしていたのか、男が「僕も好きじゃないです、この臭い」と手で口元を覆った。
「地元の自治会がなんとか観光地として盛り上げようとした、というか今もしているかもしれませんけど、全然上手くいってませんね。前に来た時より廃れている」
海沿いを歩いている間に、観光イベントのポスターを何枚か見かけたが、これもきっと地元の人しか集まらないのだろう。「海辺で綺麗に整備されていて、さらに温泉もあるところなんて日本には山のようにありますからね。この町は僕が生まれた時から死んでいました」と男が皮肉交じりに言葉を吐く。
「見えますか、白い、海のすぐ傍にある、あれが僕らの目的です」
「あなた曰く死んだ町で、一体誰がラブホテルなんて使うんですか」
「さぁ誰なんでしょう、外装がそれっぽくないから、もしかしたらこんなところに来る物好きな観光客が勘違いして入っちゃうかもしれない。部屋に入ってようやくラブホテルだって気がつくんですよ、面白くないですか?」
傍に来ても、全く人気のない建物が本当に営業しているのか不安にさせる。
「高校生のとき同級生がホテルの近くでよく隠れて群がってました。何も見えないし、聞こえないのに、出入りする知らないカップルを眺めて興奮でもしていたんですかね」
「あなたはそこに混じってなかったんですか」
「僕はずっと『少子化問題解決のために頑張ってくれ』と思ってるだけでした」
「高校生の時から相当ひねくれてるじゃないですか……」
薄暗い建物に入ると男か女かもよくわからない老人がいて、男が「今日営業していますか」と訊くとゆっくり頷いた。料金表に書いてある額を老人の手に乗せると、代わりに適当に手に取った鍵を渡してきた。「客なんて、いつぶりじゃろ」と、やはり男か女か判別できないくしゃくしゃの声で呟いた。
「僕が見捨てた町ですけど、ここはずっと前から入ってみたかったんですよね。物心ついた頃からずっと見てきた白い建築物、ずっと中はどうなっているんだろうって興味がありました。でも正直営業していたのかもわからないし、建物の目的を理解したときには彼女はいないし、東京から遠いし、小汚くて彼女もセフレも連れてこれないし」
「それで、ネットで釣れた女子高生を代わりにしたんですか」
「でもあなたが脅してきたんですよ、ちゃんと音声残ってますからね」
部屋の扉を開けた瞬間、海の傍だからかさっきと同じ生臭いにおいがした。きちんと掃除されている雰囲気ではなかったため覚悟はしていたが、部屋の電気をつけて目を凝らすと、ふよふよと大量の埃が空気中を泳いでいた。肺に吸い込んで、咳き込む。
「……なんか、とりあえず嫌われてもいい人と来れて良かったです、ありがとうございます」
「感謝されても全然嬉しくないです……」
ベッドに腰掛けると、その衝撃で細かい埃がふわりと舞った。男が唯一駅前にあったコンビニで買った缶チューハイのプルタブを開ける軽快な音がする。9%と書かれた文字が汗をかいている。
「快楽に浸りたいだけだったら一人きりで酒でもいいんですけど、でも弱い、効果が。日中は飲めないし、僕アルコールに割と強い体質みたいで、ちょっとクラクラふわふわして、でも醒めるのは唐突だから、現実に無理矢理引き戻される感じがすごく嫌いです」
そう文句言いながらも缶をあおる男の頬が少しだけ赤らんでいるように見える。試しに「私にもください」と言ってみると、「嫌ですよ、未成年に飲ませたなんてばれるの」とちゃんと理性が残った返事が来て、少し安心した。
少女はスマホ、男は缶チューハイを手にしてずっと黙っていた。このまま普通の旅行と同じように各々風呂入って寝るだけなんじゃないのか。さっきまで勝手に色々喋っていたのにアルコールを入れた途端に寡黙になった男に耐えられなくなった少女が話を切り出す。
「――でも、一人が寂しいのはわかるんですけど、みんながあなたみたいなことしている訳じゃないですか。寧ろあなたの方が少数派だし。きっかけというか、何があなたをそうさせたんですか」
「――どうして僕が僕なのか、ですか」
何かを叩きつけるような大きな音がした、と思った瞬間少女の身体がぐらついて、男がベッドの脚を思い切り蹴ったと気づく。
埃っぽいベッドに仰向けに倒れた少女に、男が覆い被さっていた。
漏れる吐息から煙草の煙とアルコールの混じった匂いがして、「大人」を凝縮したようなそれに気を抜くと酔ってしまいそうになる。
「――アキちゃんは、いつも僕がアパートのインターホン押すとすぐに扉開けて、玄関でぎゅーって長いハグをしてくれるんです。料理が上手で、いつも温かいご飯を作ってくれてました。月曜日なんて、散々じゃないですか。休日のまどろみから急に叩き起こされて、溜まったメールの処理をすると、上司と取引先にへこへこ頭を下げる毎日がまた始まる。アキちゃんは、そんな僕の愚痴を、多分ちゃんと内容聞いてなかったと思うんですけど、『えらいね、頑張ってるね』って、いつも僕の頭を撫でて褒めてくれました。厳しい月曜日に吹きつけられた僕を、その包容力で僕を癒してくれた」
「あなたは、『月曜日のアキちゃん』の代わりになってくれますか」
直接触れていないのに、男の少し高い体温を空気伝いに感じる。彼も、私が発している熱をすぐ近くで感じているのだろうか。
私はもうすぐ、「月曜日のエリちゃん」になる。
覚悟は決めた、こうなるのを望んでいたはずだ。突然の怖さと緊張で体がこわばって動きそうにない。少女は目をぎゅっと瞑った。
「――僕を強引に誘ったの、援助交際が目的じゃないですよね」
「――は?」
この流れからしたらあまりにも想定外な言葉に拍子抜けして、間抜けな声が出てしまう。
「だから、お金には困ってないですよね。あなたがつけてる香水、シャネルのですよね? 高校生なのに、頑張って買ったんじゃないですか?」
「――なんでわかったんですか、またカマかけたんですか」
「違いますよ、僕も貯めたバイト代で買ったことあるので。何回も何回もテスターつけて、ようやく決めたのと同じ匂いがしたので」
男が立ち上がると古いベッドがぎしぎしと軋んだ。正直壊れるのが怖くてこのベッドで二人で寝る気にはなれなさそうだった。
「さっきはすいませんでした、あなたの香水の匂いずっと気になってて、それでちょっとふざけすぎました。でも他の男から金を巻き上げて買ったものでもなさそうだし、あなたが高級な香水買って破産するような馬鹿な真似はしないと思ったので」
嘘つき少女が、観念して大きなため息を一つついた。
「――同級生の彼氏に迫られて、怖くなって断ったら、それから彼の態度が急に冷たくなりました」
「なんですかそれ、酷い話じゃないですか」
男が想定外な反応を示して、正直驚いた。
「だから、もう知らない人で捨てちゃおうって。それで恐怖心が無くなれば」
「絶対やめたほうがいいです」
話の途中遮って男が強く言った。人に好かれそうな柔らかな雰囲気も、その時だけ男から無くなっていた。
「そんなに好きでもない男としたって、ましてや会ったばかりの僕とだなんて、僕はそんな役目負わされて後々後悔して恨まれるの、絶対嫌ですから」
「そんなに好きでもない」? 彼を知らない男にいかにもわかっているかのような口調で話されて、むかつかない訳がなかった。
「――あなたに私の何がわかるんですか? 私はちゃんと彼のことが好きです。大好きです! あなたみたいに安っぽい体関係で満足するような気持ちじゃないんです私は!」
「高校生の恋愛なんて、所詮ステータスですよ。彼氏彼女がいるからあの子は上、逆にいないと下に勝手にランク付けされる。いたらいたで僻まれるし、いないと自分が惨めになる。高校生の時付き合ってそのまま結婚する、なんて人どれくらいいるんですか? そんな舞い上がった青い恋愛にすがって自分の気持ち殺すだなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があります」
「だって――好きだから、ちょっと怖い思いしたって、彼のためなら」
「それくらい如きであなたに飽きる男のためにですか? それを『依存』って言うんですよ一般的には」
「依存」。何度かネットで見たその言葉。今まで本当は見えているけど見えていないふりをしていたその言葉に、少女は我に返らされた。
「そんな最低な男に抱かれたって、嫌な思い出しか残らないですよ」
「――あなただって、踏みにじったじゃないですか、『アキちゃん』の気持ち」
「僕らは、元々恋愛感情抜きの関係でいようって最初に約束したんです。でも、そうですね――」
「――自分ばかりで、もうずっと前から人の気持ちを汲めなくなった。最低なのは、僕もきっと変わらないですね」
*
それから何かが起きる訳でもなく、少女は小汚いベッドに一人で横になり、男は椅子に腰かけて寝たふりをしながらそのまま一夜を明かした。空がうっすら明るくなり始めた午前五時、「もう出ますか」という男の問いかけに少女は「そうします」と即答した。
明け方の水色に染まった駅のプラットホームで始発を待つ。男が咥えた煙草が水色に灰色を描き足していく。男はホームから一面に広がる海をぼんやりと眺めていた。
「……昨日は、大人げないこと言ってすみませんでした」
謝られる理由は十分にあると思ったし、こちらが逆に謝る要素もないかと思って少女は何も返さなかった。
「でも、昨日あんなこと言いましたけれど、今になって考えたら高校生の時に恋愛しておけばよかったとは思います。失敗が怖くない、まだ若いうちにたくさん失敗しておけばよかった。人に傷つけられて、自分も人を傷つけて、辛いけれどそういう経験が僕には必要でした。わかんないですよお互いにボロボロになりながら必死になって探っていかないと、人との適切な距離感なんて」
大きく息を吸って、煙と後悔を吐き出す。少女はまだ黙っている。
「僕も、この僕の生活と他人からしたら歪んだ価値観が正しいのか、自分でもよくわからなくなってます。きっとあなたが言っていることの方がよっぽど正しい。でももしこの生活を止めたら。全員との関係を断ち切って、一人でも生きられるのか……今の僕には、到底できるとは思えません。『別の日は誰と何していても構わないから、今日この時だけは僕の傍にいて』。これもまた、一種の『依存』ですね、あなたに散々説いておいて、情けない」
「……随分、女々しいんですね」
「そうですね、考え方は割と女性的なのかなとは思ってます。他の男は、多分もっと自分の欲望に忠実な人が多いと思うので、この先気をつけてください」
二人以外誰もいないホームに、始発の到着予告をするアナウンスが響く。遠くで電車が近づいてくる音がする。男が携帯灰皿にまだ半分くらい残った煙草を押し付けた。肺に残っていた罪悪感を全て吐き出す。
「――あなたはまだ十分間に合いますから。どうか、僕みたいなどうしようもない大人にはならないで下さい」
*
東京駅に着いたのはまだ日が高い時間で、ゴールデンウイーク真っ最中の駅構内は人でごった返していた。
「あっそうだ写真、流さないでくださいね」
「援助交際してもらってないですけど」
「資金的な『援助』をした『交際(デート)』だったじゃないですか。あなたのこと思って指一本をあなたに触れてないんですから、感謝の一つしてくれてもいいんですよ?」
ベッドの上では至近距離だったけれど、と同時に昨日の咽かえるような香りが鼻の中で蘇って再び少女の心臓がうるさくなる。
「……まぁ、流さないです、消しておきます」
「よろしくお願いします。あと、アプリの方の連絡先も消しときますね」
これでもう二人が会うことはまずない。そういえば名前、結局知らず終いだったと今思い出した。
「僕の我儘に付き合ってくれて、ありがとうございました。どうかお元気で」
「私も、色々言い過ぎてすみませんでした。お元気で」
あれ、謝るつもりなかったのに。それについて男は何も触れずに既に人混みの中に紛れている。男の頭が完全に隠れて見えなくなってから、少女も逆方向へ歩みを進めた。
*
本当は、何となく気づいていた。自分の彼氏に対する気持ちが本当に「好き」だけなのか。「人が好き」がどういう気持ちなのか、分からなくなっていたのは私も同じだったのだ。
去年の秋に教室に呼び出されたと思ったら告白されて、確かに仲は良かったけれど恋愛感情までは持っていなかった彼に私は戸惑った。「少し考えさせてほしい」、そうお願いして、時間を貰った。折角私のこと好きだって言ってくれた彼のことを、もっと知りたいとは思った。だから付き合うことにした。
学校帰りのタピオカ、休日にちょっと遠出するデート、クリスマスのイルミネーション、お正月の初詣、バレンタインの慣れないお菓子作り。二人でいると世界が今までと比べてずっとキラキラしていて、幸せだった。彼に告白されて、付き合えて本当に良かったと心から思った。
その矢先だった。彼の家で普段触られないところを触られて、咄嗟に逃げてしまった。彼に「キス以上のことがしたい」と言われて、いつもとちょっと違う雰囲気の彼が怖かった。「ごめん、怖い」と気がつくと口走っていた。
放課後デートの数が減り、彼は彼の友達と帰ることが多くなった。教室でも、前より他の女の子と話しているのをよく見るようになった気がする。もう私のこと嫌いになって、私のいないところで悪口言っているのかもしれない、そう考えてしまう自分が死ぬほど嫌いになった。
彼のために、私にやれることは何でもやろうと思っていた。彼の役に立ちたかった。ただ過去に言われた「
「そんな男に抱かれたって、嫌な思い出しか残らないですよ」
さっきまで一緒にいた男の言葉を思い出す。あの時はそんなことないって確実に心の中で断言していたのに、今ではすっかり自信がない。
本当は私の中で、彼と別れる理由は十二分にあったのだ。
スマホの電源を入れると、そういえば昨日無視した彼からのLINEがあった。そのLINEも、彼の番で止まることが最近はほとんどだった。返信メッセージを考えようとして、ふと通話ボタンに指が伸びた。
「――もしもし、
私は、「月曜日のエリちゃん」を辞めて、
終わりへと着実に向かう恋に、私はまだしがみついている。
*
かつて幸せにしたい人がいた。
大学三年生から三年間付き合った彼女を、彼女の気持ちを考えないで自分ばかりの僕はたくさん傷つけてしまった。仕事に追われて余裕がなくなり、たくさん泣かせてしまった。僕には経験が必要だった。僕にとって初めての彼女じゃなかったら、今頃違う結末になっていたのかもしれないと僕は何度考えただろうか。
彼女と別れた後、どうしようもない寂しさが僕を襲ってきて、まるでずっと水の中で酸素を求めている、溺れ苦しんでいるみたいだった。どうすればこの苦しみから解放されるのか、前を向くにはどうすればいいのか、毎日必死に検索欄に打ち込んでいた。
誰でもいいから。「彼女」という関係じゃなくてもいいから。元々彼女でいっぱいだったはずの空白をその時はとにかく埋め合わせてほしかった。
気がついたら始めていたマッチングアプリで、最初に会った女の子も僕と似たような境遇だった。一人が怖いから、誰かと繋がっていたい。その日から、僕らの体だけの関係が始まった。温かい人肌に触れている瞬間が本当に心地よくて、週何回かでは足りなくなって、僕は溺れた。一番初めに会った女の子は、出会って数カ月で彼氏ができて、もう僕とは会っていない。
「あなたみたいに安っぽい体関係で満足するような気持ちじゃないんです私は!」
僕は何となく気づいている。愛情のないこのやりとりが不毛であること。このまま永遠に僕に幸せが来ないこと。あの子が羨ましかった。依存だ、なんて言ってしまったが、それでも純粋に人を好きでいられるあの子に内心嫉妬していた。
一度だけ、元カノを僕の地元に連れていったことがあった。相変わらず寂れた港町で、彼女が「何か趣ある建物がある」と指さしたのがあのラブホテルで、それを教えるとまだ初めてを迎えていなかった僕らは途端に恥ずかしくなってその場からすぐに立ち去った。
その後初めて体を重ねたとき、お互い全然わかってなくて、恥ずかしくて、ムードぶち壊して何度も笑ってしまったけれど、その時確かに僕らは幸せだった。やっぱり彼女のことが大好きだ、これから先ずっと大切にしたい、二人ならきっと大丈夫と、僕は勝手に確信していた。
本来はそういうものなんだ。今ではすっかり感覚が麻痺してしまっていて、あの時確かに噛み締めていたはずの彼女とのひと時を僕はもう思い出せない。僕は人との距離感を、関係性をずっと間違ったまま、この先矯正できないまま生きていくしかないのかもしれない。
スマホを開くと、着信が一件入っていた。元カノだった。僕を気にかけてくれてなのか、それとも復縁を望んでいるのか、一か月に一回、着信だけ入っているけれど、僕はそれに出たことがない。
今の僕に、それに出る資格はないはずだ。
電話帳を開いて、右耳にスマホを当てると、甘ったるい声が耳に流れ込んできた。
「――もしもし、モモちゃん? ごめん今からそっち行くね」
僕は、
あかりの連絡先を未だに消せていない自分を、相変わらず情けないなと鼻で笑った。
月曜日の逃避行 @fluoride_novel
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます