第83話 矢雨




 ざんざんざんざと降っている雨に、苛立つ。


 何だろう。この胸騒ぎは。出来ない魔化をしてでも早く着かなきゃいけないような、そんな予感。


 豪雨の中を三人で走っている。


 雨に濡れる時間を短くしたい。そんな思いもある。だけど、別の焦燥感がはっきりとある。


 急がなければ、間に合わなくなってしまうような。もうすでに、遅いと理解しているような。


 ただの予感じゃないことは、明らかだった。せっかく用意した腸詰めも置いて走り出している。何も無ければ、後で取りに行けばいい。


 前後の二人も息切れしている。切れた息もどうでもいいように、走り続ける。


 豪雨で全体が水たまりになったような草原を走れば、ぐちゃぐちゃと濡れた土を掘り起こしてしまい走りにくい。


 脚の速いソージ君は僕の先を走っている。遅いイッサさんに合わせようとは、僕もできなくなっている。


 前を見れば、金糸の髪が雨で濡れて重くなっている。僕の白い髪は、元々は蛇だったからあまり水を吸わない。イッサさんの黒い短髪はまったく寝ていないだろう。そんなどうでもいいことを考えた。




 一足先に門――というか、村を囲む柵がない部分に着いたソージ君が立ち止まった。


 何かが起こっているのは、もう明確だった。男たちの怒声が、豪雨の音の中わずかに聞こえていた。


「何、ですか、これ」


 血を流して倒れている村の人たち。明らかに、その体に生命は宿っていない。


 呆然自失のソージ君の脇をすり抜ける。


 僕は冷たい。あんなに優しくしてもらった村の人の死より、怒声の元へと走った。


 すでに遅かった。


 眼に入ったのは、矢の雨。


 兵たちに囲まれている中心に、頭二つ大きい兄さんがいるのだと分かった。


 暴れたのだろう。統一した防具の兵たちには、血を流して倒れている者もいる。タマソン村の、優しかった人たちも大事なものを落として倒れている。


 兄さんは、射られた矢の数本を剣で弾く。


 しかし、何十本もの矢を弾くことは出来ず、数本を弾くとあとは避けきれなかった。


 背中に一本の矢が吸い込まれ、倒れそうになる。前方の矢が右肩に刺さり、右後ろに体が流れる。


 それでも矢を弾こうと剣を振るうが、たまたま当たったような矢が落ちるのみ。


 数本の矢に射抜かれ、出来の悪いダンスを踊る。


「化物が! まだ、まだ倒れねぇのかよ!」


 取り囲む弓兵たちが、また矢を射る。もうヒジカは弾けない。


 また十数本の矢が刺さり、趣味の悪いオブジェのような狼男が、ただ立っていた。


 もう矢は射かけられない。


 もう踊らない。


 走り続けていた僕は、ようやく跳びつける範囲にまで来た。


「ヒジカァァァア!」


 跳んで一人を踏みつける。首を捩じ折ってそれを足場に跳び、兄さんの元へ。


 兄さんを囲む兵たちの視線が刺さるのを感じる。


 そんなことはどうでもいい。兄さんが、ヒジカが、この好い人が死んでしまう。


「全員、白髪の子どもに矢を!!」


 僕にも矢の雨が降りそそぐ。一本一本が見える。ソージ君の動きよりも遅い矢を、首だけ後ろに向けて防ぐ。それでも、ヒジカにまた二本刺さってしまった。


 ヒジカの姿を見て体に力が入らなくなった僕は、掴んだ矢の力にさえ流されて膝を付いてしまう。


 ――何で!? この程度の敵が何人いようと、ヒジカが負けるワケがない。


 後ろの地面に答えがあった。兵士の足元に金糸の髪を地につけた女の人の体。


 ミィ姉さん。


 そうか、そうなのか。そこまでやってしまうのか。だからヒジカは、兄さんは。


 ゾッとする。恐怖でなく、怒りで背筋に太い何かが走った。生きてもいない髪が逆立つ。勝手に眼が群れの頭を探す。


 オ前カ。


「ヒ! も、もういい! すでに致命傷だ! 退け! 退けぇえ!」


 今は、殺すべきとさえ思えない。あんな奴らはどうでもいい。


 兵たちがバタバタと去っていく。


「……オゥ。ヤッパ強ェし、ヤッパリ、ソウ、ダッタ、カ」


 ヒジカは辛うじて声を出す。立ったまま。顔が痛いほどの豪雨の中なのに、はっきりと聞こえた。


 どうしていいかわからず、立ち上がってヒジカの両腕を持って支えた。こんなに矢が突き刺さって。立って喋っているのが不思議なほど。


 僕はただ、うろたえるしかない。寝ころばせれば矢が食い込む。矢を抜いても痛みと出血は重い。


 何でもできると思っていた。


 邪眼で生物なら動きを止められる。


 高位の魔物でも倒せる。


 百メートルを超す大蛇になれる。


 空だって飛べる。


 でも僕は、何もできないじゃないか。


 この優しい勇者の、矢一本分の痛みさえ取り除いてやれない。


「ヒジカさん!」


「ヒジカ!」


 ようやく二人が追い付いてきた。


 ソージ君は、イッサさんに背を支えられている。たった一人の家族の姉の死なんて、村の皆殺しなんて、十歳の少年に抱えられるものじゃない。


「……オゥ」


 虚ろな青い目で、イッサさんとソージ君の名前を呼ぶ。小さいが、豪雨の雨音よりも強い声。


「……ナァ。一緒に……、行コウゼ……」


 何のことだかわからなかったのは、一瞬だけ。


「何ですか……! 今さら、今さらそれを言うなんて!」


「俺たちは……、ずっとその言葉を待ってたんだぞ!」


 一緒に旅に出よう。勇者一行として。


「……悪イナ。断ラレタラって思ウト、怖クテ、ナ」


 勇気が出ナクテ、勇者ナノニナ。そう言って兄さんは力無く笑う。


「オ前も。来て、クレルカ?」


 兄さんは僕にも、そう言ってくれた。こちらを見つめて。


「……うん。いくよ! 僕も、連れていってよ……!」


 兄さんが右手を僕の頭に乗せる。


「ナァ。オ前、も、勇者適正を持って、ルン、ダロ?」


 死に抱かれている勇者に嘘を吐く度胸は、僕にはない。


「うん……。持ってるよ」


 後ろの二人が驚いている様子を、背中越しに感じる。


「ヤッパ、リ、カ。ソンナ気、し……タンダ」


 兄さんが血を吐いた。大量の血が僕の顔にかかる。


「……任せて、イイ、カ? 亜人ノ、コト、ヲ」


 僕は、兄さんの眼を見てただ頷いた。精悍な少年の勇者の顔は、出会った時からずっと尊い。


「ありがと、う、ナ。イッサさん、ソー、ジ」


 呼ばれた二人は、ヒジカの横に立つ。それぞれ左右の肘を支え、その言葉を聞き逃さないように。


「二人、にも、頼、ム。一緒、いきた、ケド行け……うに、ナ……」


 最後は聞き取れなかったが、二人にも意図は伝わったのだろう。


 任せろと、任せてくださいという声が重なった。だからヒジカ、死ぬなと。


 息が弱くなっている。掴んだ体から命が抜けていっている。


 刺さったいくつもの矢。豪雨によって奪われる血と体温。


 駄目だ。もう死ぬ。


 今まで誰かを助けるなんて、考えたこともなかった。僕は人を治癒させるようなスキルは持っていない。


 欲しいとも思ったことがなかった。


 こんな時、こんな時僕に、何かできることは、ないのか。いやあるはずだ。


   ――善悪の天秤が揺れています。


 現実主義であるつもりの僕が、きっとこれは夢なのだと思ったりもした。


 目が覚めれば、お母さんとお父さんがおはようと言ってくれる。今日は兄さんとミィ姉さんの結婚式なんだ! タマソン村のみんなで二人を祝う。二人の愛が間違いないことの証に、ミィ姉さんのお腹には天使がいる。言い過ぎじゃなく、二人の子どもなら絶対に天使よりかわいい。みんなが笑っている。イッサさんはおんおんと大声で号泣して、リリィ嬢は精一杯の笑顔で幸せな二人を祝福して、ふっと色んな感情がこみあげて泣きはじめる。ソージ君も我慢してたけど結局泣いてしまって、指で涙を拭いながら笑う。白のタキシードを着た兄さんと、ウエディングドレスを着たミィ姉さんがお互いに手を取って微笑む。僕は二人が歩いているのを見て胸がいっぱいにな――。


   ――善悪の天秤が揺れています。


 そんな都合の良い夢は、幻だ。


   ――善悪の天秤が揺れています。


 戻れ。現実に。僕がやるべきことは、現実逃避じゃない。


 逃げられないのだ。今厳然とある、ヒジカ・トージスの身体が命を失っていく現実からは。


 光が抜けていくヒジカの青い瞳と、眼が合った。



   ――善悪の天秤が揺れています。


   ――善悪の天秤が揺れています。


   ――善悪の天秤が揺れています。


   ――善悪の天秤はくだけちった!



 首から、ガキンと音がした。



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