第2話 希望もなかった。




 女はシャワーを浴びて服を着ると、いつも通りに暗闇の中、帰るねと言い置いて玄関へ向かう。


 部屋の明かりを点けるのは、扉が閉まる音を聞いてからだ。


 数時間振りの光が、眩しかった。光から逃げるように、洗面台に行き歯ブラシを取る。磨きながら正面を向いても、鏡はない。入居した時に割って捨ててある。そもそも、子どもでもあるまいし、歯磨きに鏡は必要ない。


 磨き終えるともう寝るだけなので、リビングのスマホでアラームを設定して、ブルートゥースをONにする。スリープモードのスマホが僕の顔を映す。それから目を逸らして正面を向くと、電源の落ちたテレビが今度は俺の顔を映した。


 今さら、だ。しかし、できれば見たくない。十数年間、右側が焼け爛れた顔で生きて来た。悲しいとは思わないが、常に自分の顔から目を逸らして生きて来たので今なお慣れない。


 イヤホンを耳に入れ、ヒップホップばかりが入ったプレイリストを流す。


 いつからか、音楽はヒップホップしか聞かなくなった。こんな生活だからか、恋愛のときめきなんて知らない。愛なんて知らない。夢なんて無い。J-POPで歌われるラブソングなんて、絵空事のようなファンタジーにしか感じられない。


 ドラッグなんてやらないけれど、欲望に素直な歌詞に共感できた。俺は、成り上がることなんてできないだろうけれど、彼らを応援したくはなる。他に信じたいものも、無い。


 日常生活は覆面をして生きているし、障害者としての給付金を固定収入が大学を退学してもあった。今は株の売買で生きているので、知らない人間には基本会わない。空手の道場仲間は、俺の顔のことを知っている。


 俺には体の欠損や不随意な部位など無い。むしろ武道の心得の分、人よりも体を十全に動かせる自負はある。


 それでも役所は、俺の顔を『障害』として認定した。窓口の人が、一生懸命に動いてくれたそうだ。給付金がもらえると確定した時には、よかったですねと喜んでくれた。


 つまり俺の顔は、そこまでひどいらしい。ひどく醜いのだと、公的に認められている。幸福な生涯を送るにあたり、間違いなく障害となるのだと。


 窓口の彼女は、資料として提出する俺の写真に熱心だった。どの角度から撮影すれば、気持ち悪く映るかを一生懸命に考えながら撮影していた。彼女はきっと『市民』である俺が幸福になれるよう、その基盤の生活をしっかりと送れるように頑張ってくれたのだろう。


 ただ、俺を『市民』として見ていたが『人間』として見てくれなかっただけだ。


 それが気に食わなかったわけじゃないが、株が軌道に乗ってからは、すぐに補助の打切りを申請した。


 金はそこそこある。女も複数いる。趣味である空手を行うのに、何の支障もない。


 それでも俺は、この働き方でこのレベルの女を抱き、人目に隠れて生きる以外の生き方が無い。


 切ない。


 これが俺の人生なのだろうか。




 密閉空間で煙草を吸ってしまったので、窓を開ける。六月という季節柄蒸し暑いが、クーラーは体に合わない。今夜は窓を全開にして網戸で寝ようと思った。


 全裸の身体に、生温い風がまとわりつく。心地よいような、不快なような。


 興が向いて、この風に吹かれながら煙草が吸いたくなった。一昨年大学を中退してから始めた煙草は、もう俺には手放せないものになっている。


 ベランダに出ると、一匹の虫が部屋に入り込もうとしていたので、後ろ手でガラス戸を閉めた。


 十五階には虫は来ないだろうと入居前は思っていたが、存外この高さまで来るものだ。


 煙草に火を点けて、街を見下ろす。


 もう日付が変わろうというのに、街灯や向かいのマンションの廊下で、明るい。遠くを見やれば、俺の通っていた大学も見えそうだった。今年は同級生たちが、卒業する年だ。噂によると、就活が終わりだし、卒論に打ち込み始める時期らしい。


 なんとなく夢想する。


 俺が障害も無く、つまりはまともな顔で学生生活を過ごし、飲み会やサークル活動を楽しみ、就活で仲間と励まし合い、卒業論文で友に愚痴を吐く姿を。


 普通に就職し、頑張りつつ普通に上司の悪口を、同僚とふざけ半分に語る姿を。普通に結婚を意識して恋愛をし、普通に経済的な不安を持ちつつ、子どもを育てようとする姿を。


 流れていた曲が、ZORNが娘に宛てた手紙の曲だったからかもしれない。眩い。夜なのに目を閉じたくなるほどに。


 それは、素敵な妄想だった。素敵な人生だった。多くの人の、普通だった。本来の望みさえ遠い俺には、その普通さえあまりに眩い。


 あとから悲しくなるだろうに、止められないほどその空想は楽しかった。


 笑顔で、顔が醜く歪まないのだ。涙が、爛れた皮膚で止まらないのだ。素顔が、人を不快にさせないのだ。


 疲れているのだろう。俺のまともな顔を想像し、その顔で過ごせる生活を空想し、幸せを夢想して、咥えていた煙草の火が唇近くで熱さを伝え、やっと目を開いた。


 ベランダに置いてある灰皿で火を押し潰し、部屋へと体を向けた。


「ひっ」


 ガラス戸には、背からの光を受けて俺の顔が映っていた。


 醜いその自分の顔に、恐怖した。先ほどまでの空想の自分との違いに、戦慄した。後ずさり、セックスで疲弊した膝が崩れ、ベランダの縁を軸に頭から回り、落ちた。


 俺のマンションに背を向け、頭から落ちていた。


 走馬灯がこれなのだろう。人生で見た風景が、頭にフラッシュバックする。


 

 父。



 母。



 妹。



 蒸発。



 焼いた顔。



 中学生の頃、



 教師の言葉。



 同級生の反応。



 もう誰もいない。



 化物。



 叔父、叔母どうでもいい。



 じいちゃん、ばぁちゃん、長生きしてくれてたら。



 高校時代。



 化物。化物。



 初恋。



 大学。



 期待。



 かわいそうな人。



 裏切り。



 挫折。



 諦め。



 覆面。覆面のおじちゃん。



 孤独。



 ……。



 地面に激突して頭が潰れれば、俺の醜い顔も無くなるだろう。



 …………。



 ……切ない。



 これが僕の人生なのだろうか。 

 


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