2 ―稲神ヨウ―

「降霊した未練を夢として実現するとともに、美しい理想像を確立させるか。それとも、自分の恋を得るために、手に入るかもわからない理想を先送りにして生きるか」


 要は、大金はたいて確実に東京タワーをたてるか、地道に貯金して、自分だけの家をたてるかということですよ。

 向かいの席で、烏川からすがわ叔母さんがそう言った。


 田端ミレンが眠りにつき、すでに六ヶ月近くが経っていた。二月という、まだまだ寒いけれど、徐々に暖かさが増してくる季節。空虚なクリスマスも年末も過ぎて、独り身のまま今日に至った。

 僕は田端家を尋ね、使用人と談話室で語り合っていた。こうして顔を合わせるのは去年の秋以来だ。


「ミレンは、どちらを選ぶのでしょうか」

「ふふ、ご心配くださるのですね。呼び方もずいぶんと親しくなられて」


 不安な表情をみたのか、励ますように声をかけてくれる。

 この片想いが、もう半年も続いているのだ。心配で仕方ない。やっと手に入れた恋心。胸から伸びる白い線。想い。

 ソレが向かう彼女が、彼女として帰ってくるのか。心配でしかたない。


 田端ミレン。東洞スミカではなく、僕が好きになったのは紛れもない彼女自身だ。

 目を覚ましたとき、中身がどちらなのか、結果によっては失恋することになる。


「懐かしいですね」

「……懐かしい?」

「ええ。お嬢様のお父上も、同じように悩まれていたことがございました」


 同じ、ように。

 ミレンに未練という名を与えた、かのお父様が。


「田端の血筋において、自分と向き合う眠りは通過儀礼のようなものなのですよ、稲神様」


 聞けば、降霊を担う女性は断片的に宿す霊とは別に、継続的に宿す霊がいるのだとか。その代の降霊術者は、その霊と自分と、どちらを選ぶのか選択を迫られる。その際に眠りにつくのだという。


「ミレンお嬢様は、少々深い眠りのようですが……」

「通常はどれくらい眠るんですか?」

「長くて二ヶ月。ここまで長いのは記録でも珍しい例でございます」

「ということは、半年眠っていた代もあったということですか?」

「それは、」


 気まずそうに、烏川叔母さんが口ごもった。


「あまり真に受けないで聞いていただきたいのですが……五ヶ月以上眠っていた代は、目を覚ますことはありませんでした」

「――、」


 目覚めなかった例が多いということでもなく、絶望するのは早計。烏川叔母さんはそうフォローするが、僕の内心はまったく穏やかにならなかった。

 胸の奥に暗い暗雲が立ちこめる。

 何もできない無力感。なぜもっと早くこの気持ちに気づかなかったのだと、戒めるもうひとりの僕。なんど愚鈍な僕を刺し殺そうと、後悔が拭えることはない。膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、行き場のない怒りに耐える。


「ご心配なさらず」


 とっくに五ヶ月は過ぎている。だというのに、烏川叔母さんはとても冷静に宥める。それが不思議で仕方なくて、怪訝な顔をしてしまう。


「……なぜ、そんなにも」

「取り乱さないのか、でしょうか」

「はい」


 僕はこの人みたいに強くない。俯き、足元を睨んで、無力感に耐えながら訊く。不安で押しつぶされそうだ。否、もう押しつぶされているのかもしれない。

 突きつけられた『目覚めないかもしれない』という現実に、どうしようもなく打ちひしがれている。

 出会いは得てして、夢がない。だから恋に期待するなんてバカげている。田端ミレンと出会う寸前までの僕であれば、そう吐き捨てていたことだろう。ある意味強かった。人生に黒色を混ぜて、ただただ周囲をあざ笑いながら生きて。こんな別れを惜しむこともなかったに違いない。

 でも、今は恋をしている。胸から想いの線が伸びている。別れるのがとんでもなく怖い。


「あなたにいことを教えてあげましょう」

「なん、ですか」

「私が冷静を保っていられる理由です。これは秘密にするようにと、お嬢様から仰せつかっているのですが――」


 告げられた言葉を、僕は一字一句記憶した。眠るまえの彼女が話した内容を、これでもかと耳に焼き付けた。なんなら彼女の懐かしい声で再生された。


 そしてそれは、胸の奥深くに熱を生む。

 僕は衝動に突き動かされ、立ち上がった。焦るつもりはないけれど、ここでじっとしている気にはなれない。背もたれにかけていた上着を羽織る。


「すみません。今日は失礼します」

「……お送りしましょうか?」

「ああいえ。大丈夫です。ありがとうございました」


 うやうやしく、頭を下げた。顔を持ち上げれば、そこには柔らかく微笑む叔母さんがいた。


「行くのですね」

「はい」


 気分は不思議と晴れ晴れしていた。妙に落ち着きを取り戻し、あのころの僕に戻ったようだった。


『私の恋愛観が危うい』


 とても嬉しそうに。いつかの彼女はそう語ったらしい。

 驚いたことに、ちっぽけな僕はそう言わせるほど影響を与えることができたらしい。恋人となったその日に告げられた『死別してこそ恋愛たり得る』という価値観を、すこしでも変えることができたらしい。

 喜ばしいじゃないか。

 彼女の根幹を為す、『死』ありきの恋愛観を揺るがすほどの威力が、あのなんてことない日々にあったなら。君も僕と同じように、心の奥底で楽しんでいたのなら。


 ああそれは、とんでもなく――幸せだった。




◇◇◇




 午後一時。快晴。

 大側井駅から一美坂を通り過ぎ、南一美坂で降車。駅を出た僕は空に目を細めた。

 二月とはいえ、所々には雪が積もっていた。駅前を横断する歩道のくぼみには水たまりができ、雲ひとつ無い空の明るさを反射する。防水靴なのをいいことに、そのフチを踏み込む。

 向った先は一美坂病院だった。

 ここら一帯ではもっとも大きい病院で、大学とのつながりもある。大きい病気を患った患者などが移されることは希じゃないと聞く。田端ミレンが眠っているのもここの一室。彼女は今もなお、モノクロームの病室で眠っている。

 正面入り口からはいった僕は、受付で面会の手続きを済ませた。


 結構な頻度で面会にくる男の子。相手は金持ち家のご令嬢。

 なぜか仲良くなってしまった看護師さん曰く、いろんな噂が飛び交ってしまっているらしい。相続狙いのハイエナだとか。眠り姫の目覚めを待つ平凡すぎる王子だとか。

 「今日もいとしのフィアンセ?」とニマニマするその看護師に苦笑いではぐらかし。足早に病室へと向かった。

 噂するのは自由だ。いつもは若干の不快感があったが、今はどこ吹く風、すぐに思考から消すことに成功する。


 そうだ。僕らは僕らでいい。


 白瀬カイや紅蘭寺ミサオとは違う。

 烏川叔母さんのいう目覚めなかった先代とも違う。

 確証のない噂を娯楽のように流布るふさせる学校の生徒とも、憶測で他人をはかる看護師とも違う。

 僕は僕。

 ミレンはミレン。

 誰になにを言われようと、常識を遠目に眺める異端者であろうと、気にすることはないのだから。




 なるべく音を立てないように引き戸を開け、入室する。

 色味の少ない廊下よりもさらにもの寂しい病室。無機質な空気が鼻をかすめた。慣れない感覚のなかに、見知った彼女をみつけ安心感を得る。


 上着を置き、カーテンを開けた。透過して差す光が日差しに変わり、横たわるミレンの二の腕から下を照らす。点滴のくだに反射して、顔をしかめてしまう。痛々しい刺し口をみると、動いていたころの彼女を思い出して、急に苦しくなる。

 僕は短く吐息を吐いて気を紛らわせた。気を引き締める。そんなに身構える必要もないのに。

 丸椅子を引っ張って傍に座った。


「……」


 名前を呼んで、聞こえているのだろうか。

 僕の面会は、そんな風に考えることから始まる。点滴されていない左手を握って、ここにいることを伝えようとはするものの。身動きひとつしない彼女をみていると、底知れぬ絶望と不安がやってくる。そしていつも通り、見て見ぬフリで不安感に無視を決め込み、時間を消費するのだ。


 死者を降霊し、愛を囁く少女。

 生きている人間の恋を可視化すること以外、僕はなにもできない。


 似ているところはあっても、える世界は決定的に異なる。それが彼女との間に壁をつくっているのなら、もはや手出しはできない。

 ――と、いつもなら、黙ってこうしているだけなのだが。


「ミレン」


 綺麗な寝顔にむかって、口をひらく。


「今日は、言いたいことがあって来た」


 僕にはなにもできないと、諦めていた。なにもせずにいた。でも大切なことを忘れていたのを思い出し、言葉を整理する。


 暗い灰色の髪は、だれかが整えてくれているようだった。邪魔にならない程度に切りそろえられ、撫でてみたくなる。

 前髪の向こう、透き通る瞳はもうずっとみていないけれど。痩せた顔も大丈夫かと心配になるけれど。それでも、面影を残した雰囲気は健在で。ふとした瞬間に目をゆっくりあけて、薄明のなか、微笑んでくれるのではないかと期待してしまう。


 音のない病室。窓向こうの木々で鳴くスズメの声以外は、無音。


 刻々と過ぎていく時間だけが、動いている気がした。その間もミレンに変化はなく。返事はしない。

 寂しいが、僕は虚勢を張ってでも笑みを浮かべてみせた。


 ――『私は、あなたを好きだと思いますか?』


 あの日の質問が脳内に反響する。

 あの響きだけが、鮮明な記憶として刻まれている。


 思えば、僕もかき氷を食べながら問いかけたことがあった。僕は君を好きになれるだろうかと。対して君は、優しくハッキリ『そう願っている』と応えてみせた。

 今なら、わかる。

 あの断言は、精一杯の強がりでもあったのだ。のちに似た質問で意見を求めるほど、彼女自身の恋心を疑っていたというのに。

 ……ああ。すごいよ、君は。

 きっと、おそらく。気づいていないだけで、君の求めていたものは手に収まっていた。

 生きて謳歌する恋。もしも君自身が否定しようと、僕は肯定しよう。たとえあの夏がニセモノだったとしても、これから積み重ねていけばいい。何度でも。



 だから。



 起きてくれ。

 ミレン。

 東洞スミカとしてではなく、田端ミレンとして。


 すこしだけ強めに、手のひらを握った。

 願った。神に命乞いする気分だった。僕にできる精一杯だった。

 無意味でもいい。無謀でもいい。この声が何かしらの意味を残すのであれば、それだけでもいい。

 初めて好きになった相手なんだ。だから、奪わないでほしい。起きろ田端ミレン。君の理想は、君だけのものだ。君が君のために築き上げるんだ。他の誰にも任せちゃいけない願いだ。


 贈ろう。

 先送りにしていた、あの日の答えを。返せなかった、質問の返答を。



「――、……」



 無音の部屋で、ひとり、言葉を紡ぐ。


 迷う君に。

 分かれ道に立つ君に。

 僕個人の『そうであってほしい』という願望もこめて。

 君が好きだ。今度ははっきり言える。だから君にも僕を好きでいてほしい。

 そう。他でもない、田端ミレン。


 君に。




 どれだけそうしていただろう。

 背後で、ガラリと音がした。


「稲神さん、面会時間、そろそろです」

「はい、わかりました」


 眠り姫の頭を、そっと撫でる。サラリとした感触が伝う。


「待ってる」


 届くかもわからない言葉を置き手紙に、僕は病室を出た。

 あとは……彼女次第だ。


 

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