3 ―田端ミレン―

 私は戸惑っていた。

 田端ミレンの人生、その先端に待ち受けていた分かれ道を前にして、足がすくんでいた。


 東洞スミカはそれも致し方ないのだと、楽観的に告げたが。当事者たる私は、そうも言っていられない。片や、自分が死ぬ運命。片や、一寸先は闇の人生。

 理想と願いのあいだで揺れ動き、葛藤。

 ベンチに座ったまま、もう何時間も、何日間も経っている。だけど疲れに悩まされることはなく、眠気に目元を擦ることもなく。ただただ、提示された難問をまえに悩んでいた。

 ふと。

 東洞スミカに虚ろな反応しか返していないことに気づき、となりに目を向けた。


 狙い澄ましたように、口の端をつり上げる彼女がいた。


「ここ、私の思い出の場所なんだ」


 答えの出ない私に、アイスブレイクだとでも言いたげに、生前を語り始める。楽しげに、どこか寂しそうに。


「なんてことない、なんでもない一日だった」


 私は黙って話の続きを聞いていた。この思い出話のなかに、答えにつながるヒントを探した。


「遠回しに訊いたんだよ。『あなたは私のことどう思ってるの』ってね」

「ヨウは、なんと……」

「答えてくれなかったよ。屁理屈めいたこと並べ立てちゃってさ。あはは、人生と一緒で、そのときも思い通りにはいかなかった」


 私の知らないころの稲神さんを語りながら、東洞スミカは膝をかかえた。


「今ならわかる。アレが、正直に想いを伝える最後のチャンスだったんだ。遠回しになんかしないで、ひた隠しになんかしないで、尻込みもなしで、思い切って告げるべきだったんだ」

「告白、ですか」

「そ。私の唯一の理解者だったからさ。いつのまにか好きになってたんだよ。彼と会話しているときだけは、孤高も孤立も、私とは無縁だった」


 ま、結果は見ての通り。

 快活に笑ってそう誤魔化す彼女に、私は自分を重ねてしまった。きっと、私は彼女と同じところにさえ至れていない。

 また悩む私に、東洞スミカは続けた。


「これが、彼との記憶。しつこくも愛おしい、私の袖をつかんで離さない、未練の象徴。心残りと言ってもいい。私はこの場所での諦念を最後に、恋を見限った」

「それで、今のあなたが生まれたのですね」

「まったく困ったものだよね。恋っていうのはさ。誰もを魅了してやまない。人生を支えてきた唯一の希望だっただけに、満足な結果を残せなかった私は後悔したよ。だからこうして、未練の私があなたのなかにいる」


 東洞スミカという少女は、ひとつの恋路を諦めた。諦めたつもりだった。

 そして恋でも救いようのない人生に絶望し、自らの命を捨て去った。彼女の誤算は、諦めきれていなかったことなのだろう。捨てたなんてのは現実逃避で、虚勢を張って目をそらしていただけで。

 彼との出会いに夢などないのだと決めつけても。いざ死んでみれば、彼女の本能は手に入らない輝きを求めて仕方なかったのだ。

 こうして過去に思い馳せる横顔こそ、その証である。


「君は?」

「……私、ですか」

「そうだよ。君にはないの? 君だけの、彼との記憶」


 探すまでもない。まともに接するようになったのは、彼女が私に恋心を貸してからなのだから。


「ない。私には……ありません」


 俯いて、自分の価値を見失いかける。東洞スミカはそんな私の手をとる。思わず顔を見上げてしまった。


「なら、これからつくればいい」

「……」


 これから。私だけの、彼との記憶を。

 ああ、たしかに魅力的だ。ノドから手が出るほど欲しい。

 しかし、しかしだ。その選択を選べば、あなたは消える。理想的で、美しい愛で満たされた、死を経て今なお恋する想い。まさに恋愛を体現するあなたが、失われる。

 私は顔を曇らせた。


「私には、そんな資格があるのかすらわからないんです。恋心があるのかすら不明なんですよ」

「なぁんだ、そんなこと」


 その物言いに、私は眉を寄せた。


「そんなこと、って……」

「彼も言ってたでしょう? 恋愛は難しいんだ。私が失敗するくらいにね。迷うのが常なんだよ」


 わからなくて当然のことだと、彼女は言う。


「恋心なんて、普通は目に見えるものじゃない。例外はあるけれどね」

「……」

「あやふやで、捉え方によっても姿形をかえる想い。恋心を資格と表現するなんて堅苦しい。まして、恋心に明確なカタチを求めるのもおこがましい」

「何を、言いたいのですか。あなたは」


 そう問いかける。

 すると、東洞スミカは天に右手の甲を掲げ、不敵に笑った。


「もっと雑でいいんだよ。足掻いてもがいて、がむしゃらでいい。難しく考える必要もない。みえる範囲が底なし沼だって、落ちたさきには竜宮城があるかもしれない」


 言いたいことは言えたのだろうか。東洞スミカが私の右手を放し、ベンチから立ち上がる。

 そしていまだに納得できる答えを掴みかねている私と向き合い、微笑んだ。

 白い校舎とパステルの芝、混ざり合う空をバックに、赤みがかった髪が映える。


「答えなんて、とっくに出ているはずだよ」


 座ったままみつめる私の奥底で、声が核心をつく。


「君に足りないのは踏み出す勇気。なんせ初恋だもの、その尻込みも無理ないよ」

「私の、答え、は……」

「だから」


 すべてを見通したかのような。すべてを理解しているような笑みが、頭上から降り注ぐ光に透けた。

 同時に、身体の内側から熱があふれ出す。反射的に、視線を上げる。

 この世界に、太陽のごとく光源が顕われていた。


「だから、君も求めればいい」

「なに、を?」

「道しるべ。あるいは自分の立ち位置。ここでは選択するためのヒント」

「……」


 再び、頭上を見上げる。

 暖かみを感じる明かりに、私は目を細めた。


「定めるんだ。どう生きるかを。私が過去、そうしたように。あのときは失敗したけれど、今の君なら大丈夫。ホラ、すでにその質問は届いているし、その返答はこうして降りてきた」


 彼女の言葉を耳にしつつ、手でひさしをつくって眺める光。

 浴びているだけで、懐かしい心地よさが蘇る。


「お迎えだ、田端ミレン」


 手をつかまれ、クイと引っ張られた。そしてその勢いのまま、東洞スミカは私の身体をくるりとまわし、背中を押した。


「っ、……東洞、スミカ?」


 つんのめるようにして、背後を振り返る。

 どこか誇らしげに胸をはり、どこか寂しげな気配を覗かせる彼女がいた。


「フられちゃったみたいなんだ。私」


 ぺろ、と舌を出して、苦笑するスミカ。強くて弱々しくて、どこか納得しているようだった。

 その態度が、ずきりと胸を刺す。

 引き留めようとする言葉が、喉まで出かかった。発すればその場で足踏みしてしまうような、葛藤の堂々巡りにはまる一言だった。

 でも、その言葉が紡がれることはない。


 ダメだと、わかっていた。理解していた。

 田端ミレンの選択は、決まっていた。


「ほら、行きなよ。彼は望んでいる」

「……」

「君が、彼に恋していることを」


 あの日、最後に投げかけ、聞けなかった答え。

 『私は、あなたのことが好きだと思いますか?』

 ……あなたが好きなこの心。それが本心からの私の想いなのか、それとも借り物なのか、判断できなかった。だからあなたの答えを聞いて、立ち位置を定めようとした。

 正体不明の衝撃に突き動かされるままに、口付けをして。


 きっと願っていたんだと思う。

 あなたが「君は恋していたと思う」と――「私に恋していてほしかった」と返すのを。


 ああ、ならば、疑いようがない。

 この言葉にできない感情の名前。ありきたりで曖昧で、わかりやすい呼び方をしてもいいというのなら。

 私も一歩、あなたに近づこう。


「覚悟は決まったようだね」

「……ええ」


 東洞スミカが、ベンチの後方に指を差す。


「じゃ、お別れだ。私は一時のあなたの恋心。あなたの心にんだ、些細な未練」


 きっとこれが最後だという予感があった。

 まっすぐに見つめ返し、口をひらいた。


「感謝しています。心の鍵」

「こちらこそ、感謝してるよ、願いの器」


 彼女は、私の理想。彼女は、私の教科書。

 そして、もう役目は終わった。


 寂しさにも似た感情を振り落とし。別れを告げる。



「さようなら、東洞スミカ」

「さようなら、田端ミレン」



 笑って、私は踵を返した。イスの後ろへまわり、歩みをすすめる。

 生垣の間を縫って、パステルの芝を歩いた。


 抜け落ちていく。

 大切ななにか。大切だったなにか。とても重くて、真っ直ぐで、綺麗な、私のものではない色が。抜け落ちていく。

 軽くなって、未来への不安が生まれて。そこに手本となる彼女はいなくて。でも立ち止まるつもりはサラサラなくて。


 思いのままに、足を動かした。


「……っ、」


 歩きは、次第に小走りになって。

 はやる気持ちをおさえきれず、さらに早まる。


 先の見えない芝の向こう。眩しさに薄れていく、ピンクと黄色の空。辛うじて残るグリーンの水平線へ向かって、まっすぐに駆けた。


 残った感情が、名前を得る予感とともに。






『ミレン――君は、恋をしていたよ』




 ええ。あなたがそう望むのであれば。

 私もそれを望みましょう。


 きっと私はあなたに恋心を抱いている。

 抱いてないなら、これから探していけばいい。手に入れればいい。




「待っていて」




 世界は閉じ。

 世界は開き。


 白い天井が、田端ミレンを出迎えた。

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