第5章
The cutting edge of life
1 ―田端ミレン―
その恋心に、確たる自信はなかった。
田端ミレン――他でもない私が彼を好きなのだと結論を出しはすれど、そこに確信はない。なぜなら、胸の高鳴りも、触れた手の温もりや汗ばみも、心落ち着く時間の共有感も、なにもかもがニセモノの可能性があったからだ。
ふと気づけば、常に思い浮かべてしまう稲神さん。
思考には必ずといっていいほど割り込んで、行動の
かつて感じたことなどなかった。こんな色づく日々は。
まだ日が浅いとはいえ。私は彼と恋人として過ごしてきた。それでも世界は
……だけど。
この感情は、この知れば知るほど埋もれたくなってしまう甘美な鼓動は、借り物なのだ。
「どうだった? 私の恋愛は?」
目を開くと、そこは見知らぬ庭だった。
空は桃色と黄色が、水面へ落とされた絵の具のように広がっている。パステルグリーンの芝、見下ろす不細工な
ここは現実ではない。
目の前の人物をみて、私は瞬時に理解した。
「あなたに与えた私の未練。そのお味はいかが?」
未練と書いて、恋心。彼女が捨てきれなかったもの。今は私のなかに住み、日々を色づかせる絵の具のチューブ。
「ええ……素敵でした」
声量もそれほど必要ない。
四方を囲む生け垣。対面のベンチに座る東洞スミカを見据え、そっと応える。
「そ。それはよかった」
にべもない態度の私に、彼女はニイと笑みを浮かべ、ベンチを空けた。
言葉にしないお言葉に甘え、そこへ腰を下ろした。
視界には白い校舎と、パステルの芝に転がるパレット、鮮やかな空で埋め尽くされた。
「感謝します。東洞スミカ。あなたは私に恋心を与え、今までにない経験をさせてくれました」
「こちらこそ、感謝するよ田端ミレンさん。あなたは私の代わりに、生前伝えられなかった想いを伝えてくれたんだから」
「……問いかけに込めた好きという一言ですね。あなたは生前に何度も口にしていたのでは?」
「口にするだけじゃ意味がない。正しく意味が伝わらなければ、あれは単なる言葉遊びでしかないんだヨ」
そういう意味では、君は彼に正しく想いを伝えてくれた。そう笑って、東洞スミカは空を仰いだ。
真っ直ぐに視線をまえに向けた私は、すこし考えてから本題にはいった。
「こうしてあなたと話しているということは、時間がきたということなのですね」
「そうだよーっ」
背伸びして、私の恋心が姿勢をなおした。私と同じように前方を見据える。
「選択のときだ」
「選、択……」
「選べるのはふたつの道。ひとつ目。私を消して、田端ミレンとして生きていくか。ふたつ目。私にこのまま身体を受け渡し、田端ミレンの生を終えるか」
生と死。
田端ミレンに与えられた選択肢は、大雑把に言ってこのふたつだった。一般的な考えに基づけば、結果は火を見るより明らかだ。誰だって死ぬのは怖い。
だけど、こと私には、迷う理由が存在する。
葛藤するには充分な、とても面倒な理由が。
「君にとっては、こう言い換えてもいいかもね?」
「……」
「理想をとる? それとも、願いをとる?」
――私にとっての理想。
それは、死を通して結ばれる、強くて美しい、尊さあふれる関係性だ。死別したからこそ生まれる、純粋で綺麗な恋人の在り方だ。つまりは、愛。
田端ミレンが死に絶え、代わりに東洞スミカとして生きれば。きっと稲神ヨウと東洞スミカは私の理想となる。死別し、真っ直ぐな想いだけが残る関係性ではない。さらにその先――生者と死者の、この上なく麗しい二人になる。
死別した過去があるからこそ、互いに想いあう。失った過去があるからこそ、互いに不可欠性を知っている。一片の汚れもない、
恋を越えた完成形。愛。まさに恋愛と呼ぶにふさわしいものが生まれる。
――私にとっての願い。
それは、生きて恋を謳歌する楽しさを知ること。田端ミレンならではの恋をして、思い出を重ね、そして行く行くは死別する。そして降霊術でみてきたような、死別してもなお互いを愛する相手を手に入れること。一言でいえば、恋をしたい。
借り物ではなく、私は本心から想った相手と仲を深めていきたい。東洞スミカが消え去り、田端ミレンが残れば、私は思いのまま私の人生を送れる。自分だけの、自分のための恋を追求できる。
私は稲神ヨウが好きだ。たとえあの興奮が東洞スミカのものであったとしても、本心の私こそが好きになっていたのだと、そう判断した。だから、『僕は、君を好きになれるだろうか』という質問に、『そう願っている』と返した。
できるなら、今度は私として――田端ミレンとして、彼と恋をしたい。死に別れ、愛に至るまで添い遂げたい。
「さあ。準備はできている? 田端ミレン」
審判をくだすように問う東洞スミカ。赤みがかった前髪の向こうで、淀みのない瞳が虚空をみつめていた。
「私、は……」
私は揺れていた。
確実に手に入る『理想』。対して、『願い』は不確定要素のかたまりだ。
田端ミレンは、ほんとうに稲神ヨウが好きなのか。『好きだ』と結論づけたその恋心に、確たる自信はない。思い込んでいただけで、いざ東洞スミカが消えれば、私の恋心は冷めたままなのではないか。想像すると怖かった。
自分という生。大きすぎるコインを投入し、理想に身を捧げる?
シュレディンガーの箱を開け、本心からの好きという中身に賭ける?
教えてください。稲神さん。
稲神さんでなくともいい。私は、私の本心は、彼を求めていたのかを。あのとき投げかけた質問は、告白は、正しかったのかを。
私は、恋をしていたのかを――。
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