5

 荷物番をする白瀬と紅蘭寺さんのもとへ戻ると、ふたりは顔を真っ赤にして取り繕っていた。

 ひと目で、こいつらキスでもしたなと察した。田端さんも同様で、さっきまでと同一人物とは思えない冷ややかな無表情を貫いていた。心なしか、紅蘭寺さんに対する態度もよそよそしい気がする。

 僕もあまり考えないようにしよう……。


 合流したのは、空が夕暮れの色を混ぜた午後七時。

 夏ということもあり、すでにこんなにも時間が経っていたことに驚いた。日帰りということなのでそろそろ一日が終わる。ところが。

 忘れてはいけない、今日はダブルデートのつもりで来たのだ。

 と白瀬から教訓のように唱えられ、なにが言いたいのかというと、花火をみるもよし、一足先に帰路につくもよし、そのついでに寄り道するもよし、ということらしい。各自解散、というカタチで落ち着いた。

 こいつらはふたりきりになりたいだけなのだろう。もじもじする紅蘭寺さんをみても一目瞭然だった。

 なら、僕と田端さんが来る必要はあったのだろうか? あ、ただの荷物番? たしかに前半はそれで暇していたけれど。

 不満はいくつかあったが、それはともかくとして、これで僕らはお役御免。口にはしないものの、あちらのペアは一刻もはやく自分たちの世界に入りたいだろう……と、いつもの気遣いが発動する。

 僕と田端さんは荷物をかかえ、別れの挨拶を告げた。



◇◇◇



 そして現在。


「……」


 特急で帰路につき、普通列車に乗り継いで一美坂へと向かう車両内。

 見覚えのある駅を通るようになるころにはすでに午後十時も過ぎ、田舎ゆえに人もまばら。昼間は天井に吊されていたチラシも、この時間帯の車両ではなぜかみかけない。行きよりもガランとしており、揺れも小さい気がしないでもない。

 憂鬱にも感じていたダブルデートだけど。いつもとすこし違う一日を経験できた、という意味では、有意義であったかもしれない。不本意ながら寂しさを感じた。

 ふと、向かいの空席に視線を落とす。窓の外は真っ黒な夜が覆い、鏡となって僕らを映していた。


「すぅ……」


 僕と並んで座る田端さん。反射するのは、寝息を立てもたれかかる彼女の姿だった。

 肩にあたる重み。髪がくすぐったくて、汗もかいただろうに、いまだに良い匂いがする。身じろぎするたびに心臓が跳ねそうになるが、こうして近くでみると、改めて安堵する。

 あの日、告白されなければ、僕は彼女を高嶺の花のようにしか思わなかったことだろう。でも今は別の見え方だ。田端さんは田端さん。変わった恋愛観をもっていても、目を凝らしてみれば、その在り方はとても親近感が湧く。


 しかし、よく寝ている。よほど疲れていたようだ。

 仕方ないことだと思う。

 白瀬たちほどではないけれど、遠出で長時間人混みのなかにいれば疲れは溜まる。人混み、日光、慣れない足元。そんな些細にも思える環境の違いだけで参るものだ。行動力の高さでいえば、僕らはあちらの二人に遠く及ばない。慣れによって克服できる、と人は簡単に言う。でも、人には人のペースというものがある。こちらのペアはゆっくりなだけだ。

 僕は綺麗な顔で眠る彼女に、人知れず微笑んだ。


『次は、一美坂、一美坂……お出口は左側です』


 アナウンスが流れる。電子の声ではない、雑音の混じった音が馴染み深い。ようやく『帰ってきた』という実感が湧いた。僕はこの感覚が好きだった。残っていた緊張が和らぐ。遅く、暗い時間帯だからこそ、この背徳にも似た経験は安心感を生むのだ。

 さて、問題は。


「田端さ――じゃなかった、ミレン」

「ん……」


 肩に預けて眠りこけていた頭が、そっとかけた声に反応する。

 かと思えば、すこし乱れた髪を揺らし、あと五分とでもつぶやくようにうな垂れる。僕を枕かなにかだと勘違いしているようだ。二言三言かけて起こすも、帰ってくるのは「うーん」という声だけ。列車の照明すら嫌がって、やっとあけた瞳もぼんやりと宙をみつめている。


「……」


 思案する。さすがにこのまま置いていく気にはならない。

 結局、僕は一美坂を通り過ぎて。彼女が降りる大側井駅でおんぶする羽目になったのだった。




 大側井駅で降車したのは、僕と田端さんの他にサラリーマンの男性だけだった。しかもすぐにどこかへ姿を消す。

 窓口はカーテンが覆い、待合室にも人影はなし。

 いつか降りたときとは大違い、無人の駅は静寂に包まれていた。


 苦労して二人分の切符を通す。幸いなことに、一美坂も大側井も乗車料金は変わらない。ガチャリという改札の機械音が大きく響いた。

 扉をくぐって外に出る。

 蛍光灯が放つブーンという音を意識しつつ、暗いロータリーを眺める。


「ミレン」


 背中に話しかけてみるが、返事は曖昧。起きているのかいないのかわからなかった。仕方なく、そのまま歩き出す。記憶から道順を引っ張り出して、様相の異なる道路に踏み込んだ。案外軽いものだ。そんな感想を胸に、揺れを抑えながら。

 夜十時過ぎの道路は暗い。田舎であれば田舎であるほど暗い。すこしの恐怖を、田端さんに意識を移すことで紛らわす。

 やがて歩行者専用道路の外灯が目に付いた。

 そのまま、そのまま、ゆっくりと。

 特徴的なオレンジの明かりを潜ろうとした、そのとき。背中から気配を感じた。


「……稲神、さん?」


 ひっそりとした小声が、僕の名前を呼んだ。


「おはよう」

「おはよう、ございます……」


 まだ心ここにあらず、といった挨拶におどけて返してみる。


「僕のことも、下の名前で呼んでくれるんじゃなかったっけ」

「……ヨウ、さん」

「さん付けかぁ」

「ヨウ」


 素直なやりとりだ。寝起きだからだろうか。声色もなんだかか細くて、心なしか、あどけなさを増している気がする。まだ意識がはっきりしていないようだ。


「もうすぐ君の家に着くよ」

「……」


 会話はいつも以上に控えめだった。

 田端さんの息づかいは聞こえる。それで起きていることもわかる。でも交わされる言葉は最小限。顔色をうかがうこともできない。我ながら珍しいことに、確認したくなってしまった。

 だからだろう。耐えきれなくて、なんとなく僕から切り出してみることにした。そう、かるく世間話をするように。


「ミレンは、楽しかった?」


 慣れない名前呼びになんとか平然を装い、言葉を選ぶ。


「あなたと過ごす時間は、思いのほか……楽しいものでした」


 予想よりはっきりした返答が返ってきた。これなら会話は続けられそうだ。


「思いのほか、か」

「付き合いたてのころに比べれば、大きな進歩だと思います」

「違いない。最初は手順らしい手順もなかったからね。君の男女交際の申し入れは、一種の契約のように感じていたよ」


 田端さんが答える。


「それは……すみません」

「いいや。謝らなくていいよ」


 すこしの間を置いて。ぽつぽつと、田端さんが胸中を語り始める。

 僕は黙って聞きつつ、歩く速度をゆるめた。


「――不安でした」

「不安」

「はい。不安」

「どう不安だったの?」

「当初、あなたのことは、詳しいわけではなかった。その上、恋愛らしい恋愛など未経験のまま生きてきてしまったのですから」


 当然、か。


「聞きかじったような、生半可な、あなたに関する知識。それだけを武器に距離を縮めることができるのか、と」

「……まったく、スミカは」


 よくもまあかき乱してくれるものだ。僕の人生も、彼女の人生も。もっとも、田端さんは自分で選んだところもあっただろうけど。それでも多大な変化をもたらした。田端ミレンの不安の発端となったのだ。

 しかし一方で、こういう考え方もできる。


「でもさ。恋愛ってそういうものだよ」

「そういう、もの……」

「コントロールできない。未知で未開で不安の結晶だ」


 いつだって情報不足。いつだって不安だらけ。それが恋愛の常だ。

 人と人が完璧にわかり合うことなどできはしない。僕は『想いの線』をとおして、それを薄情なモノと結論づけた。きっと東洞スミカも飛び降りる寸前には同じ結論に至り、恋を唯一のかてとしていた人生に、絶望した。

 けれど結果、亡くなった彼女は未練を抱いた。もっと恋をしたかったと。

 見放しておきながら捨てきれなかった。恋愛は理屈じゃないとはよく言ったものだ、まさにスミカはあの名言を体現している。

 ――いつか僕も、スミカのように恋できるだろうか。


「難しいよ、恋愛は」

「……」


 背中の重みと体温を感じながら、夜を歩く。

 今、田端さんはなにを考えているのだろう。不純物の混ざらない、純粋な田端ミレンの本心は、なんだろう。

 いっそ聞いてみようか。そう悩んでいたところに、耳元で声が囁いた。


「ヨウ」

「ん」


 吐息がかかる。

 僕は待った。続く言葉を聞き逃さないように。紡ぐ一音一音を、記憶に焼き付けるつもりで。

 だけど、肝心な部分はいつまでたってもやってこない。それでも待った。急かすのはあまり好まないんだ、僕は。

 数秒。

 数分。

 ……あまりにも間隔が空いていることに、らしくなく、心配になる。痺れを切らす。仕方ないと、僕がすこしだけ顔を傾けた、その瞬間だった。


 頬に。

 軽く、あるいは弱々しく。消え失せてしまいそうな唇の感触がした。



「私は、あなたのことが好きだと思いますか?」



 言葉を失った。

 思わず運んでいた足がとまる。

 東洞スミカがいつか問いかけた質問を、再生したかのような衝撃だった。

 他人の返答、反応から、自分の立ち位置を定めんとする行動。東洞スミカを孤立させ、東洞スミカが許容した、人々の無意識な行い。

 そして僕も今日、彼女に投げかけた。海の家で。かき氷を食べながら。


「――、」


 ずっと、わからなかった。彼女の――田端ミレンの本心が。

 でも、今なら。同じ質問を投げかけられ、投げかけた今なら。その質問の意図を読み取れる。


 スミカは僕の返答から、踏み込むか否かを判断しようとした。

 僕は田端ミレンの返答から、好きになるか否かを見極めようとした。

 なら、田端ミレンは。僕は。

 その裏に隠し持っている感情は――。


 答えにたどり着く。

 自分の本心も、田端さんの本心も。正体を理解する。なぜ気づかなかったんだと後悔するほどの確信が四肢を駆け巡った。曖昧で暖かな感情に名前が与えられ、命を吹き込まれた。


 世界に電気が走ったように、変化が訪れる。

 変わる。

 願いも、想いも、迷いも。すべてが一点に集約していく。ひとつの決断を導き出していく。



 ――それを裏切るように。

 首もとに巻かれていた彼女の腕が、ダラリと脱力した。


「っ!?」


 しがみついていたわずかな力が抜け、滑り落ちるように体勢を崩す。冷たくなった身体が、背中から地面に落ちそうになる。

 慌てて支え、怪我をさせないよう横たえた。腕のなかの綺麗すぎる容貌が、オレンジの明かりに浮かび上がっていた。


「ミレン……?」


 あまりに普通じゃない脱力の仕方に、嫌な汗が流れた。

 眠りに落ちたとしても、もうすこししがみつく力は残るだろうに。眠気に抵抗する気配は感じられるだろうに。今のはまるで……そう、糸が根元からぷつりと切れたような。身体の芯が根こそぎ奪い取られたような。そんな感覚。


 肩を揺さぶっても、語りかけても、反応はない。

 息はしている。胸が上下している。なのに表情は残酷なほど冷たく、今は空っぽにみえる。大切な何かが抜け落ちて、さっきまであった重みが消えている。

 訳がわからなくて。指の隙間から砂がこぼれ落ちていくような気がして。その場に放心状態になる。


 僕の胸から伸びた白い線だけが、虚しく彼女を差していた。







 それが最後。

 田端ミレンは、夏休みが明けても目を覚まさなかった。

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