5
「懐かしいな」
脳内再生を終えそうこぼすと、田端さんは立ち止まった。
つられて僕も立ち止まる。
車の通りがすくないこの辺りには、他に人の気配がない。雨がアスファルトを打ち付け、小川をつくるだけで。道の端の水路がごぽごぽと音を立てるだけで。誰にも邪魔されないふたりだけの閉鎖世界に思えた。
当時は嫌というほど付きまとってきた名前が、ずいぶん久しぶりに顔をみせたものだ。あの転落以来、東洞スミカが現れるのは、いつだって僕の頭のなかだけだったというのに。
何の因果か、田端ミレンがその名を口にする。
「東洞スミカ。この地で生まれ、この地で育ち、この地で死んだ少女。あなたのお友達ですね」
透明な傘の下で確認する彼女へ、紺色の傘に埋もれながら頷いた。
「ああ、友達……だったんだろうね、スミカは。今となってはよくわからない」
「わからない?」
純粋な疑問を抱き、首をかしげる田端さんとは対照的に。僕は額に手をあてる。
「友達以上だったようにも、友達以下であったようにも思う。きっとあの日の僕らは臆病で、どちらからも歩み寄れなかった。だから明確な関係らしい関係を築けなかった」
そして、その不完全さともいうべき曖昧さが、彼女に死の選択をさせたのかもしれない。
あの日から、稲神ヨウという人間は片時も忘れずにいた。レモネードより甘酸っぱい過去と、コーヒー以上に苦い結末を。周囲が張り巡らせる犯人さがしのなか、ずっと息を潜めて、ウソをついて。「知らない」「どうなんだろうね」と仮面を貼り付けて、彼女の影を置き去りにした。そのたびに罪悪感が責め立て、耐えてきた。自分を偽るごとに、手放したくないはずの手を振り払ってしまった気がして、怖かった。
そうやって叫びたい欲を抑えつけながら、ずっと生きてきた。
「スミカと僕は腐れ縁だった」
「腐れ縁」
「そう、腐れ縁。いちばん近い表現だと思う」
傘の外側、雨が降りしきる灰色の景色。跳ねる飛沫と滑り落ちる水滴をとおして、反対岸の彼女と向かい合う。
色味の薄い、だけど真摯に言葉を受け止めていた視線と見つめ合って、今度は僕から問う。やりかえす気などさらさらないが、今はさっさと会話を済ませてしまいたかった。呼び起こされる記憶が妙なざわつきを生むから。だから手っ取り早く、核心をつく。
「降霊したのかい?」
「東洞スミカを、ですか?」
「ああ。東洞スミカを」
雨の雑音に包まれた僕たちは、数秒間そのままだった。深い色の奥の感情を読みあった。田端さんは微かな気配で気を引き締める。そして小さく口をひらいた。
……澄んだ瞳は、僕の知っているなかでは最も揺らいでいた。
「ええ。ずっと。彼女は常に、私のなかにいる」
「今も?」
「今も」
真実を耳にして、肺の重々しい空気が吐き出される。突如として濃厚になる影の色が、風化していく後悔のような何かを浮かび上がらせる。逸らそうとしていた目に直視させようと存在感を増す。
これは過去からせり上がる復讐だろうか。田端ミレンとの邂逅は、積み上がった東洞スミカへの裏切りに対する清算だったのだろうか。どちらにせよ、田端さんがその名を引き出した意図を、嫌でも察してしまう。
「あなたが眩しいものを見るような視線を私に向ける理由。それは、あなたからみた私が、恋をしていたから。違いますか?」
苦笑して、頷く。
「違わない。君の線は伸びていない。でもたしかに恋をしていそうな雰囲気を感じ取ったよ。わかりにくかったけどね」
たとえば、紅蘭寺ミサオのように胸躍らせる恋をしているかと問われれば、首を横に振るだろう。しかし恋を謳歌している人特有の空気感を、彼女からは感じていた。恋愛相談にのってきた成果とも言うべきか、直感のような働きがそう判断していた。
線は『恋をしていない』と示し。鍛えられた観察眼は『恋をしている』と導き出す。不一致は違和感を生んで当然だ。
「そう。私は生きて謳歌する恋を知らないはずだった。死後の美しさのみに囚われていて、だからあなたに交際をもちかけ知ろうとした」
「だけど君は、すでに恋を知っているかのような表情をみせた」
「はい。その違和感の正体こそ、東洞スミカです。そして同時に、交際相手にあなたが選ばれた理由でもある」
冷静。雨音につつまれ、真っ直ぐと射抜く田端さんの視線は、咎めるように事実を突きつける。
「私のもうひとつの目的を話しましょう、稲神さん」
深い色。呑まれそうなほどに澄んでいて、凄みすら感じられる佇まい。ビニール傘をもつギプスの色も淡くみえて、落ち着き払った声が意識を固定させる。
「私の目的は、東洞スミカの未練を晴らすことです」
僕は、嘆息した。
名は
その目的はとても……君にふさわしい。
◇◇◇
その後、田端さんと別れた僕は、雨に濡れる足を睨みながら帰宅した。
考えたいことで頭はいっぱいだった。自室のベッドに倒れ込み、二人の少女に対する自身の立ち位置を整理したいという思いでいっぱいだった。
しかし、帰宅した僕に待っていたのは、級友白瀬カイからの電話である。
「もしもし」
例に漏れず、メッセージでいいものを通話で済まそうとする白瀬。このときばかりは鬱陶しく思ったけれど、強引に切るのも失礼だと考え、素直に応じる。
「おう稲神ぃ、聞いたぞ? あの田端ってやつと付き合ってたんだなぁおまえ」
「……あぁ、うん。言ってなかったね」
「ったく言えよぉ」
おおかた、紅蘭寺さんから伝わりでもしたのだろう。僕らの関係については口止めしなかったし、当然といえば当然か。
それよりも僕は、二人がそんな会話をするようになったことに対し些細な喜びを覚える。おそらく叶ったのだろう、紅蘭寺ミサオという純粋な恋は。心なしかくぐもった声はどこか浮かれているようにも聞こえる。
「それで? 用件は」
「ああそうそう! 俺も最近彼女ができたんだよ! お前に相談のってもらったお陰でな! そこでものは相談なんだけどよ――」
彼は電話口の向こう側で、複雑な心境に悩む僕とは正反対に、どこまでも愚直に提案した。
「ダブルデートっていうの、やってみようぜ!」
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