4

「ヨウ、ハロー」


 聞こえる。

 彼女が僕に向けて放つ、甘美な響きが。


 不満げな顔で、背もたれのうしろを振り向く。案の定、ニィと笑みを浮かべる東洞スミカの姿がそこにあった。

 彼女は敵意を露わにしても顔色を変えない。それが周囲に対するスタンスであり、誇りという名の強さであった。

 気味悪がるのが、同級生たちの常であるが。

 そのせいもあって、彼女はどこにいても孤高が孤立になり、見放されていく。友人はことごとく友人をやめていく。スミカ自身、交友関係の構築が不得意なことは自覚していたようだ。それだけに、孤高だと勘違いされて、それがそのまま孤立に変わるのが痛ましかった。僕は腐れ縁だからこそ、突き放すことができずにいた。


 その日、ベンチに腰掛け本を読んでいた僕は、追い返す気にもならず、かといって相手をする気分でもなかった。ため息をついて、視界から彼女を外し、座り直してページを再開する。


「わっ」


 肩をがっしとつかまれ、耳元に吐息がかかる。赤みがかった茶髪がくすぐったい。無視するのも、彼女が驚かせようとするのも、ここまでの流れはいつもどおりだった。


「スミカ」

「ん。なーに?」

「友達いないの?」

「わかってるくせにぃ」


 呑気な返事に読書する気も失せる。本をパタンと閉じて、わざわざ真ん中に座っていたベンチを空ける。

 嬉々として身を滑り込ませたスミカを一瞥して、僕は視線を前方に向けた。

 青い芝が広がる庭。学校の敷地内で開かれる写生会は、この中学の恒例行事らしい。みえる範囲にあるのは偉そうな誰かの像、こいの泳ぐ池、緑色の生垣。今も複数の生徒が熱心に筆を振るっている。

 しかし、義務教育七年目ともなれば、このような恒例行事のサボり方も学ぶ。その一人である僕も題材は当たり障りのないものに決め、さっさと完成させてしまった。庭のすみにあるベンチで文庫本を読んでいれば、先生も怒りはしない。

 唯一懸念すべきことがあるとすれば、こうして東洞スミカがやってくることだけだった。果たしてその懸念は現実となり、僕の時間を邪魔したのである。


「スミカ、いいかげん『ヨウ、ハロー』はやめてくれない?」

「ヨウの方こそ、いいかげん諦めてくれない?」


 このやりとりも、彼女との挨拶みたいな扱いになってしまっていた。

 スミカは「ヨーソローみたいでいいじゃん」とのたまうけれど、僕はそれが不快でしかない。語呂がいいという意見はややこしいと言い換えられるし、「自分の名前きらいなの?」と問われれば「君の前ではね」と付け加えることができる。それくらいには気に入らない呼び方であった。

 ただ、それを延々繰り返すほど無意味な会話はない。今回も僕はやりとりをそこでって、話題を切り替える。


「スミカは僕のことが好きなの?」


 特別な好意をもっていないからこそ、直球の言葉をぶつけられる。君が僕に好意を持っているからなのか? そういう意図の質問をしたのは、これが初めてではなかった。


「どう思う?」


 そしていつだって、彼女はそうかえす。


「私はヨウを好きだと思う?」


 思うとも、思わないとも答えられない。

 東洞スミカは僕が好きだと思う。そう答えれば、僕がそうであることを望んでいるかのように聞こえる。承認欲求の色が混ざり、自分に自信をもっているとも捉えられる。自分をモテる人間だと思ったことは一度もない。

 東洞スミカは僕が好きだとは思わない。そう答えれば、遠回しに拒絶しているように聞こえる。言動を鬱陶しく思うことは多々あっても、東洞スミカのことはそれほど嫌いではなかった。

 結局、それを決めていいのは僕じゃない。


「その決断を僕に委ねるのは卑怯だ」

「やだなー、客観的な見解を求めただけじゃない?」

「だとしても、僕の回答から今後の距離感を定めることができる。極論、好きか否かを僕の発言に委ねることができるということだよね?」


 好きになるか、それとも距離をおくか。その判断基準となる会話を、彼女は引き出そうとした。


「会話をとおして相手のことを知りたいと願うのは自由でしょ」

「……それは、」


 言われてみれば、たしかに。そんなこと、世の中の誰もがしていることだった。日常の何気ない会話を使って、人々は『自分はこの人をどう思っているのか』を決めているのだった。そしてたったひとつでも認められないことがあれば、人は他人を切り捨てる。

 そう。東洞スミカを孤高と決めつけ、孤立させるように。


「それも、そうだね」

「でしょ? 他人の意見から自分の立ち位置を決めることは、悪いことじゃないよ」


 事実、彼女はそういった周囲の決めつけを否定しない。仕方ないことと受け入れている。それがさらに孤高という名の孤立を深めている。僕が反論できることではない気がした。

 会話が一区切りついたところで、席を立った。


「もう行っちゃうの?」

「絵の提出をしないと。さすがに雑談していたなんて理由でここに座ってたら、怒られるだろうから」


 彼女はなにも言わない。引きとめもしない。ただ「ふーん」とつまらなそうにこぼすだけだった。

 僕らの接触の終わりは、いつもこんなものだ。それでも腐れ縁として、ずっと関係が続いていく。確信すらあった。だからこんな別れでも大丈夫だと、僕は思っていた。


 ――本当は、気づくべきだったんだ。このときの彼女の変化に。


「ね、ヨウ」

「ん?」


 いつもならこのまま別れるところを、今日は声がかかる。僕は何の気なしに、なんならちょっと面倒に思いながら返事をかえした。


「私、ヨウが……いや、ええと」

「なに?」


 東洞スミカという存在が口ごもるところを、僕は今でも鮮明に思い出せる。珍しい、滅多にない反応だから。


「何でもない。また、話そうね」





 途切れた言葉の先を読めたのは、すべてが終わったあとだった。


 思えば、彼女は迷っていたのだろう。

 ただただ、僕と恋愛観について談義することを楽しんでいたあの日々。問いかけに深い意味はなくとも、時間を堪能するだけの言葉遊びとして交わしたあの時間。

 そこに生きる東洞スミカはたしかに、強くて、呑気で、明るい存在だった。

 だが実際は心がボロボロで、叫んでいて、助けを求めていたのだろう。崖っぷちに立ち、散々談義してきた恋ならば救ってくれるかもしれないとけたのだろう。不意に覗かせた危険信号の赤色こそ、あの逡巡だったのだろう。


 僕があのとき、彼女の言葉を引き出していれば。それに応えて、新たな関係を築いていれば。完全なる彼女だけの味方になっていれば。あの選択は変えられたのだろうか。


 東洞スミカは――人生を捨てずに済んだのだろうか。


 今でも僕は、ふとした瞬間に思い出す。



 あの日の声。

 日々を一変させ、想いの線を可視化し、田端ミレンとの邂逅をもたらした、すべての始まりを。

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