3

「雨坂さんとチヅルさんの間に、線はみえましたか?」


 真剣な面持ちでそう尋ねられたのは、ケーキも完食し紅茶の無味を味わっていたときだった。つい呆気にとられた反応をしてしまう。

 いつかの続きを話しませんか? なんて切り出したときは、まさか相手の方から踏み出してくるとは思いもしなかった。


 田端ミレンから線は伸びていない――つまり、僕は面と向かって『君は僕が好きじゃない』と告げたことがある。彼女はさして気にも留めていなかったが、かといっておいそれと掘り下げてくるとも思っていなかった。それが裏切られたのだ。

 つい、相手をみつめかえしてしまう。実は結構気にしていたのか? と顔色をうかがってしまう。

 でも、観察したところで読める感情などたかが知れている。

 冷めてきて、うっすらとしか上らない紅茶の湯気ゆげ。その向こうで視線を落とす整った顔立ちはしかし、薄色の感情だけを覗かせている。

 諦めて、僕も手元に視線を落とした。


「みえなかったよ」

「そうですか」


 僕は頷いて、続ける。


「これは予想だけど、雨坂さんはともかく、チヅルさんは死んでいた。なにより君の身体に宿った残滓に過ぎない。おそらくこの目は、生きている人々のつながりだけを証明するんだ。死者は含まれない」


 左目を左手で覆い、指の隙間から視界に彼女を入れる。

 田端さんは黙って聞いていた。きっと、彼女が本当に話したがっているのは雨坂さんたちのことではない。僕らの関係のことだ。あの日の続き。そう切り出した意図を、僕は汲み取る。

 線と言われて真っ先に浮かんだのは、ここ最近拭えなかった違和感だった。

 田端さんから伸びる線は、相変わらずみえない。僕から伸びている線もみえていない。僕らに恋心はない。

 僕は「あの田端ミレンならば」と期待して、恋人となることを選んだ。恋愛に対してこんな偏った見方――線に頼ってしまう見方――をしてしまう自分なんかでも、好きになれるかもしれない。みたことがない己の線を見れるかもしれない。そう期待したのだ。

 だが、向こうはどうなのだろう。

 田端ミレン。

 感情が読みにくく、変わった恋愛観をもつ少女。彼女は僕と普通の恋愛がしたいと言った。おそらく、死の重さを知っていて、かつ行動基準が似ている僕となら波長が合って、理想的な恋愛ができると踏んだのだろう。そして、死別後も相手になにかを残せると。だけどどうだ。よくよく観察してみれば、彼女は。


 すでに普通だ。


 だからこそ、違和感を拭えない。

 彼女は知らないはずだ。まだ未知のはずだ。生きて恋を謳歌する、普通の日々を知らないはずだ。その証拠に彼女の線はみえないのだから間違いない。恋はしていないはず。

 だというのに、彼女がときおりみせる仕草や反応、声。それらはどうしようもなく――のソレだった。


 ゆえに、わからない。彼女の深いところにある芯が、どんな姿形をしているのかつかめない。


「稲神さん」


 呼ばれ、いつの間にか深い双眸が僕をとらえていることに気づく。引き込まれそうな視線に射抜かれ、心の奥底を覗こうとしたはずが逆に覗かれたような感覚がして、思わず左目を覆う手を離す。


「あなたに伝えなければならないことがあります」


 ……どうしてだろう。恐怖を感じた。

 揺れない水面を想起させる、抑揚のおさえられた声。なじみ深いその音色に、今までの田端ミレンからは感じられなかった何かを感じ取り、テーブル下の手が無意識に震えた。思考をかき乱した。

 彼女はそれすらも見透かして、できるだけ優しげな表情を心がけたようだった。


「すこし、お出掛けしませんか」


 ごくりと鳴ったノド奥。僕は数時間ぶりに、外を埋め尽くすノイズを意識した。



◇◇◇



「本当は、今日はまだ言うつもりはなかったのですが」


 二つの傘。

 紺色と透明な八角形が、車二台分ほどのせまい道を歩いていた。

 曇り空の光を受け、ダークグレーの髪がゆれる。僕は視界の隅にその色を置く。


「あなたはさとい。それでいて優しい。私という存在のいびつな部分をなんとなく察しながらも、深く言及はしないでくれる」

「……」

「それはあなたの美徳でもあるのでしょう。少なくとも私は、そんな稲神さんを恋しく思います」


 恋しく思う。その一言を胸の中で復唱する。またいつもの違和感が生まれる。となりを歩く彼女にはとんでもなく似つかわしくない表現に思えた。


「想いの線がみえない――つまり、私は恋をしていないと、あなたは正直に告げてくれました。でもときおり、本当にときおり。そんな私を眩しそうな表情でみていることを、あなた自身はご存じですか?」

「僕が?」

「はい。紅蘭寺さんに向けていた視線と同種。恋をしていない私には向けるはずのない顔を、ほんの一瞬だけみせることがある」


 ああ、そうなのか。僕以上に聡い君のことだ、当然といえば当然だ。だから君はその秘密を――。


「だから、今日話すことにしました」


 迷っていましたが、それもやめです。そうつぶやいて、田端さんは笑んだ。

 透明なビニールを通過して照らす雲の明かりは、紺色の下にいる僕との対比のように輪郭を浮かび上がらせる。人形を思わせるほどではない、田端ミレンにしてはとても人間味の濃い横顔。

 憂いの強い、様々な情緒を感じさせる――わかりやすく言ってしまえば、恋をしている顔がそこにはあった。

 線が伸びていない僕にはできない表情。線の伸びていない彼女にはできないの表情。僕の目をあざむけた理由が、語られる。

 どことなく感じた恐怖は、間違いではないのだろう。彼女が空白の時間をおいたことすら、こちらの焦りを加速させる。気がかりをどこまでも増幅させ、迫る予感が暗雲と傘の内側に溜まる。雨は落ち着かせるどころか、逃げ場をふさぐように感じられる。僕は歩みを続けながら、雨音に呼応して手汗がひどくなるのを意識する。


 次の瞬間。

 空白の数分。彼女が僕に与えた、心の準備の数分。どれほど長かったかは定かではないが、田端ミレンはせきを切ったように、あっさりと、唐突にも思えるタイミングで真実を口にした。

 本能が、意識が、耳を傾け、



 雨の音を、途切れさせた。





東洞とうどうスミカを、覚えていますか?」

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