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 テストは無事終わり、待望の夏休みがやってきた。


 生徒は終業式終了の直後からテンションが上がり、ソワソワしはじめ。ここ数日はずっと詰まった重い空気をしていたというのに、その時間を惜しむように居残り談笑していた。

 そして今日から、溜まった疲れを発散させるのだろう。

 ――あいにくの雨だが。

 雨天に染まる夏休み初日。暑さゆえに、すこしだけ隙間をつくる窓。ポツポツとした音とともにやってきたペトリコールも、本格的に降り始めたことで薄れてしまう。

 さっそくの外れを引いて、クラスのグループメッセージで愚痴が飛び交う。でも彼ら彼女らは諦めることを知らず、友人の家やカラオケ店で集まろうなどと計画していた。その行動力は感服する。僕は自宅で雨を感じながら本でも読む方が性に合っているのだ。


 そういうわけで、我らが休暇オアシス初日は、誰とも顔を合わせることはないと思っていたのだけど。


「おはようございます」


 今まさに、僕は自宅の玄関先で、来訪者に思考を停止させられているところだった。

 恋人にしては他人行儀な言葉使いとともに、丁寧に頭が下げられる。ゆるやかな私服で目の前にいることも、彼女が自宅を知っていたことも、すべてが唐突で、理解が追いつかなかった。

 とりあえず、コンビニ袋を手渡す彼女に定型文の挨拶を返し。リアルタイムで更新されるグループメッセージを閉じ。水が滴る傘を「ここに」と促して。そのまま数秒向き合って。

 ようやく混乱がおさまってきた。いや、現状を納得できたわけではないが。


「その手……」


 自分を混乱させている原因のひとつに触れる。彼女の左手の平は、ギプスで覆われ親指だけが自由な状態だった。視線を受けて、田端さんがひらひらと腕を上げる。


「しばらく不便ふべんなようです」


 何があったのかと思考して、すぐに思い当たる。

 先日みせてもらった降霊術だ。

 降霊術で彼女に宿ったチヅルさんは、力任せに雨坂さんや僕を殴り飛ばしていた。それはチヅルさんゆえの強さだと思っていたが、よくよく考えれば、体は田端さん本人のものなのだ。

 決して筋肉質になったわけではないし、ただ霊が宿っただけで身体が丈夫になるなんてこともあり得ない。人を殴るなどという行為は日常的にすることじゃない。ボクサーみたく常日頃から拳を鍛えているわけでもなく、しかもグローブもせずにあんな強く殴れば、必然、殴った本人の手がいたむ。中学時代のクラスメイトにもそうやって怪我をしたやつがいた。男子の喧嘩が原因で、殴った方が指を骨折したのだ。


「テストは大丈夫だった?」

「ええ。彼女が左利きだったのが幸いでした。結果もつつがなく」


 田端さんはなんてことないようにそう言った。サンダルや外履きに囲まれて立ち話するのも気が進まないので、「どうぞ」とウチにあげる。

 靴を揃えて脱いだ彼女から、「お邪魔します」と鈴を鳴らしたような声音がかえってきた。無性に緊張してしまう。

 僕の家は、田端家と比べれば一般家庭にすぎる。靴を脱ぐところから背筋を伸ばして歩く姿、背後の軽い足音まで、ひとつひとつの所作が綺麗に映った。僕個人の上品フィルターを通してしまえば、彼女がそこにいるのはひどく場違いに思えた。

 そしてどうやら、そのフィルターは僕だけのものでもないらしい。


「――、」


 リビングでコーヒー片手に唖然とする母。どうやら遺伝でもあったようだ。


「初めまして、お母様」

「お、お義母かあさ――え?」


 突っ込みたい。恥ずかしいからやめてほしい。しかし平常心を保つのに精一杯で、僕は母の視線を受け流した。

 代わりに、リビングの入り口で深々お辞儀をする彼女を紹介する。深入りされたくないため、詳細な関係は伏せておこうと決めて。


「友人の田端ミレンさんです」

「へ、へぇー。あんた、友達いたの」


 素直な意見がグサリと刺さった。だがそれも気にしない、気にしない。今の僕は無心。さながら物言わぬ機械のように振る舞わなければ、メンタルがもたない。

 と、堪える僕に小首をかしげてから、田端さんが一歩まえに進み出た。そして当たり前のように、今日はそのためにここへ来たのだとでもいうように、平然と爆弾を落としていく。僕の努力を一瞬で水の泡にする。


「稲……ヨウさんとお付き合いさせていただいております。以後お見知りおきを」

「――、」


 ビチャビチャと。テーブルのうえに、母のコーヒーがこぼれた。



◇◇◇



 田端さんがコンビニで買い物している姿を思い浮かべ、意外と庶民的なんだなと感想を抱く。袋から取り出したショートケーキをひとつずつ小皿にのせ、田端家にはないだろう安い紅茶――これでもウチにある最高級――を添える。ついでにちょっとした菓子も盆にのせ、それを持って二階へ向かった。

 扉をあけて自室に入ると、田端さんは「適当に座って」と言ったにもかかわらず四角いテーブルのそばに正座していた。また丁寧に感謝を述べる彼女に、紅茶とケーキ、菓子の小袋を差し出す。僕も向かいに腰をおろした。


「それで、突然ウチにきてどうしたの? というか、よく僕の家の場所わかったね」


 田端さんは紅茶に口をつけ、それから一息おいて応じた。


「ひとつめの質問は『直接会って話しておきたいことがあったから』。ふたつめの答えは『調べさせた』になります」

「う、うん……ひとつめの答えはともかく、ふたつめに関しては怖いから触れないでおくよ」


 学校に問い合わせたとか、そういう穏便な方法をとったのだろう。そうに違いないしそうであってほしい。田端さんの家系が何らかの権力をもっているだなんて想像は、あまり考えたくなかった。

 僕は思考を切り替えるために喉を潤す。


「ま、まあここへ来た理由とかはいいや。それより、あらためてお疲れさま、田端さん」


 首をかしげて、だけどすぐに降霊術とテストのことだと気づいたようだ。


「それは、あなたも。放課後の時間を奪ったことといい、直前に降霊をみせたことといい、私はご迷惑をかけてしまった」

「いや、いいんだ。あれはあれで貴重な体験だったし、田端さんに見えている世界が知れてうれしかった」


 本心からの言葉で感謝を告げた。僕はフォークで切り分けたケーキの柔らかさに目を細め、先日の出来事を反芻する。

 雨坂ナユキという男と、チヅルさんとの会話。田端ミレンを通して囁かれた愛の言葉。きっとあの時間は貴重で、二度と目に出来ない、世界にふたつとない関係で。どこまでも美しく、感情的に、部外者の僕の心さえ深く揺さぶったのだ。

 それだけ、彼女は人々に愛を深めさせているのだろう。あんな尊さ溢れる関係をつなぎとめる存在が、田端さんなのだろう。テスト期間の合間、僕はそんな感想を組みあげていた。


「それと、」

「ん?」


 田端さんが何かを言いかけ、口をつぐんだ。彼女はみつめる先で、目前のケーキに目を落としたまま手を止めていた。痺れるだろうに、いまだに正座を崩さず。それでも僅かに俯いて、言葉を選んでいた。

 本題に入ろうとしている気配を確かに感じた。


「今日は、その。謝りたくて訪ねました」

「……」


 俯きがちなのは、言葉に迷っているだけではなく、誠意の表われでもあるのだと、ようやく悟る。きっと正座を保っているのも、ケーキに手を付けないのも同じ理由。そう考えると、目の前の彼女が想像より思い悩んでいたのだと理解できる。

 たしかに。彼女はこういったけじめみたいなものに対してキッチリしてそうな性格だ。ならこの硬さも納得である。

 僕は急かさず、じっと続きを待った。

 そのお陰もあって、田端さんはゆっくり、奥で噛み砕いた言葉をこぼす。珍しく辿々しい口調で。それがなんだか微笑ましくて、すこしだけ魅力的に思えた。


「……降霊している最中のことですが。私自身は、ええと」

「うん。君は?」

「意識を、ちゃんと持っていました。なので、儀式中に起こったことは……記憶に残っています」

「へぇ、そうなんだ。中々興味深いね」


 間の抜けた返事をかえす。できればちょっとでも緊張を和らげてほしいのだけど、みる限りまだ難しそうである。もしかしたら、環境が良くなかったかもしれない。

 彼女はチカラを抜くどころか、なおさら申し訳なさそうに僕をみつめた。


「ごめんなさい」

「え?」

「加えて、ありがとう。私を止めようとしてくれて」


 俗に言う、土下座――にちかい姿勢が飛び込んできた。視線を合わせて、腰を引いてからの。あまりにかしこまっていて、予想外のかしこまり具合に僕の方もいやいやと手を振ってしまう。その間も、田端さんは頭をさげていた。


「あなたを殴ってしまったというのに、しばらく謝罪もできず。そのうえ気を遣わせてしまって」

「そんなこと気にしてないから、ほら顔あげて。むしろこっちが謝りたいくらいだよ。暴走する君をとめられなかったんだから」

「いえ、それは……」


 譲り合いのような空気になってきた。綺麗な目をぱちくりして、姿勢をもどした田端さんがみつめる。まるで「この人はどこまで気遣うのだろう」とでも言いたげだった。

 実のところ、僕も気づかいがすぎたかもしれない。そう考えれば、彼女の責任感を強くしてしまっている原因はこちらにもある。かといって、すぐにどうこうできるかと言われるとあやしい。

 ああ。結局、この思考さえも気遣いに過ぎなくて。


「……は、ははっ」

「な、なにかおかしなところでも」


 読みにくい表情が、どこか困惑しているようにみえた。彼女にしては珍しくて、微笑ましい。


「僕らだよ」


 おかしいのは、僕らだ。

 考え方をかえようとして、ふと自分たちを思い返してしまった。見えるはずのないものがみえる。そのせいでどうしようもなく恋愛観が歪んでしまった僕ら。

 そんなふたりがこうして話しているのが、なぜだか奇跡的に思えた。


「……? 言っている意味が、よく、」

「ほら、そんなことより田端さんもケーキ食べよう」

「え、ああ、わかりました……?」


 会話の終着点を誤魔化した僕に対し、田端さんは納得のいかない表情でフォークを手に取ったのだった。

 整った姿勢を崩すことはなかったけれど。他愛ない会話をするにつれ、ロウのように固まった雰囲気は次第に弛緩していき、学校や図書室で話す彼女へともどっていった。

 壁と窓の向こうに雨を感じ。

 落ち着きを意識した互いの声も、この空間ではとても心地よく空気を揺らす。

 近すぎず。遠すぎず。

 僕と田端さんの関係性を象徴したような距離感に気持ちが和らいでいく。ケーキの甘みと紅茶の渋さを交えながら、今という瞬間を味わっていく。


 僕は堪能していた。時間を久しぶりに忘れられた気がした。


 ふとした瞬間に気になってしまう、田端ミレン。驚いたことに、注意深く観察すると案外豊かな表情をする。一緒にいることが増えたからなのか、それとも彼女が生きて謳歌する恋を学んできているからなのか。

 どちらにせよ。

 田端ミレンの微笑む顔は、ああどうしてか、いつもより可憐で、素敵で。



 ――やはり、異質だった。

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