第3章

Lost rain sound

1

 屋上から飛び降りた生徒のそばには、もうひとり誰かがいた。

 そんな目撃情報を蔓延まんえんさせ、当人の心を無感情に踏み荒らしていく生徒たちの興味。定かでないどこかの誰かの心情などどうでもいいのだろうか? それとも、人々は事情も知らない誰かを憶測で『犯人』という壇上へ押し上げ、ストレスのけ口を求めていたのだろうか。

 閉鎖空間で起こった衝撃的な事件は世間でもニュースとなって議論され、大人が画面の向こうで語る姿が余計に生徒の関心を煽る。

 立ち入り禁止の屋上へ侵入したふたりの生徒。危機管理を怠った学校側の責任。いじめや不登校などといった問題の有無。目撃されたもうひとりと少女との関係性だったり。一時期とはいえ、物議は周囲へ多大な影響を与えながら白熱していく。


 もっとも近くでその『死』をみた稲神ヨウは、仮面をかぶっていた。


 事件の当事者としてこの上ない立ち位置にいながら、何事もなかったかのように振る舞い。ニュースや噂を聞く、関係のない聴衆を演じて。外側からみつめるだけの一般人を装っていた。

 学校側の意思でもある。

 勉強に支障がでるから。注目を集めるのもよくないから。家族にも迷惑がかかるから。真っ当な理由で、話題の『もうひとり』が稲神ヨウであるという事実は秘匿されていた。

 彼自身、反対していたわけではない。平穏な日常が脅かされる可能性があるのなら、避けるために努力しなければならない。もちろん自ら『僕がもうひとりだ』と叫ぶつもりもなかったし、そんな注目を浴びたいだけのような行動はかしこいとは言えない。彼は冷静に普通の生活を選んだのだ。

 だが、ことはそう簡単ではない。彼の世界に飛び込んできた非日常じさつは、普通の生活との齟齬そごを生み、蝕んでいく。


 誰かがあの話をしている。

 向こうで彼女の名前が挙がる。

 『もうひとり』の噂が流れてくる。

 誰が、何が彼女を死に追いやったのだろう。君はどう思う?


 心ない意見を求められ、客観的に応えるたびに。という存在は瓦解していく。歯車がズレたように壊れていく。目に見えなくとも、自分がおかしくなっていくのを感じる。


 当事者の自分と、知らぬ存ぜぬな顔で意見を口にする自分。


 ちぐはぐな二人の稲神ヨウはどこまでも世界を狂わせていき、他人がわからなくなっていく。

 急に学校を休めば、周囲からは不自然に映る。逃げるように姿をくらます彼こそ『もうひとり』なのだと、答えを開示するようなものだ。だから彼は身を投じることしかできなかった。身を引き裂かれるような、つらい現実に。

 逃げることはできない。目を背けてもならない。応じなければならない。

 教員。家族。友人。世間。取り巻くすべてを捨てたくなくて、彼は自分を犠牲にしていった。今まで以上に距離感をはかるようになったし、今まで以上に心を読むようになった。この上ないほど誰かを気遣い、認知されなくとも配慮するようになった。たとえ『当事者の自分』が声なく叫ぼうと、表面では当たり障りのない人柄を意識した。あらゆる他人をあざむいてきた。

 ――仮面をかぶっているとバレないように。

 そう、彼は平穏を手放せずにいた。もがきながらも、自分のために自分を押し殺して生きた。

 対応しなければならない。察して、読んで、配慮して。他人のための立役者として演じ続けなければならない。彼女の手をつかめなかった自分を責めて、それでも誰かに弱音を吐いてはならない。罰を求める相手もいない。


 その結果が、想いの線。

 過酷な現実を。他人の事情を汲み取らなければならない日々を。壊れていく彼を支えるためのセーフティ。異常の発露。

 そしてこの機能は、稲神ヨウが心を読む――他人に合わせて対応する手段になると同時に。

 彼から『』という感情を、奪った。


 出会いは得てして、夢がないのだと。彼は無機質な線をみつめながら、そう結論づけた。

 いとも簡単に途切れてしまう薄情さを知り、落胆したのだ。







 いつか、選択のときがくる。


「選択? 誰の」


 君のだよ。


「私の?」


 そう。選ばなければならない。君か、私か。


「……なるほど」


 君は生きるか死ぬかの選択を迫られるんだ。

 のがれられない。

 避けられない。

 時間は刻々と迫っている。






 さあ、準備はできている? 田端ミレン。

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