7

 田端さん宅の談話室。変わらず場違いに思わせる絨毯とソファも二回目は慣れ、今日はしっかりと目の前の出来事に集中できていた。


「お静かに願います」


 田端さんが人差し指をたて、誠実な声で言った。向かいあって座る雨坂さんとすこし離れた位置から見守る僕は、彼女の言葉を素直に受け入れ頷いた。

 テーブルのうえには以前にもみせてもらったコップがひとつ。今も中にはビー玉が入っていることだろう。それを使うということは、儀式のはじまりを意味していた。

 静寂につつまれ、自分の心音以外は秒針のみが音をつむぐ部屋。何倍にも大きく聞こえる衣擦きぬずれが聞こえ、否応なしに眉や指が反応してしまう。未知の予感に緊張感を募らせながら、行く末をじっとみつめた。依頼者は固唾を呑んで田端さんを観察し、僕も彼女の繊細な所作を目で追っていた。

 ごくりと息を呑む視線のさきで、華奢きゃしゃな指がコップをつかむ。

 すぅ、と。

 透き通った瞳が、ゆっくりと細められた。

 長いまつげの向こう、儚げな透明さを持つ宝石が、不思議な迫力をもって虚空を見つめる。人のまま人の域をこえようとしている。見えないなにかを見通している。そう説明されても納得できるほど、僕は彼女に目を奪われていた。彼女の支配する空気に魅入って、引き込まれていた。

 憂いも。

 迷いも。

 そこに感情と呼べるものは一切ない。ただ淡々と役目をこなすように、何も考えず小石を拾い上げるように、彼女はコップを持つ。

 微風に混ざるような優しい声音で、彼女は唇を揺らし。なにをつぶやいたのか聞き取ろうとた、その刹那。


 ガラガラガラ――と、けたたましい音が部屋を満たす。


 一瞬なんの音かもわからなかったが、すぐにコップから発せられていることに気づいた。コップを振り、中身のビー玉を転がしたようだ。

 大きく規則的に繰り返される音は、秒針の音や鼓動の音さえも上書きして、空間を支配。そのリズムを崩さないよう努めて、彼女はコップをテーブルに戻した。

 田端さんは手を戻しひざの上へ。ソファに腰掛けなおし、背筋を伸ばした状態で目を閉じた。なおさらおごそかな雰囲気が増す。緊張が空気に伝播し、引き締まっていく。身動きすることなく制止した緊張の中心人物は、端正に作られた、不思議な美貌を持つ人形にもみえた。


 少しずつ、ビー玉の回転速度が落ちてくる。

 摩擦によって一週が長くなり、比例して音の間隔ものびる。次第には音の大きさすらもナリを潜めていき、そして。


 ――止まった。



「……」

「……」



 沈黙が支配する。

 さっきまであんなにも意識していた秒針の音が、今は耳が痛いくらい静かだ。何が起こるのかと身構えて、周囲を観察して。目につくのは身動きしない彼女と、宙を舞うホコリくらいのもの。数秒さえも長く感じ、「いつだ、いつやってくる」とさらに緊張感を高めていると。


 ふいに、田端さんの目が開かれた。

 準備完了、とでもいうように、ゆっくりと視線が持ち上げられる。


 澄んだ瞳。しかし、先ほどまでと中身が異なることを根拠もなく知覚した。

 別の色が同居している。田端ミレン本人の持ち物ではない、なにか異なる意思が混ざり込んでいる。他者の色が、感情が、宿っている。

 彼女が投げかける視線のさきには、じっと待つ雨坂さんがいた。彼と見つめあい、そのまま数秒。目覚めたばかりのようにぼんやりとした表情も、徐々に確かな意識を確立していく。そして、ようやく第一声がもたらされた。


「はぁーーっ」


 盛大なため息ひとつ。

 虚を突かれ、僕も雨坂さんもきょとんとしてしまう。唖然とする男ふたりを前にして、田端ミレンの身体を借りた誰かは姿勢を崩した。足を組み、ふんぞり返るようにして腕組みをした。表情には明確な不機嫌さが表われ、雨坂さんを睨んだ。


「チッ、こんなところに呼びやがって……」


 僕は呆気にとられていた。雨坂さんも同じだろうが、おそらくそれ以上に。

 田端ミレンが男勝りな態度を取るのがとんでもなく異質。わかっていても理性が「おかしい」と警報を鳴らしていた。控えめで温厚な性格のあの子が舌打ちするのも信じられない。まるでキャラの中身だけが変わってしまって、あらゆる歯車が噛み合わなくなったような気分だ。佇まいは変わらないのに、内包するものはひどく不相応。

 ……実際にそうなのだけど。

 演技とは思えないほどチカラが入っているし、やはり彼女の言っていた降霊術は本物だったということか。

 しかしそれは別として、わからないことがある。

 田端さんは『愛に基づいた言葉のみを代弁できる』と話していた。だけどその実、彼女がこぼす言葉の端々には不機嫌さがうかがえるのだ。とても愛に基づいているとは思えなかった。そんな僕の第一印象と疑問を、彼女の言葉が晴らしてくれる。


「こんなことのために金なんざ使いやがって。相変わらずバカだなてめぇは」


 吐き捨てるように、『バカ』の部分が強調される。でも確かに、そこには愛の片鱗が隠れているのだった。

 罵倒された雨坂さんが気になり様子をうかがうと、予想通り、そこには口をぱくぱくさせる姿があった。依頼したものの、やはりどこか半信半疑だったのだろうか。田端さんの豹変を目の当たりにし、見開いた瞳で見つめている。


「チヅル……なの、か?」


 口悪く罵倒されたことなど気にも留めず――否、罵倒する彼女こそ、話したかった相手なのだと、雨坂さんの表情が物語っていた。

 威圧的な態度。想像していたような、湿っぽく穏やかな雰囲気は全くといっていいほど皆無。その感動を覚えているのは彼だけで、『その強さを探し求めていた』と瞳を潤ませる。


「――っ、チヅ、ル」

「あーくそ、すぐそうやっておまえは……」


 田端さんはがしがしと頭をかいて、またため息をついた。


「ごめん。ごめんっ。俺は君のために、なにもできなかった」


 手遅れだというのに、雨坂さんは泣き顔をみられたくないのか、服の袖で目元を拭った。

 忘れてはいけない。

 彼らはすでに死別したあと。

 かつてのふたりにどんな物語があって、どんな最後に引き裂かれたのか。僕も知らされていない。彼の反応をみる限り、少なくとも後悔の残る別れであったのは確かだろう。でなければ雨坂さんはここまで思い詰めない。胡散臭い降霊術などに金は出さないし、依頼しない。彼が田端ミレンの降霊を信じて契約し、今こうして泣いている時間は、他でもない彼自身の、果てしない勇気の賜物たまものなのだ。

 そんな空気にあてられて。最初こそ棘のあったチヅルさんの態度が緩和される。


「だーもう、泣くなって。アタシは別に気にしてねぇから」

「う、っ、ぐぅっ」

「ほんと、身体以外はあのころのまんまだな」


 かつての記憶を懐かしむように、田端さんの身体を通して微笑みがこぼされる。

 緊張感はとっくに霧散し、僕の視線のさきでは二人だけの世界が繰り広げられていた。僕の知らない彼女だけの記憶がカタチを成して、奇跡とも呼ぶべき再会が実現していた。


「いいのか? このままお前が泣いてたら、貴重な時間、なくなっちまうぞ」

「ううぅっ、チヅ、」

「話したいこと、あるんだろ?」

「ズビッ……あ、ぁぁあっ」

「生前には言えなかったけどさ。アタシはおまえの気持ちだけでも、嬉し――」

「ぅ、チヅル、チヅル……俺はずっと……!」

「……」

「っ、は、ぁあ、ごめ、ん……! ずっと後悔して、っ」

「…………」


「――さすがにちょっと泣きすぎじゃないか?」


 カチン。

 なにかのスイッチが入った音を、僕は確かに聴いた。

 まずいと思ったときにはすでに遅い。高まっていく火山を沈める隙もなく、田端さん――の身体を借りたチヅルさん――がゆらりと立ち上がった。

 この感覚は身に覚えがある。だれかを怒らせてしまったときの、本能的な危険信号。触れてはいけない領域に土足で一歩踏み込んでしまった、それが空気を凍り付かせてしまったような、そんな感覚。地雷を踏み抜いた感覚。最後に経験したのは、中学校のときだろうか。いつまでも騒ぎが収まらなくて、最終的に担任の怒りが爆発したのを今なら鮮明に思い出せる。


「おまえさぁ……せっかくアタシが寄り添ってんのに、いつまでもピィピィ泣きやがって……」


 遅れて、雨坂さんが危険を察知した。小さく、「え」という声がもれた。


「いっつもそうだよなぁおまえは。病室に来るたび来るたび――」


 怯えも混ざった反応がより彼女の怒りに油を注ぎ、ダンッという音が鳴り響く。田端さんの足がテーブルの上に乗った音だと気づくのに、数秒かかった。その一瞬の混乱が足踏みさせているあいだに、チヅルさんは問答無用に動く。僕が止めに入らなければと判断するよりもはやく行動に移した。

 机を乗り越え、雨坂さんの胸ぐらをつかんで立ち上がらせる。そして間髪入れず、拳を振った。


「シッ!」


 ズンっと。

 人間から聞こえてはいけないほど重みのある衝撃が走る。


「かはっ」


 口をあけた彼から、苦悶くもんの声がもれる。だがそれも一瞬のことで、次の瞬間には身体が突き飛ばされていた。それなりの体格がある雨坂さんの身体が軽々と飛び、後方の壁に叩きつけられる。部屋全体が揺れ、テーブルに乗ったコップも、暖炉うえのオーナメントのうちのいくつかも倒れた。軋んだ天井から埃が舞い落ちて、今の一撃が普通じゃないことがうかがえる。

 ぞわりと全身に恐怖がはしった。


「黙って見てりゃ、いつまでもウジウジ、ウジウジとっ!」


 一歩、一歩。

 イスを蹴飛ばし、絨毯のシワを増やし、怪獣が進行する。


「なぁあにやってんだぁアアンッ!?」


 ヅカヅカと近づいていく。チヅルさんの視線は、壁際でうずくまっている彼に固定されていた。

 このままではまずい。その判断にようやく身体が従ってくれた。

 まだ続ける気の彼女のまえに、震えるひざで躍り出る。


「ちょちょちょっと! ストップ、ストップ田端さ――じゃなくて、ええと、チヅルさん?」

「あ?」


 ぎろり。ヘビに睨まれたような感触に、背筋が震え上がる。舌打ちとともに無言の圧。言葉にせずとも『邪魔だ』と言われているのがわかった。それでも動けずにいると、今度はぶつぶつと何かをつぶやきはじめた。

 くそが。

 どいつもこいつも。

 しゃらくせぇ。


「気にくわねぇ、あーサイアクだあたしの気分はよぉ!」


 見た目は田端さんだが、とんでもなく怖い。叫びにも似た一言はびりびりと空気を揺らし、恐怖を増幅させた。このまま立ち塞がれば、僕もまた雨坂さんと同じく殴り飛ばされるのだろう。彼と一緒に倒れる姿が容易に想像できる。おそらくとんでもなく痛い。下手をしたら病院にお世話にもなるのではなかろうか。

 それはいやだ。


 ――でも。


「お、落ち着いてください、ね? 色々とご迷惑でしょうし……」


 ああ、まったく。僕に不釣り合いだ、この役目は。こんな身体を張った行動は想定外。今までだって、ずっとこういう事態を避けてきたというのに。

 でも任されてしまったんだ。田端さんに。

 否定せず、勝手に与えられたこの役目を受け入れたのだ。ならば、逃れ得ない。

 あとでコーヒーの一杯でも奢ってもらいたいものだ。そう心のなかで吐き捨てて、僕は彼女の腕を――


「ラァッ!」

「っ!?」


 掴もうとして直後、腹部に重々しく一発。ゴスンと鈍い音が突き刺さり、女の子の体格とは思えない強さが視界を揺らした。

 堪らずひざをつく暇もない。

 意識が飛びそうな威力は、一瞬とはいえ床から足を浮かせ。下半身が消し飛んだのではないかという危惧ののち、一拍おくれて痛みがやってきて。世界がブオンと音を立て。背中に感じた硬い感触もさらに苦痛を上乗せし、僕に死を意識させた。


「は、ぁ、」


 次の瞬間には、雨坂さんの身体からすこし離れた壁際で、よだれを垂らしながら呻いていた。先ほどと同じことが僕の身にもふりかかったのだと、ようやく理解した。


「ちょ、ま……」


 力なくのばした腕のさきで、田端さんがしゃがみ込む。いまだに呻く雨坂さんの頭髪を掴み、顔をのぞき込む。

 勘弁してほしい。もう何がなんだかわからない。囁くのは愛に基づくことだけではなかったのか? もちろん愛はあるのだろう。でもさすがにやりすぎではないか? これじゃあ会話じゃなくてただの八つ当たりだ。

 そんな疑問に答えてくれる田端さんも、今はいない。呑気に答えを探しているわけにもいかず、痛みに耐えて立ち上がる。吐き気を感じて、いちど我慢するように俯くが、それでもと意思を強くもった。

 このままでは、最悪雨坂さんが死んでしまう。


 そうやって、無理矢理身体を起こした僕は――ぴたりと動きをとめた。


「チ、ヅル」


 追撃でも加えるつもりか、と思っていたのだが。彼女の行動は、予想をおおきく裏切っていた。良い意味で。


「バカが……」


 床にへたり込んだチヅルさんが、小さくつぶやいた。

 しおらしい空気に、口を挟めなくなる。その光景に目を見張る。


「病室で言っただろうが。アタシのことは忘れろって」

「は、はは。ごほっ」

「くそ、ほんとにお前は。いつもいつも」


 ポス、と。

 彼女の拳が、雨坂さんのおでこにあてられた。怒りの抜けた彼女と、痛みに耐えて苦笑いを浮かべる彼の会話が、交わされる。


「お前がウジウジしてんの、気に食わないんだよ。アタシに引きずられんなっつったろ。なんども」

「無理だよ、それは。俺は君一筋なんだ。忘れられるわけがない。あの夢だって、君がいたから頑張れた、でも今は」

「ハッ、キザな口は変わんねぇな。ま、まぁ嬉しいけどサ」

「……チヅル、俺は」

「無理に乗り換えろ、とは言わねぇよ。夢もアタシのことも。でも、でもさ。頼む。前だけは向いて生きてくれ。アタシはちゃんとしてるお前が好きなんだ。いつまでも落ち込んでられると、見てるこっちが辛い」

「見てる、か」

「ああ。見てるし見てた。ずっとな。お前が何日も家に閉じこもってんのも、両親すら遠ざけてたのも知ってるよ。それくらい……引きずってるのもわかってる」

「それは、その。なんというか、ごめん」

「謝るな。腕の立つ医者にも無理だったんだ、見習いだったお前にも、きっと無理だった。あのときは仕方のないことだったんだ」

「……」

「あるんだよ。避けられない死っていうのが。それがたまたまアタシに降り注いだんだ。だから、おまえが気に病む必要はないんだよ」

「……チヅル」


 雨坂さんは、手を伸ばした。

 契約では、彼の方から触ろうとするのは違反行為だ。僕には止める義務がある。だけど、こちらが声を発する前に、彼女の方から手を握り返す。


 触れていいのは、霊が許した場合のみ。


 チヅルさんは許した。ならば僕に止める義務はない。

 彼女の手を力強く握って、雨坂さんは顔を上げた。嵐の海に漂いながら、差し込む光に照らされたようだった。

 顔は紛れもなく田端さんのものだろうけど。それでも雨坂さんはきっと、チヅルさんを見ていた。目を見開き、口を半開きにする彼の表情は、救いを得たようにも、答えを見つけたようにもみえた。


「歩けよ、ナユキ。アタシはずっとみてる。お前を。だから歩け。立ち止まったら、化けて出るからな」

「……ああ。それはそれで嬉しい、な」

「はは、このバカが」


 冗談も笑い合う、二人の関係性。何年もあとに蘇った、刹那の奇跡。

 これが、愛に基づいた死者の言葉。

 彼女が背中を押すために投げかけたソレは、とても暖かくて、頼もしくて、なにより美しい。

 田端さんがこの仕事を続けてしまうのも、『死は恋愛における最高のスパイス』と評すのも、なんとなく理解できてしまった。

 静かになって、舞い上がった埃が徐々に降りていく最中さなか。僕はふたりから目を離せずにいた。

 失われたはずの、強いつながり。きっと生前よりも強固で、深い。『死』という結末が仲を引き裂いて、絶望したことだろう。暗闇に落ちて、光を見失ったことだろう。面影を忘れられず、進む方向に迷い足踏みしていたことだろう。

 だがその分だけ、今が輝いている。互いを感じている。つながりを強くしている。


「……、」


 言葉を失い、ただただ見届ける。

 これが、死別という結末のさきにあるもの。


 死者と生者の間に線は映らない。だけど彼らは間違いなく、純白の線で結ばれていた。

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