4
「想いというのは、他人に対し異性として興味をもつ感情のことだ。恋愛対象として気になっている――それが線となってみえる」
僕がそう告げると、田端さんはストローに口をつけて、言葉を味わうように頷いた。
「誰が誰に恋しているのか。それが稲神さんにみえている線の正体ということですね」
「正確には恋より緩いものかもしれない。よく『片想い』だったり『両想い』みたいに、人の恋心を想いと表現することがあるでしょう? それになぞらえて勝手に『想いの線』と呼んでいるだけで、実際はもっと不完全な、漠然とした興味のことなんだと思う」
「恋心としては不十分、かといって全く異性として意識していないわけでもない。あなたからはそうみえているのですね」
そのとおり、と僕は頷いた。
「昼の恋愛相談もそうさ。あのふたりは少なからず互いに興味を持っていた。白瀬が紅蘭寺さんに抱いている興味が恋心と呼べるものなのかは不明だけど、紅蘭寺さんの方は一目瞭然だった。彼女が抱いていたのは、紛れもなく恋心だった」
だから、僕は彼女の背中をすこしだけ押してあげたんだ。そう語る。
田端さんが一瞬だけこちらをみる。でもすぐにまた視線を戻し、真剣な顔で顎に指をあてる。そして小さく吐息をはいた。
僕が日々受け持っている恋愛相談。気遣いの産物。どうやらその正体に思い至ったようだ。ゆっくりと考え込んでいたまぶたを持ち上げ、窓辺の景色をみつめる。
「それはまた……難儀なことですね」
困ったものです、と。同情も入り交じった声音がこちらの笑いも誘った。
「たしかに。そんなものがみえてしまえば、きっと私も相談を断れません」
「知らない方がいいこともある、なんて言葉は特に身に染みるよ」
「ええ、そういう意味では、私もあなたも同じでしょうか」
「うん、そういう意味では、僕と君は同じだよ」
彼女は死んでしまった人の、誰かへの想いを。
僕は生きている人々の、誰かへの想いを。
カタチは違えど、どちらも本来みえてはいけないモノを――知らないほうがいいことを――受け取ってしまう。その結果、彼女の恋愛観は死という飾りが不可欠になったし、僕の気遣いはより理解されにくい行為にあらわれた。
これがなければ、僕は一般的な生徒になれていたであろう。
「……今も、みえているのですか?」
顔色をうかがうように、澄んだ瞳が僕をのぞき込む。それに反応すると、彼女は視線を眼下に移す。目で追うと、そこには駅を出入りする人々の頭があった。
ちょうど列車が通過したのか、女性男性、幾人もの群れが一美坂駅を行き来する。ロータリーに這い出て、散っていく。
僕はわずかに目を細めた。
でも注意深く観察する気にはならず、ため息をついた。
「みえるよ。カップルなら当然のこと、ひとりで歩いている人も、線はどこか遠くにいる誰かへ向かって伸びている」
「どんな色ですか? 太さは。長さは。あなたからみて、綺麗ですか?」
「色は白。淡くて消え入りそうな、雪みたいな白。細くて腕の長さくらいで、綺麗だ」
昨日と同様に、線は複雑に蠢いていた。見ようによっては気色悪いかもしれない。こうして遠目だとケセランパサランにも似るけど。
「なら――」
かすかに、息を呑む気配がした。
気のせいだったかもしれない。そう思わせるほど、こちらを振り向いた彼女の表情は冷静で、感情が読み取れなかった。しかし放たれる疑問は必然。遅かれ早かれ、僕はこの壁に当たる。そのときが来たのだ。
「私の線は?」
息を呑む気配は、僕のものだった。そう言われても納得できるほどの衝撃が、静かにもたらされた。
そう。僕はこの質問が怖かった。聞きたくなかった。予感が緊張感をもたらした。なぜならその質問は、田端ミレンとの関係性がもつ歪さを浮き彫りにするから。心のどこかで身構えて、訊かないでくれと願っていた。
しかし彼女は訊いた。自然に、当たり前のように。線が私から伸びているかを。
言い換えれば、私は稲神ヨウに恋しているのかを。
「……」
わかっていたことだ。最初から。
告白されたその瞬間から。
追求するのが怖くて、でも応えずにはいられない。店内のクーラーにつられて内側から冷えていく感情が、吐き出すように自分を責め、言葉を押し出してしまう。ウソをつく気概もなくて、正直に告げてしまう。委ねてしまう。
「田端さんの線は……みえない。一本も」
「そう、ですか」
溶けた氷が、カランと鳴った。
僕らの空間は無言で満たされた。彼女の両手はひざの上に置かれ、グラスを握る僕の手は無慈悲に冷やされていく。夏に似つかわしくない、冷たい時間が流れた。
告白されたその瞬間にこそ、僕は質問するべきだった。『好きでもないのに付き合うの?』と。だが体質を隠している手前こちらから訊くわけにもいかず、過程をすっ飛ばして恋人になってしまった。自分のなかに生まれた些細な興味だけに従って、期待した。そのツケがまわってきたと考えれば、なんとか納得できた。
昨日の今日でこれだ。幸先が悪い、なんてものじゃない。恋のない恋人などという意味不明な状況から始まったのが、僕らだった。
だというのに。
「いえ、わかっていたことですが。こうハッキリと言われると、くるものがありますね」
平然と。空気を一蹴して、田端ミレンは言った。まるで気にしていない風に。
「大丈夫です、稲神さん」
「え……?」
「私たちは恋人です。そして、恋をしている」
恋心がないのに? そんなわかりきった疑問も野暮だと決めつけて、彼女は続けた。
「言い忘れていました。恋人となったからにはコレは囁いていおかなければいけません。そう、恋人らしく」
僕の混乱など、置いてけぼりで。
「好きですよ、稲神さん」
わからなかった。
田端ミレンという人が、わからなくなった。
元より不思議な出で立ちではあった。それでもすこしは彼女のことを知れたし、親近感もあった。でもそれが、一瞬で雲につつまれた。向けられた透明にちかい瞳と目が合ってしまい、返す言葉も霧散した。
そういえばテスト期間に入りましたが、と話題を転換させた田端さんに、僕は集中できないまま相槌を打ちはじめたのだった。訊きたいことはいくつかある。小一時間ほど議論もしたい。
けれどそれを言葉にする勇気が、このときの僕にはなかった。
◇◇◇
テストまえ二週間は、勉強に専念する期間として割り当てられている。部活動のほとんどが時間を短縮、もしくは休み。生徒には備えるための猶予が与えられる。
しかし、この時間的余裕をべつのものにあてる生徒は少なくない。
例えば、夏休みまえに恋人をつくってしまおうと奮起するもの。例えば、やりたい事もなくだらだらと過ごしてしまうもの。
学生の本分である勉強をサボってしまうのも珍しいことではない。こと期末テストにおいては顕著で、どうしても憂鬱に足を引っ張られる。
僕だって、テスト期間突入から二日目までは恋愛相談にのることで目を逸らしていたし、三日目には彼女をつくってしまった。テスト対策を本格的にはじめたのだって残り一週間とちょっと、というタイミングだ。しかも田端さんに言われなければ本腰を入れることはなかっただろう。
恋人らしく、一緒に勉強してみませんか?
そう提案され、放課後の図書室でテスト対策するようになって五日が過ぎていた。
休み明けの月曜日にテスト当日を控えた、金曜日。
今日も今日とて、放課後は勉強会をするのだと思っていた。田端さんは涼しい顔で、いつもの席に待っているのだろう、と。
しかし、一緒に対策ができる最後の機会だというのに、その日の勉強会はなくなった。代わりに待っていたのは、降霊術の儀式という、ちょっと変わった息抜きだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます