3
数秒前に生きていたものが、視線のさきではじけた。
血の気が失われるように全身が震えて、たった今身構えていた結果を受け入れられず、吐き気がこみ上げた。伸ばした手が掴んだ空白、かすれたノドが、彼女が生きていたことを知らしめ。そして残酷で救いようのない絶望に
彼女が越えていった柵に、目的を見失った僕の手が置かれた。膝にちからが入らなくなり、その場でうな垂れるように崩れ落ちた。強くまぶたを閉じた。
彼女の選択は、今感じているこの絶望よりも深かったのだろう。彼女をこの世界にとどめていた何かはしかし、力不足だったのだろう。ゆえに、命を投げ捨ててでも痛みから逃れた。僕には想像もつかないほどの葛藤があったに違いない。聞こえないだけで叫びをあげていたに違いない。知る
なんにせよ、この僕はつかめていない。失敗した。終わった。
自分の不甲斐なさに、とてつもない怒りを覚えた。死んでしまえと思った。彼女を追って空に飛び込め。さすれば罪滅ぼしにはなろう、と責めるもうひとりがいた。でもやっぱり死ぬ勇気はなくて、やるせないまま呻いた。
僕の見える世界が狂いはじめたのは、その一週間後のことだった。
◇◇◇
田端さんとの会話の続きは、放課後におとずれた。
昼とはまた別件の恋愛相談が予定にはいっていたのだが、なにやらその相手が休みだということで、めずらしく暇になった。そこへ満を持してやってきたのが、田端さんとの時間だった。
事情を知るなり、彼女は携帯に『放課後、お時間は大丈夫ですか?』と事務的なお誘いメッセージを送ってきた。昨日に引き続き放課後は田端さんと過ごすことになる。僕にとっての放課後といえば恋愛相談の時間だったのだが、田端ミレンという存在に塗り替えられていく不思議な感覚があった。それが良いことなのか、はたまた悪いことなのか。追求しようとして思考をやめ、教室を出た。
夏の気温が思考の妨げになったという理由もある。変な意地でクールビズにせず、長袖を二重にまくっていた僕は、さらにまくって気を紛らわした。
やってきたのは、昼に訪れた空き教室のとなり。図書室だ。『OPEN』の札を一瞥して戸を引く。
カウンターに座っているのは、田端さんではなかった。
本棚の方か、もしくは奥のテーブルスペースでページでもめくっているのだろうか。そう予想して彼女の姿を探す。生徒が数名いる図書室は物静かで、本を引き抜く音とバーコードを読み込む音だけが耳に届いた。どこかのクーラーが窓の向こうの気温を忘れさせる。
ひととおり見てまわっても田端さんの姿は見つけられなかった。水曜日の図書室に現れる幽霊という噂の真実には、『ただし昼休みだけ』という一言が足りないのだった。
あきらめて図書室を出た、そのとき。
「こんにちは」
高い気温のなか、壁に背を預けた田端ミレンの
「こんにちは。昼にも会ったけどね」
自然と、横に並ぶ。
今日はリュックを背負っている彼女と、ゆっくりめの歩調で外に出る。
靴を履き替えて感じる風は思いのほか涼しくて、拍子抜けだった。となりを歩く田端さんが昨日と異なる出で立ちのためか、妙な違和感を感じていたのもある。昨日とはひと味違う、でも歩き方は紛れもなく田端ミレンそのもの。自分のなかで勝手に創りあげられたイメージと少しだけズレる。
「……なにか?」
視線に気づいた田端さんが横目で問う。控えめな口調は、夏に対抗し体力を温存しているようにも、暑さを感じない体質のようにもみえる。
僕は薄く笑って応えた。
「いや。君がちゃんと授業に出ているのが意外だと思ったんだよ」
「それもまた、いわれのない噂話を信じた結果ですね」
「実を言うと、君が僕らとそう遠くないところにいる気がして、安心してる」
「私のクラスの方では噂もそこまで信じられていません。私が欠席するのも、出席日数を確認してのことです。幽霊と揶揄されるほどサボってはいません。ただ存在感がないだけです」
涼しげな横顔――気のせいかすこしだけ不満そう――を見て、僕はまた前方に視線をもどした。彼女にとっては周囲の評価などどうでもいいのだろう。そんな漠然とした感想だった。
「じゃあ、昨日はなんで本しか持っていなかったの?」
「引き返してきたからです」
「本を借りるために?」
「ええ。本を借りるために」
……不思議な行動パターンだ。
反復を聞きつつ。僕らの足先は駅を過ぎた。
昼の続きはカフェでしようということになり、一美坂から徒歩五分にあるおしゃれな建物に着く。店先のブラックボードを眺めてから通路を進むと、田端さんは当たり前のように現れた階段をのぼった。ベルの音とともに扉が開かれ、その奥にカフェらしい内装が飛び込んでくる。清潔感があって、モダンな雰囲気。ファッション誌のコーナーに雑貨もこぢんまりと売っているようで、僕にはあまり馴染みがない。田端さんがいなければ一生入らなかった気がする。
僕と田端さんはそれぞれレモネードを頼んで、窓際のカウンター席に陣取った。二階だからか、一美坂駅のロータリーが小さく見えた。
クーラーも効いていて、レモネードが身体を内側から冷やしてくれる。僕はここまで歩いてきた疲れを吐き出し、となりの田端さんは黙って爽やかな味を堪能していた。
程なくして、さっそく彼女が口をひらく。
「では、お昼の続きを」
どうぞ、と説明を促される。
もうちょっとこの時間を楽しむ気はないのか。もしかしてそこまでの興味を抱いてくれているのか。そんなことを思ったけれど、結局は追求しなかった。田端さんは特殊な血が流れている。降霊できる、一般とは言い難い血が。きっと彼女が僕に抱いているものは、親近感――その予感とでも言うべきか――なのだろう。
いつもどおり、僕のなかに身勝手な気づかいが生まれる。自分の意見、会話のペースなど知ったことではない。望まれているように、さっさと本題に入るのだ、と。
「想いの線が見える、って話だね」
ストローをまわし、カランと氷を鳴らしつつ。視線は窓の向こう。
「はい。あなたのことを教えてください」
同じく彼女も窓の自分を見つめたまま、頷いたのがわかった。
やってくる。奇妙で非現実的で、特別な空気が。
店内のささやかな音楽も、氷のぶつかる音も、環境の音が遠ざかっていく。カウンター席のイスに肩を並べた僕らは、さながらバーで語り合うかのように、なめらかに二人だけの世界へ没入していった。
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