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今日が水曜日であるということが、どういうことなのか。頭のなかは数学を乗り越えた達成感と紅蘭寺さんの相談のことでいっぱいで、すっぽりと抜け落ちていた。
水曜日にだけ、図書室のカウンターに現れる。
群れることなく神出鬼没な幽霊のようだと噂される少女、名を田端ミレン。
田端ミレンがどういう生徒で、どんな行動パターンをしているのか、この学校の生徒に聞き込みをすれば、三人目までにはこの情報が引きだせる。校内を平然と、けれど生徒の輪のすこしだけ外側を歩いている彼女こそ、『水曜日の図書室』の代名詞なのだ。
田端さんはまるで気にしていない様子で、あるいは昨日とおなじ調子で口を開いた。
「お二人で昼食ですか?」
「あ、うん。そんなところだよ」
クールビズのワイシャツから伸びた華奢な腕が、三冊の本をかかえていた。
恋人同士となった次の日に、空き教室で二人きりの密会。傍目にみればそれは仲の深い関係にうつる。こと田端さんの立場においては、僕は付き合いはじめた翌日に浮気した最低野郎にも捉えられる。
しかし、田端さんに動じた様子はない。僕らを目にしたその瞬間こそ反応はあったものの、二人でいることに疑問は抱いていないようだった。
それどころか、じっと僕の顔を見つめ、そしてとなりでぱちくりと驚いている紅蘭寺さんにも視線を投げ、すぐに結論を導き出す。
「なるほど。あなたのソレは、とどまるところを知りませんね」
ソレがなにを意味するのか、僕と田端さんの記憶には新しい。
僕の恋愛相談は、言ってしまえば身勝手な気づかいだ。断ることもできるはずが、どうしてかできない。
田端さんは昨日の帰り道で、僕のことを『察しが良すぎる』と評した。
彼女がそう言うのであればそうなのだろう。僕自身もどこかで感じていたことだ。誰かの恋心を察してしまった――じつはこの特異体質が原因なのだが――ならば、どうしても変な気づかいをしてしまうものなのだ。
例えば、ふいにクラスメイトの片想いを知ってしまったら、人はどうするだろう? ペアをつくりましょうなどという、学校生活でよくある状況になったら? あまった三人が、片想いしている誰かと、その片想いの相手と、僕だったなら?
僕は一歩うしろに下がる。
その片想いしている誰かがほとんど会話したことのない生徒だったとしても、些細な善意、そして罪悪感の回避のために引き下がる。
それと同じだ。
恋愛相談を受けた。その人の恋心を知ってしまった。ならもう、相談にのってあげるしかないのだ。犯人の秘密をにぎる重要人物の行動が不自然になるように、恋の秘密を知ってしまった僕はこう動いてしまう。言うなれば、その不自然さを暴き出している探偵が田端さんだろうか。
「放課後だけに飽き足らず昼までもとは。私からはかなり重症にみえますよ」
「は、はは……」
田端さんはこの一連の気づかい――即ち、身勝手な配慮を、『恩を仇で返される行為』と言っていた。
理解している。僕が日々のっている恋愛相談が、単に善意からくる行いではないことを。相談にのる側が損を被ることがあることを。
「恋愛初心者の私に言えたことではありませんが、控えたほうがよろしいかと」
「ごめん」
「せめて放課後だけになさってください」
ちいさく漏れたため息から、あきれていることがわかった。それだけに、僕はなおさら申し訳なく感じた。悪さをしているところを見つかった気分だった。
「あのー、私の相談は?」
となりで気まずそうにしていた紅蘭寺さんが、複雑な表情でそろりと手を挙げた。
◇◇◇
僕のいやな予感は的中した。
いやな予感というのは、厳密にはこの状況を意味する。
「(ねぇっ、なんでこの人もいんのよっ)」
ささやき声で、横から声がする。ついでに肘で二の腕をつつかれ、コホンとわざとらしい咳払いで黙らせた。
本来ならば向き合って座り相談にのるはずが、僕らの座る位置はとなり同士だった。なぜなら、意図せず観客が増えたから。
「こんにちは。私は田端ミレンといいます」
「えっ、あっはい! 私は紅蘭寺といいます、紅蘭寺ミサオ……クラスはこいつのとなりで、委員が一緒、好きな食べ物はグレープフルーツ……」
なぜ好きな食べ物。緊張しているらしい、なんだかおそるおそる観察するような態度だった。
しかしそこはさすがの紅蘭寺さん。僕ほど消極的なタイプではないためか、普段友人に接するときの雰囲気に近づき、顔色を窺うように踏み込んでいく。
「えっと、あの田端ミレンさん、ですよね? 水曜日の放課後に出るっていう、不登校の」
紅蘭寺さんのなかでは、田端さんは不登校の図書室通いというイメージで定着しているようだった。これも噂に尾びれがついてまわった結果ということらしい。
「よくご存知で」
田端さんは否定することもできたはず。でもしなかった。まるでお客様に対する礼儀だとでも言うように、微かに笑みを浮かべる。
「こ、こいつとはどういう……?」
一瞬、息が詰まった。
「恋人です」
しれっと明かされる。
訊くほうが訊く方なら、応える方も躊躇がない。僕は意外そうに向けられる視線から逃げるように顔を背ける。
「ほぇー……いたんだ」
「昨日私から申し込みました」
「マジか」
昨日の今日でコレとは……田端さんにはもうちょっとためらってほしかった。心の準備が必要なのだ、こういうことには。たとえば誰かに言うのも日をおいてからとか。
居たたまれなくなった僕は誤魔化すように本題にはいることにする。
「そ、それで。早速相談についてなんですけど。紅蘭寺さんはいいの? 田端さんがいるけど」
「全然いいよ。田端さんはなんというか……ちょっと
田端さんを一瞥する。すると、彼女なりに感謝を示しているのだろう、一度目を閉じた。
「わかった。で、相談の内容というのは?」
紅蘭寺さんが求めているもの。それは、具体的にはなんなのだろう。
もちろん白瀬カイ関係なのだろうが、聞きたいことはいくつもあるに違いない。彼の好きなタイプは? 今彼女はいる? 接近するにはどうすればいい? 等々。
果たして今回は、と答えを待つと、紅蘭寺さんは数秒考え込んでから口を開いた。
「わ、私……勝ち目、あると思う?」
なるほど。
「勝ち目というのは、単純に告白を承諾してもらえる確率ということ?」
「まぁ大まかに言えばそう。でも白瀬くんって顔がいいし、仲の深い人もたくさんいるみたいだから、私なんかが受け入れられる希望なんてあるのかな、って……」
「ふむ」
僕は顎に手を当てて考えた。
答えはすでに出ている。しかし、それを説明するための口実を探していた。相談というからには、それなりの理由を持って応えるのが筋だ。相談を受けた身として適当な返答などできない。だからこそ、真っ当に聞こえる理由を探す。
もし僕の特別な体質を理由に挙げてしまえば、少なくとも紅蘭寺さんからは「やばいやつだ」と白い目で見られかねない。
僕はなんの気無しに携帯をひらいた。紅蘭寺さんも使っているSNSを立ち上げ、登録された白瀬の会話履歴を遡る。
ちら、ととなりの席を窺うと、紅蘭寺さんが固唾を呑んで見ていた。一方の田端さんは、興味深そうに視線だけを僕に向けている。
「……紅蘭寺さん」
「なに?」
「白瀬と連絡をとったことは?」
「あ、あるよ。毎日ってほどじゃないけど、週に数回くらい」
まぁ友達としては普通か。白瀬は顔が広いから、色んな人とやりとりをしている。彼女がそこに含まれているのも別段おかしなことではない。
問題は、次だ。
「じゃあ、通話をかけてきたことは?」
「え? あー、まぁ……たまにあるけど」
「頻度は」
「日によるし、数えてるわけじゃない。でも多分、メッセージがほとんどなんじゃないかな。通話はあっても月に一回か二回」
「なら、紅蘭寺さんは付き合えるよ」
僕がさらっと告げると、紅蘭寺さんが目を見開いてきらきらさせた。好感触な答えに喜びを示す。
田端さんは少しだけ反応して、視線で根拠を問う。ご希望通り、ここからは説明の時間だ。
「いけると判断した理由はいくつかあるけど、決定的なのは、白瀬が紅蘭寺さんにかけた通話の頻度だ」
うんうんっ、と頷く彼女が興味深そうに聞き入る。対して僕は冷静に、田端さんも納得させるつもりで説明を続ける。
「まず、『相手から通話をかけてくるならそれは脈アリ』という考えが一般的にもあると思うんだけど、白瀬はそれに類さない。なぜならあいつは繋がりが多いから」
メッセージでやりとりすることが主体となった昨今、わざわざ通話をかける人は少数派だ。しかしその点、白瀬は通話をかけることも少なくない。つまり、単純に通話が多いから脈アリとはならない。今回のケースはその逆だ。
「白瀬はある程度仲良くなった友人に通話をかける。紅蘭寺さんしかり、僕しかりね。大勢いる友達と文字でやりとりする一方で、『この相手なら失礼にあたらない』と感じた一部には、通話で手短に話すようにしているんだと思う」
「な、なるほど。あんたもそのひとりってことね」
「一方の紅蘭寺さんは月に一、二回。この頻度から、あいつの中での君の立ち位置はふたつの可能性が考えられる」
指を二本立てる。
聞き手二人の視線が僕の手に注がれた。
「ひとつは、白瀬にとって紅蘭寺さんは仲のいい友達であり、心置きなく通話できる相手である場合。僕と同じだ」
「う、うん」
「もうひとつは、白瀬が密かに想っている相手の場合。通話している相手に紛れ込ませて、こっそり距離を縮めようとしている相手だ。紅蘭寺さんはふたつめに当たる」
メッセージを取り合う仲。しかし通話の頻度は僕や他の友人よりも圧倒的に少なめ。この状況から、通話を通して関係をつくろうとしている意図が読み取れる。
僕やその他含め、とくに想ってもいない友人には、それこそ無遠慮に通話をかけることだろう。積極的に、頻度も多く。でも紅蘭寺さんの場合は違う。
白瀬は紅蘭寺さんに通話はかけているが、迷惑にならない程度にとどめている節がある。
「通話で話しかけるほど心を許している反面、頻度は控えめ……つまり白瀬にとって君は、慎重に関係を築きたい相手ってことだ」
これは個人的な見解だけど、と付け加え、理由説明は終了。
語り終えると、紅蘭寺さんはもじもじと視線を泳がせはじめた。相談の結果を受けて、より意識してしまったようだ。
「だけど、これだけは気に留めておいてほしい」
「な、なに?」
「今の紅蘭寺さんは、おそらく候補なんだ。『好きになれる相手』というね。人は誰しも予備を求める。一番好きな相手かはわからないけど、今の君は告白をオーケーできる相手の一人に過ぎない。だから急いだ方がいいかも」
「それは……白瀬さんという方には他にも好きな人がいる、ということではないのですか?」
質問したのは田端さんだった。
「どうかな。ただ、学校という密集空間では、ひとりの相手だけに好意を抱くことは稀だと思ってる」
「生徒はみな複数の人を好きになると、そう言っているのですか?」
「そう捉えてもらってかまわない。誰かを好きになるきっかけは、性格や容姿など千差万別だ。複数人に興味を持ち、結ばれた方を本気で好きになる。よくあることだよ」
満足したのか、田端さんはそこで質問を切り上げた。最後に僕個人の意見で相談を締めることにする。
「逆を言えば、今がチャンスかもね。白瀬が他の気になる相手と距離を縮める前に迫ってしまえば、ゆくゆくは付き合うことができると思う。そしたら交際を通して相手の一番を目指せばいい。言い方が悪いけど、男はチョロいところがあるから付き合ってしまえばものにしやすい」
「へ、へぇ……チョロいんだ、男って」
「個人差はあるけどね。というところで、どうかな?」
話し終えると、田端さんはともかく、紅蘭寺さんが勢いよく頭を下げた。
机にぶつけそうなほど深くお礼をされる。
「まじでありがとう……! なんか勇気出た。最初はちょっと半信半疑だったけど、あんたに話してよかった」
「いや。まだ付き合えたわけじゃないし、僕というひとりの意見に過ぎないからさ。あまり重く受け止めないで、自分なりに頑張ればいいと思うよ」
その後、いくつか質問を受け、それに答え。昼時間の半分はあっという間に過ぎて、恋愛相談は幕を閉じた。
紅蘭寺さんは再三お礼を言うと、紺色の髪を揺らしながら教室に戻っていく。
空き教室に取り残されたのは、相談を終えた僕と田端さんだけになった。
僕は他に用もないし、お弁当を開いて食べはじめたのだが……。
「ええと、」
「……」
じ、と感情の読めない瞳で見つめられ、僕はたじろいだ。
何か訊きたいことでもあるのだろうか。それともお昼を恵んでもらいたいのだろうか。とりあえず、お弁当のおかずを一品フタに乗せて差し出してみる。
すると、田端さんはそれを口に運んでから切り出した。
「あなたは、」
「ん?」
「あなたは、心でも読めるのですか?」
……冗談を言っている訳ではなさそうだった。
「先程の考察が正しいのかはさておき、稲神さんは『付き合える』と断言までした。まるで心の内側を読んでいるように見えました」
首を振って即座に否定する。
僕は心なんて読めやしない。田端さんみたく特別な家系でもないし、そんな血は流れていない。
「僕が断言したのは、あくまで状況からの予測であって───」
「いいえ。あなたは確信をもって話していました。『個人的な見解』、『ひとりの意見に過ぎない』、『ただの予測』。あまりにも予防線を張りすぎている。あなたのそれは、導き出した答えに自信がないからではない。どちらかと言えば、なにかを煙に巻くような印象を受けます」
射抜くような視線が、僕を見る。冷静で透き通った瞳が、息を呑んだ自分を映していた。
一瞬の沈黙が生まれる。
ただでさえ静かな空き教室がシンとして、秒針の針と喧騒だけが耳に届いた。
咀嚼していた卵焼きを飲み込んで、僕は諦めて肩をすくめた。
「……降参だよ、田端さん」
有無を言わせない表情に、白旗をあげる。彼女は何かに気づいているらしい。こういうことに関しては勘が鋭い。
「あなたは一体、何が見えているのですか」
「んー、なんと言えばいいかな」
人に話すのはこれが初めてだ。自分の秘密を明かすのはとても怖い。親にだって言っていないのだから。
けれど不思議なことに、彼女にだけはすんなりと伝えられた。
きっと昨日、田端さんの秘密を知ってしまったからだろう。僕も秘密を明かさなければ、恋人として相応しくないと感じたのだ。彼女と恋愛をするという約束をした手前、こちらだけ手の内を晒さないのはアンフェアに思えた。
「僕はね、田端さん」
「はい」
静かに言葉を待つ彼女。箸をおいて、ゆっくりと音を紡ぐ自分。震えた唇から、ずっと胸の奥にしまい込んできた秘密がこぼれる。
恐怖の薄い感覚。それは田端さんの自宅で話したときと似ていた。
奇妙で非現実的で、特別な空気だった。
「想いの線が、見えるんだ」
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