第2章

Emotional footprints

1

 水曜日が嫌いだ。

 つらい一週間の折り返し地点とはいえ、気分の沈み具合は火曜日も水曜日もさほど変わらない。一週間のはじめ二日間と同等の憂鬱がおそい、朝の通学は歩く速度も重くなるし、こうして授業中でも俯きがちになってしまう。

 ぶっ続けで数学が二限。趣味が公式づくりなほどの数学大好き先生が、嬉々として長い問題を板書していく。ところどころ付け足される考え方のコツとやらは難解で、あっという間にブラックボードが埋まる。正直みてるだけで頭痛がする。

 僕は身の危険を感じ、ノートの空白に視線を落とした。トントンとペン先で叩いて、ちょっとだけ意識をそらす。

 憂鬱な水曜日の、気分の乗らない時間。頭に浮かんだのはやはり田端さんについてだった。

 昨日別れてから彼女とは話していない。交換した連絡先にもメッセージ履歴はなく、未だに恋人らしい空気はみせていなかった。当然『お昼をともにしませんか』などという展開にもならず、結果的に昼は別の用事を入れたのだ。それくらい、僕と彼女には接点がなかった。いきなり始まった交際もぎこちなかった。

 しかし、なんだ。

 クーラーの弱い教室にいると、あれは夢だったのではないかとさえ思えてくる。あの時間は奇妙で、非現実的で……特別だった。田端ミレンという生徒はおしとやかで、想像どおりの生活を送っていて、不思議な雰囲気を纏っている。生徒が幽霊みたいと珍しがるのも頷ける。

 田端さんが僕の恋人になった、という事実は、六時間の睡眠を経ても実感がなかった。一風変わった彼女に関する噂は、尾びれがついて蔓延している。容姿も相まって、男の目に止まることだって少なくない。それが耳に届くたびに彼女を高嶺の花のように考えていたが、まさか向こうから告白してくるなんて思いもしなかったのだ。しかも、それだけに飽きたらず家まで行って夕食を共にしたとなると……。帰宅して冷静になった自分が、混乱したのも変ではなかろう。

 果たして今日から、どう日常が変化するのだろう。この調子ならなにも変わらない日になりそうだけど。そもそもの話、田端さんはちゃんと登校してきているのだろうか。

 昼休みに突入したら確認しに行こうかとも思ったが、僕の予定はすでに埋まっていることを思い出し、また静かにうな垂れた。


 タイミングを見計らったように、午前の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。教壇で熱中する先生が頭をかきながら「今日はここまで」と口にした。

 二連続の数学。今日一日の山場を越えた。昼に突入した生徒たちは解放感に空気を弛緩させ、僕も例に漏れず背伸びをする。

 まだまだ今日の授業は残っている。けれど、数学の教科書を片付けていると気が抜けてしまう。それほど、この二時間は一週間のなかで嫌いな時間だったのだ。もちろん、同じように感じている生徒は少なくない。例えば、僕の斜め前の席に座る白瀬しらせカイなんかもそうだ。


「今日もまたコンビニのパンかい?」


 教室のあちこちで、机をくっつけたり他人のイスを借りたりと思い思いの昼食が開始されるなか、白瀬はイスだけを後方の僕のところまで持ってきて、あきれ顔をした。二連続の数学の疲れをほぐすように肩をまわしながら。

 白瀬とは、恋愛相談にのってから距離が近くなった。数ヶ月前のことだが、唐突にこいつは「モテるにはどうしたらいい?」と単純でありきたりすぎる悩みをぶつけてきたのだ。しかし、僕にそんなことわかるはずもない。いや、モテるために必要なことを想像はできるが、その裏付けを持っていなかった。なので、雑誌やネットの情報を調べ、自分なりの意見をアドバイスとして伝えた。別件の恋愛相談の機会には、女子生徒が「あの人のこういうところがステキなんですよぉ」と惚気のろけてきたこともあったので、その意見も参考にして答えた。

 そしたらどうだ。

 白瀬は人とのコミュニティを増やし、関係性をいくつも構築し、あっという間にクラス内でのカーストを高めたのだ。すべてはモテるために。依然として恋人なる存在はいないようだが、それも時間の問題だろうと思う。


「おまえいつもコンビニのパンとかおにぎりだけど、それ健康面大丈夫なのか?」

「野菜ジュースがあるよ」


 人気者になって、他にも昼を一緒にしたい生徒は山ほどいるだろうに、白瀬は相変わらず僕と食べようとしている。取り出したコンビニの袋をみて、「ふーん」と興味なさげに返事をしていた。そのわりに、白瀬が開けているのはコンビニの幕の内弁当。僕と同類だった。

 ばらんを取り去り、割り箸をカチカチ鳴らす白瀬を横目に、携帯をひらく。


「あれ、食わねぇの?」

「ごめん。今日は用事がある。食べるならほかと食べて」

「……え、なんだなんだ? 放課後ならともかく、昼に用事? 女か? 女なのか?」

「残念だけど、いつものだよ」

「なんだよつまんないな」


 恋愛相談であることに落胆した白瀬に、僕のため息がこぼれる。

 とそのとき、横から不満げな声が入り込んできた。


「悪かったわねつまんなくて」


 白瀬は箸の手をとめ、僕は携帯の画面から顔をあげた。

 となりのクラスの女子生徒、紅蘭寺こうらんじミサオが腰に手を当て、ふてくされるような顔で立っていた。

 待ち人来たり。しかしタイミングはあまりよくなかったようで、会話の空気が変わったのを肌で感じた。


「よ、よお紅蘭寺。まさかおまえが今回の相談客だなんてな。ちょっと驚いた」

「なにそれっ。もしかして私には無縁だとでも言いたいの?」

「いやぁ、そうなようなそうでないような……ははは」

「もぉ……」


 どこか煮え切らない受け答えに反応をかえす、結んだ髪が特徴的な紅蘭寺。しまいには、へらへら笑って誤魔化す白瀬とあきれる彼女という、どこにでもあるような光景ができあがった。

 白瀬カイは知人が多い。僕のところで昼を食べるこいつが、いろんな人と話す光景をいくつもみてきた。今みせられているこの会話だって、僕にとってはなじみ深いものだ。ただ、その相手が今回の恋愛相談の相手であるというだけで。


 僕は目を細めた。

 紅蘭寺ミサオ。白瀬。そしてその他のすべての人間。この教室に存在する生徒を俯瞰する。


「っ、」


 一気に押し寄せる疲れに、目頭を押さえた。早鐘はやがねを打つ心臓を落ち着けるつもりで目を閉じ、二人に変に思われないうちに平然を装う。

 僕は誤魔化すために席を立ち、廊下の方へ足先を向けた。


「じゃあ白瀬、申し訳ないけどそういうことだから」

「ああ、そういうことなら引き下がるよ。紅蘭寺も、あとで詳しく教えてな」

「言わないわよっ」



 ◇◇◇



 紅蘭寺さんの少し前を先導するように歩く。その間、会話は何も交わされなかった。時おり背後を振り返ると、彼女の視線はあらぬ方向へと向けられている。廊下を進むにつれ入り込む他教室の光景を流し目にみているようだった。だが特にこれといった興味はなさそう。

 二階、三階まで続く階段に差しかかると、僕はタイミングを見計らい切り出した。


「……白瀬?」

「えっ」


 一言告げた名前に、紅蘭寺さんの顔がキョトンとする。目を丸くして、ゆっくりめにのぼる僕をみる。そのまま数秒。言わんとしていることを理解して、ようやく頬が紅潮しはじめた。


「わ、わかんの?」

「わかる」


 紅蘭寺さんの第一印象にしては、ずいぶんと慎重な会話だった。自分がどんな人物像なのかを理解し、それを踏まえたうえで雰囲気を柔らかくしようと努力していた。夜中の十一時にいきなり『明日、相談のってよ』と連絡してきて、半ば強引に予定を決めつけたヤツと同一人物とは思えない。委員の集会で僕を相手にするときと比べれば、トゲのない態度だったのはまず間違いない。

 この階段にたどり着くまで僕と距離を置いたのは、念のため白瀬の目を気にしていたのだろう。通りかかった教室に興味を持っていなかったし、なにより───線が見えた。


「おそらく、僕でなくとも紅蘭寺さんの好意には気づける。昨夜の僕に対する態度と比較すれば、一目瞭然と言ってもいい」

「ま、マジか……」

「あいつ本人がそれに気づいているかは別として、君は雰囲気に漏れ出ている」


 白瀬の前でだけあのしおらしさが出るのか、それは僕も知らない。けれど、少なくともこのギャップを見せる相手があの場にいたのは確かである。特に、白瀬と話しているときは決定的だった。好きな相手に向けられる独特の空気を感じ取った。柔らかな物腰を演出していかにもな空気をつくりだすし、落ち着かない右手は服のシワを伸ばそうとするし、最終的には行き場を失い、自身の左腕に添えていた。しかもときおりりきんでいた。彼女は恋愛の経験値が浅い方なのか、そういった気配を隠し切れていない。

 さしずめ、今回の相談内容は『どうやって距離を縮めたらいい?』とか『稲神から見て可能性ある?』といったたぐいであろう。

 そんなことを考えつつ、相談場所に選んだ空き教室に着く。しかし、僕と紅蘭寺さんは揃って足を止めた。

 他人に聞かれないようにと、人気ひとけのすくない場所を選んだのがいけなかった。

 視界に飛び込んできた人影を、ぽかんと見つめてしまう。


「……昨日ぶりですね、稲神さん」


 ちょうどとなりの図書室から出てきた田端さんが、すこしだけ眉を上げて僕らをみた。

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