5

 自動販売機の眩しさに目を細め、コーヒーのボタンを押す。重さを感じさせる缶が下に落とされ、僕はかがんでそれを取り出した。


 田端さん宅で夕食をいただいたあと、僕は早々に別れを告げ立ち去った。あまり長居しても迷惑だろうし、なにより空気が慣れなかった。自分の家でテレビを見ながら食事するのとは訳がちがう。だだっ広い部屋で、大きい長テーブルを挟み向かい合っての食事。テレビはもちろん置いておらず、部屋のすみにはエプロン姿の叔母さんが待機。田端さんは寡黙なため食器の音だけが響いた。

 味は最高だった。ここは高級ホテルかと思うくらいに感動した。だがそれ以上に気を遣う時間であったのだ。

 そして今。

 僕は大側井駅まえで、ようやく肺の中の空気を吐き出している。親しみある缶コーヒーの苦さに安心感をおぼえながら、凝りをほぐすように肩をまわしていた。

 こんなに緊張したのは久しぶりだ。なんてことない平日が、田端さんに見つかったことで別世界のような時間になってしまった。しかもこの僕に恋人もできたという驚きの展開。明日以降、平凡な日常が劇的に変わる予感がある。

 嬉しいのかそうでないのか、複雑な心境で自動販売機の光を見つめる。人の乗り降りがない時間帯であることをいいことに、呆然としつつ田端さんの言葉を反芻はんすうした。


「人の内面に敏感、か」


 自嘲気味な声がもれる。

 顔色をうかがい、人目を気にするうちに、いつからか他人の内面を捉えやすくなっていた。こういった人間は案外おおい。この世の中に珍しいことでもないのだ。

 だが僕のこれは違う。ちょっと探せばみつかるような、観察眼に優れている人間とは言い難い。

 そう。唐突にはやってきた。

 人の内面を読む。そういった行為がいくところまでいったのか、それとも、僕の頭が単純に壊れてしまったのか。

 どちらにせよ。田端さんの価値観に田端さんの血が作用したように、僕には僕の特別なものが備わったのだ。その証拠に。


 ポーン……。


『――まもなく、下り列車が参ります。黄色い線の内側まで、お下がりください』


 がさついた音声が列車の合図を流してくる。人気のない駅まえのロータリーで、僕は横目をそちらに向けた。

 夜闇に佇む一軒家がごとく電灯をもらす改札口。その横に備え付けられた待合室の扉をひらき、女性二人が通っていった。今なら待合室は無人。次の上り列車が来るまではそこで待つことができる。

 しかし、どうしてかその場を動く気にはならなかった。

 ここまで暗くなればそう暑くもなく、待合室のクーラーの恩恵にあずかる必要はないし。下り列車がきたということは上り列車も入れ違いにやってくるだろうし。とくに大きな理由はないが、このまま自動販売機のまえに居たかった。


 どうでもいい葛藤をしているうちに、予告された下り列車が空気の音を吐き出しながら停車した。ぞろぞろと人が降りてきて、改札口から流れ出てくる。


 部活帰りの学生はほとんど居らず、降りてきたのは年齢が上の人ばかり。雑談しながら北側の道へ歩いていく者、田端さん宅がある東側へ行く者もいれば、駐輪場へと流れていく者もいる。昼間と人数こそ違えど、人々の行動パターンは同じ。


 カコン、と自動販売機となりのゴミ箱に缶を捨てる。

 背後に人の流れを感じながら、僕はそちらを振り返る。きたる衝撃に気を引き締めて。



 そして――視界に、乱雑な線が弾けた。



「っ、く」


 捉えた自身の目がズキリと痛み、耐えるように顔をしかめる。後ろに一歩よろめき、自動販売機にぶつかりそうなところで踏みとどまる。これだけの人数を見れば、さすがに感じるめまい、息ぐるしさ。だけどすぐにその苦痛に慣れた僕は、見通すように世界を俯瞰ふかんした。


 ある線は人と人を繋ぎ。

 ある線は主を探すように虚空に伸びる。

 白く、細く、繊細な線のほとんどは、各々の胸のあたりから腕の長さほどの軌跡を描き。その先からは薄くなって空気にまぎれている。人間の動きに合わせて目まぐるしく線が絡み合い、重なり合い。さらには夜闇に光る街の明かりまでもが散りばめられ、レンズを通さず万華鏡を見ているかのような感覚に陥る。

 自分の中に染みついた異端の証。田端ミレンが指摘した『察しが良すぎる』という人間性の正体。

 いつしか僕は苦痛すらも忘れ、見開いた目で直視していた。普通の自分を手放してしまったことに恐怖する一方で、輝きに取り憑かれ目をそらすことができなくなる。瞬きをせず、ただただ、世界を間違った目で見てしまう。


「――、」


 音が遠くなっていく。

 疎外感に呑まれていく。

 乱反射する風景に溶け、人の線が彩りと化す。



 ああ。


 聞こえる。

 彼女が僕に向けて放つ、甘美な響きが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る