第1章
You say hello
1
「今日はありがとうっ!
爽やかに笑顔を振りまき、かばんを肩にかけるクラスメイトの女子。「じゃっ」と嬉しそうに走り去る彼女の背中が見えなくなるまで見つめ、僕はため息をついた。
三十分間で溜まった疲れを吐き出し、ひとりの教室で帰り支度をはじめる。
黒板の七月二十一日の文字は、すでに消されていた。
もうあと二週間もすれば、この高校も夏休みへと突入する。生徒たちの心境はカオスに包まれていることだろう。
休みが近づくにつれ高まる期待。反して、待ち受けるテストに対する憂鬱。
夏という開放的な季節だ。だれかと予定を組んでは浮かれる気分に、一抹の不安がよぎる。そんな生徒たちを煽るように、校内は夏の熱気に包まれていた。廊下に出るとそれは顕著であり、開け放たれた窓からは微風が流れ込むが、それでも暑さは軽減されない。
教室うしろの扉を出て、僕は窓にのぞく青空を眺めた。
放課後ともなれば、昼よりは優しい気温。けれど身体には熱がこもっているのか、あまり変化は感じない。左右に目を向けると、生徒は遅れて去る者、そして教室に残り談笑する者に二分されている。廊下を歩く背中はまばらで、となりの教室からは声が漏れ出ている。
僕のように呆然と佇む生徒は他にいない。もしだれかが注目すれば、まるで熱中症かのように見られるだろう。
いらぬ心配をさせてしまわないよう、僕も昇降口へ向かった。
歩きながら、ワイシャツの首元をぱたぱたとあおぐ。
日に日に強くなっていく暑さに若干の苛立ちを覚え、意識をそらすつもりで
「……なにが恋愛相談だ」
やがて夕陽の色に変わるであろう空は、窓の遠くから僕をあざ笑っているように感じられた。
恋愛などという複雑なものに対して、生徒一個人のアドバイスなど役に立たないだろう。異性と付き合った経験のない僕などもってのほか。信憑性なんて皆無、聞いたところで裏付けの証明がないソレはノイズでしかない。むしろ関係を悪化させる可能性だってある。なのに、僕に恋愛相談を持ちかける生徒はあとを絶たない。
理解不能だ。
……恋愛相談を僕にさせるのは、お
断るのは容易。一言、「恋人いたことないんだ」と告げればいい。だけど些細な、そして無意味な良心がそれを許さない。
例えば僕に恋人がいれば、彼女に適切なアドバイスができただろうか?
例えば僕がモテていれば、彼に女性の落とし方を伝授できていただろうか?
答えは否。
裏付けがあったとしても、もたらされる言葉に中身はない。どこまでいっても妄想の延長線であって、相談を経て良い結果に転んだとしても、それは偶然の産物にすぎない。
僕は決して恋愛相談などには向いていない。適任ではない。
そう、思っていた――
「私と付き合って欲しい」
暗い灰色の髪をした少女が、挨拶代わりのように口にした。
今日も今日とて、善意で放課後の恋愛相談をしてきた僕。外靴を履いて、昇降口の扉をくぐって約十二歩。ちょうど校舎の陰から出たところで、状況がつかめず硬直する。
風に混じって届いた控えめな気配。背後を振り返り、次に投げかけられた言葉がソレだった。
いつのまにか立っていた声の主が、真っ直ぐ僕を見つめる。冗談で言っている風には見えない。だけど、感情を露わにするほど本気にも見えない。
目を見張った。
居るはずのない影法師に重なって、次の瞬間には元の姿の彼女がいて、途切れ途切れに息が漏れた。すぐに我に返り、息を整える。そして幻覚を投げ捨てるように意識する。
ゆっくりと、感情のない瞳に訊いた。冷静を装って。
「えっと……僕?」
「そうです」
校舎の陰にまぎれ、薄明の色を覗かせる佇まい。夏にしては場違いにも感じる空気。通り過ぎたひやりとした感覚のせいで、さっきまでウンザリしていた熱も相対しているこのときだけは忘れられた。遅れてやってきた衝撃も、現実感がなかった。
「こんにちは。稲神ヨウ」
それを知る由もなく、ちいさく開かれた口が自己紹介する。さきほど聞いた言葉の意味を再確認させるように、抑揚を抑えて。
「私の名前は
立ち尽くした僕の足元を、生ぬるい夏の風が吹き抜けた。
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