第二幕
第21話 不幸な玉子
襲麻は案内板を見ながら、どういうルートで回るか考え――、
結果、時計回りに一階ずつ見て行くことにした。
他に良い案があるわけでもなし。他の案を考えるくらいなら、動いた方が時間を有効に使える。思いついたまま、襲麻は足を動かした。
「一階ずつ案内していくか。省く所は省いて行くけど、別に構わないよな?」
案内をしてもらう立場からすれば、あまり注文はしたくない。
気を遣って、巡も玉子も「構わない」と言った。
花は学園内のどこになにがあるのか、知っているので、襲麻の声を右から左へ聞き流す。
校長室、職員室、理科室に、視聴覚室。
食堂や中庭など、必要最低限の場所を取捨選択して案内しているのにもかかわらず、お昼休みの間に全てを案内することはできなかった。
襲麻は計画のミスを気にしているのか、目をバッテンにしたように悔しがっていた。
「そんなにお気になさらずとも、放課後もあるのでいいですよ」
なんともさらっと言う玉子だが、
「さり気なく、しかもこちらの意思を聞くまでもなく、放課後の予定を入れるとは。
なかなか良い度胸を持つ後輩だな」
「へ? いや、そういうわけじゃないですごめんなさいですっ! 嫌ならいいんですっ!
玉子は自由気ままに校内を闊歩して、自己流に学園内の知識を頭にインプットしますので!」
落ち着きのない玉子のことだ、校内を勝手に歩き、興味があるものには片っ端から首を突っ込んで行きそうだ……、そのまま自分がどこにいるのか分からず、学園の中で迷子――というのがあり得そうな気がする。
……本当にありそうで、否定できないのが恐いところだ。
襲麻は考える。
今日は五時間の授業で、いつもよりは時間がある。もし、ここで玉子の誘いを断ったとしても、特にすることも用事もない。明日、またお昼休みに案内するというのも面倒だ。
だとしたら、放課後に案内してしまった方が楽だろう。
そう結論付けた襲麻は、
「いいよ。放課後に案内してもさ。
時間はたっぷりあるんだ。ゆっくりできるし、分かりやすいだろ」
「そうですかっ、ありがとうございますっ!」
ぺこりとお辞儀をする玉子。
すると五時間目が始まるチャイムが鳴った。
「……あっ! 遅刻しちゃうので、もう行きますね!」
と言って玉子は駆け出したが、
――どてんっ、という音が聞こえてきそうなほど、勢い良く前のめりにすっ転んでいた。
本当に小さな子供のようだ。
年中無休で監視していないと安心できない。
厄介ごとなどないのに、玉子は勝手に厄介ごとを呼び寄せてしまっているような……、
そんな不幸を持っていそうな気がする。
立ち上がった玉子は、笑って襲麻たちにもう一度ぺこりとお辞儀をした。早く行けよと言いたかったが、もうチャイムは鳴っているので、意味はないだろう。そこのところ、玉子は分かっているのだろうか。……天然というか、ボケているというか、アホとしか思えなかった。
教室に向かう玉子は後ろ向きで走っていて、さらに言えば、襲麻たちに手を振っている。
「また放課後っ!」という意思は伝わっている。
伝わっているので、そろそろ前を向いて走ってほしい……。
「わぁっ!?」
「あ」
……玉子が壁に激突した。
飾ってあった額縁が落ちてきて、玉子の脳天に直撃する。
誰が見ても痛そうと答える状況で、しかし玉子は手を振り続けていた。
心配だ。心配過ぎて、もうどうでもいいと感じてしまった。
玉子にはこれから先、不幸なことが起こるだろう。でも、玉子ならどんなことでも乗り越えられる気がしてきた。もちろん、確信はない。テキトーでしかないのだが――、
曲がり角を曲がって、遂に玉子の姿が見えなくなった。
ほっとしたような、さらに心配が増したような……、気にしても仕方ない。
襲麻たちも授業を受けるために教室に向かおうとしたところで、巡が気づく。
自分たちも玉子と同じように、遅刻なのではないだろうか? ――と。
「ああ、それについては安心だよ。次の授業はたぶん自習。遅れても問題はない」
巡の質問に、襲麻は一瞬の間も作らずに答えた。
咄嗟に考えた言い訳などではなく、前もって知っていたような様子。
知っていたなら先に言っておいてほしいものだが、それをいま言っても仕方ない。
今更、気づく巡も悪いのだ。
「なんでそんなことを知ってるのよ。普通、自習って急遽決まるものじゃないの?
まさかなんとなくとか、勘とか、そういうことで?」
「違う違う。職員室に案内した時に、五時間目の先生が見当たらなかったからだよ。先生はだいたい、職員室がある一階のどこかにいるもんだし。お昼時に違う階の別の場所にいることはまずない。いないということは、出張とかお客の相手とか、普通じゃない時だ。
そういう用事は五時間目に影響が出やすい。遅れる、というのが一番多いかな。
さすがに一時間の全てが中止というのは滅多にないだろうけどな」
すらすらと語る襲麻。
よく回る口に、巡は感心してしまった。
もしその推理が間違っていたとしても、納得するには充分だ。
「……そうだとして、授業開始からもう十分近くも経ってるけど。
さすがに先生が遅れてるって言っても、もう戻ってるんじゃあ……」
花の指摘に、二人は答えられなかった。その可能性は充分にある。
三人は急いで自分たちの教室まで走っていった。
途中で、玉子のような不幸が起こることはなく、
やはり玉子は自分で不幸を引き寄せているんじゃないか? と本気で考えてみる三人だった。
―― ――
慌てたのが幸いしたのか、教室の黒板には大きく『自習』と書いてあった。
なんとかセーフだったようだ。
安堵する三人だが、それから先生は、いつまで経っても、教室に現れることはなかった。
そして、結局、遂に最後までくることなく、五時間目終了のチャイムが鳴る。
つまり、五時間目をまるまるサボっても特に問題はなかったということだ。こうなると、さっきの全力ダッシュはなんだったのか、無駄な努力だったのか、と言いたくなってしまう。
しかし言わない。言ったら負けだ。そう勝手に自分ルールを作ってみた――。
「ふう、やっぱり学校が変わると勉強もきついなあ」
「そんなに難しいのか? 嫌味じゃないけど、やっぱり一年も通ってると、どうにも慣れてるからな。巡の気持ちは悪いけど分からない」
巡の、誰に言ったのか分からないような呟きに、襲麻が返した。
「そりゃ、分かったら私だって嫌だけどさ。
うーん、そりゃ難しいかな。以前にいた学校より、レベルが二つくらい違うんだから」
このレベルの勉強を、今はもういないが壱加が受けていたというのは正直、信じられない。
「……退学したけど、それなりに勉強にはついていけてた、ということよね。
なんだか、ショックだよ」
「一つ言っておくと、壱加は別に馬鹿じゃないからな? 花とどっこいどっこいくらいだ」
「え?」と巡は素で驚いてしまった。
壱加の馬鹿力のイメージのせいか、力だけ強くて頭が弱いという印象が強い。
しかし、抱いた印象とは違い、頭の方もなかなかに強いと襲麻は言った。
「あいつだってやればできる。ただやらないだけなんだよ。
あいつは授業中、黒板を眺めているだけでテストでは九〇点台を叩き出してるしな」
唖然とした。
そもそも知り合った三人はスペックが高過ぎる。
自分なんて、足元にも及ばないと思っていたが、
「……なによ?」
巡が花をじっと見ていたので、花は気になって声をかけた。
実際は、巡の視線は花ではなく、
花の机から飛び出している過去に受けたテストの答案用紙に向いていた。
点数をじっと見て、そして安堵する。
「……ふふん」
「ねぇ、ちょっと待って、今の笑いはすごく腹が立つんだけど!」
花が立ち上がり、巡に詰め寄った。
顔と顔が接近する。鋭い睨みが巡を突き刺していた。
巡はそれをさらっと受け流し、曖昧に笑っておく。
それで場が収まるわけもなく、
「なんで笑ったの、ねぇ!?」と、「まぁまぁ」という会話がしばらく続いていた。
どちらがどっちか、なんて言わなくてもいいだろう。
喧嘩を止めるでもなく、火に油を注ぐでもなく眺めていた襲麻は、ふと花の机を覗き込み、巡が見たであろう答案用紙を見た。そして納得した。
『現代文――七十七点』
微妙だった。
期待が高過ぎたために低く見えてしまうが、決して低くはない。だからと言って高くもないが。それでも馬鹿にされるような点数ではないはずだ。
巡も馬鹿にしたのではないだろう。しかしあの笑い方では勘違いされても仕方ない。
それに、あれは『思わず出ちゃった』という反応だ。
思わず出ちゃった反応というのは、
間違いなく本音だということに、巡は気づいているのだろうか。
意外な一面を発見しながら過ごしていると、ホームルームが始まった。
担任のテキトーな話を受け流し、帰りの挨拶。
今日も一日が終わったなあ、と心休まる暇もなく、
心配の中心——、桃色のおかっぱ後輩が、教室の外に待機していた。
カバンを体の前でぶら下げながら、背を壁に預けていた。
すると、出てくる襲麻たちに気づいて、玉子が笑顔で近寄ってくる。
まるで子犬のようだ。母性本能をくすぐられる。
一年生が二年生の教室の前にいるなど珍しい。からかうことを生きがいとしている襲麻のクラスメイトの男子生徒は、玉子を見て「おーい、辰実がもう後輩に手を出してやがるぜーっ!」と大声で叫んでいた。
それに乗る者や、無視してさっさと帰る者、興味もなくただ眺めている者と個人差はあれど、全員が彼女のことを、ちらりとは見たはずだろう。
襲麻としては、別にどう思われようが興味はない。
誤解を解くというのも面倒くさいので、相手にしないことにしたのだが、
「……いま、言ったのは誰? これから暇だからたっぷりと調教してあげるけど?」
「やめとけ、花。すぐ熱くなるな。これくらいどうってことないから」
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