第12話 受け入れ難い日常
巡は思い出す。
さっき見た、団地の三階から五階までを突き破っていた、大きな穴。
その穴の形が、丸ではなく、人の拳の形をしていることを。
そして、それを思い出せたということは、
目の前の光景は、それを思い出させるほどに、インパクトが強かった、ということになる。
ビルのちょうど真ん中を、思いきり殴ったような痕。
拳の形が刻まれている。
団地の時のように、突き破っていて、
向こう側の景色が見えているということはなかったが、それでもぽかんとしてしまう。
よくもまあ、これで倒れなかったものだと、建物を賞賛したいくらいだった。
奇跡的、とでも言うべきだ。
ビルはくの字に傾いていて、それでも、踏ん張っているのか、耐えていた。
軽く小突けば倒れてしまいそうに不安定だ。でも、倒れない。
ビルの一棟に気を取られていたために気づかなかったが、
周りを見れば、傷痕だらけだった。
この光景に心当たりがあるとすれば、一つしかない。
――正常じゃないならば、その逆……、異常しか考えられなかった。
「まさか……敵?」
敵とは、一体誰だ?
考えて、考えて、出てきた推測。
――それは結構、的を射ているのかもしれなかった。
「……確か、仕事が、殺伐としている『裏』に関係してるって、言ってたわよね。
しかも組織。
……狙われてるとか、なんとか。
物騒なことばっかり抱えてるじゃない、あの家は!」
そんな家にお世話になることになってしまった自分の運は、もう既に尽きているのかもしれない。がっくりとうなだれるが、『敵』――という推測が出てきてしまった以上、なんの対策もしないというのは、不安で仕方ない。せめて警戒はしておかなければ。
そう思い、辺りを見回す。
特に異変はない。ひとまずは安心だ。
ドキドキ、とテンポ良く弾む心臓を手で押さえながら、踏み出そうとしたところで、
ゴッッ! と、地面が震えるほどの衝撃。
そして耳の奥に直接、響くような音が聞こえてきた。
反射的に身を屈め、両耳を塞いで防御に徹する。
その時だった。運が悪かった、と言うべきか。
ピシッ、と――巡のこめかみに、痛みが走る。
巡の『現在』を塗り潰すように上書きされて見えたものは、いつもの『あれ』だった。
――少年だった。
少年が、成人男性らしき人達が大量に倒れている中で、両手を広げて、立っていた。
手にはべっとりと、赤いものが付着している。
勘違いしそうになるが、血ではない。
液体ではなく、物体。それは、人肉だった――
「――はっ」
意識が朦朧とする中、巡が正気を取り戻す。
今のは『未来』が見えた、ということだ。
今はまだ起こっていないことだが、しかし、いずれ起こることである。
なぜだか、この街に来てから未来を見る頻度が多くなった気がするが……、偶然なのか?
しかし、まだ言っても、二回だ。怪しむ根拠としては弱いだろう。
巡はきょろきょろと周りを見渡した。
さっきの未来の出来事と、この場所の傷跡。
――関係があるのではないだろうか?
「……さっきの映像の中にあった建物……、もしかして、あれ?」
確定、と言うまでは、自信がない。
でも、そうとしか考えられなかった。
幸い、近い場所にある。
歩けばそれなりの時間がかかるが、走ればすぐだ。
巡は駆け出した。
こめかみを襲った痛みや、
新しい街に来た不安などが溜まって出た疲れとか、
そういうものを吹き飛ばして、巡は走った。
目的の場所まであと少し。
目印の建物の姿を見逃さないようにしながら、角を曲がって、曲がって、曲がる。
――その先で見たものに、なにかを言う事ができなかった。
驚いたのではなく、見たものに絶望したのでもなく、同じ過ぎたためだ。
自分が見た未来の光景と、同じ過ぎたために、なにも感じなかった。
まるで、そこにぽつんと置いてある消しゴムを、なんとなく眺めているような。
そんな程度でしかなかった。
普通ならば抱くであろう感情が正しく作動したのは、
その光景を見てから、少し経ってから、だった。
「あ……い、や……なんっ……これ」
成人男性が十人以上、地面に倒れ、血を流していた。
意識はもうないのだろう、ピクリとも動かない。
中には目を背けたくなる状態の男性もいて――、
無意識に一歩進んで、がっ、と、つま先がなにかに当たった。
柔らかい感触、人の手だった。
一度、見たはずなのに、一度、体験したことなのに。
巡は取り乱しこそしないものの、正常でいることができなかった。
一歩目を踏み出した足を、さらに二歩目、三歩目と踏み出したら――、その後に踏むべき場所には一畳……二畳でも収まらないような、血の池ができていた。
その池の中心に立っている少年――、
彼は全体的に金色で、毛先だけが黒く染まっている髪をしていた。
……ガラが悪いとか、マイナスなイメージが付きやすい彼だが、そんなものはまだ、生温い。
巡が一目見た時に感じたこと、それはただ一つしかなかった。
「いかれてるわよ……なんなのよ、これ――、
人間に、こんなことができるって言うの……?」
怪物。モンスター。
そして、異常だ。――そう言うのだろう。
間違ってはいない。彼は異常者なのだから。
「あ?」と巡の気配に気づいたのか、彼が顔を真横に向けた。
その目はしっかりと、一直線に巡へ向けられている。
抉るように、巡を視線で射抜く。
「なんだ、お前。まさか、コイツらの仲間ってわけじゃねぇだろ?
仲間だとしたら――別になにかが変わるわけでもねぇけどな」
「……コイツらって?」
絞り出したように言う巡の言葉に、
「虎組」と、彼は迷いなくそう言った。
そこで、聞き覚えがある単語だと気づく。
――『
確か、さっき襲撃してきた敵の、上にいる組織だったような。
虎組の下部組織が襲撃犯なのだから、そこから導き出したわけだ。
彼は虎組を叩き潰していた。
つまり、彼は虎組ではない、ということだと言える。
仲間割れの可能性もあるが、それは別として。
虎組は敵である、と巡は認識している。
敵の敵は味方と言うが、今この状況でその言葉を信用して彼に近づいていき、フレンドリーに会話ができる自信など、あるはずもない。
敵の敵は、やはり敵だろう。
巡は身構え、
彼は自分の足元に転がっていた虎組の一人の腕を、踏みつけた。
なんの意図があったのか知らないが、さらに力を入れ――、ゴキッ、という音がした。
骨が砕けた音だった。
「な、にを――!」
「あん? ああ、ただのついでだ。別に、気絶してるから、攻撃したところで目覚めやしねぇだろ。もしかしたら死んでるかもな。だったらコイツは人間じゃなくて、サンドバッグに近い。
そっちの方が、良い存在価値じゃねえか」
それもそうだな、と納得できるはずがない。
やはりコイツは敵。
現段階で、虎組よりも脅威だと感じるほどには、危険な相手だ。
「虎組をこそこそと探るってのは、やっぱりつまんねぇわけだよ。
だからこそ、こうして直接、ぶっ飛ばしてやったんだが――それでもコイツらは虎組の中で、下っ端だったってわけか。まぁ、そうだろうな。分かっちゃいるんだが……、
……オレをいいように使いやがって。――なぁ、襲麻」
最後の一言が、――巡の中に響き渡る。
それと同時、彼が思い切り、建物を殴った。
フルスイングだ。
拳が建物にめり込んだ程度だと勝手な予想をしていたが、それを越える。
予想を越えて、さらに、越える。
轟音と共に、五階建ての建物が、吹き飛んだ。
積み木のように崩れたのではなく、野球のホームランのように、飛んでいった――。
そこで今まで見てきた街中の傷跡――、
それがこの少年の仕業だということに気づく。
この怪力、そして拳の形……、確信を得ることができた。
確信を得たことと、建物が簡単に吹き飛んだという事実に、目を見開き、驚く巡の後ろから、ぽん、と、肩を叩く者がいた。
巡が後ろを振り向く前に、叩いた本人が前に出る。
「よう。いいように使いやがって、と言うけど、そりゃあそうだろう。
だってお前のことを、俺はいいように使ったんだぜ? 壱加」
襲麻が現れた。
そして挑発するように、言葉を吐き出していた。
金髪で、毛先だけが黒い少年――、壱加は、明らかに不機嫌だ。
襲麻はそんな壱加の表情を見て、ご機嫌だった。
襲麻と壱加。
二人の気分は、まったく違う。
だが、これからなにをするのかなんて、本人達だけでなく、他人にも、最も近くにいる巡にも分かりそうなものだった。
敵意を向ける者、それを受け流す者。
命懸けの、殺し合いであり、鬼ごっこが始まろうとしていた。
二人は仲間ではないのだろうか。
二人の会話、そして交わされる殺意は、冗談には思えない。
目が、表情が、本気にしか見えなかった。
戸惑う巡は、二人を止めるため、
仲直りのための仲介役として飛び出したが、すぐに思い知ることになる。
自分では止めることも、なにかを口出すことも、できそうにはない。
「どけよ、邪魔だ」
「悪いな巡、どうにもできないよ」
壱加と襲麻から同時に言われ、
仲介のために侵入した二人の射程範囲内から出て行くことしか、巡はできなかった。
なにも言えない。口が痙攣したように、ピクピクと震えており、どうにもできなかったのだ。
なんとか動いた足を使って、距離を取る。
情けないが、それしかできなかった、としか言いようがない。
「安心していいわよ。あたしも、今の状況じゃ同じようなものだから」
後ろから聞こえた声――、
振り向けばそこには、花がいた。
襲麻がいるということは、おまけのように花も……、と予想できたはずだが、
巡は冷静ではなかったのだろう。花の登場に素直に驚いていた。
「っ、いいの!? あの二人って、仲間なんじゃないの!? 家の二階を見たら、壱加って書いてあるプレートがかけられた部屋があった! 一緒に住んでるんじゃないの!?
なのに、なんで殺し合いが始まろうとしているのよ!?」
ふー、ふー、と息を荒げる巡。
「なにをそんなに興奮してるのよ……、なにも心配いらないわよ。
いつもの喧嘩。あいつら二人にとっては、日常でしかないのよ」
花にとっては、その程度だろう。
しかし巡にとっては、『いつもの日常』で片づけられるものではない。
二人の目は、本気なのだ。
纏う殺気も、やってやろうという意志も。
相手を叩き潰す、消してやる――全て、殺しに繋がっている。
そんなことを、簡単にやらせたくはない。
これがもし、冗談だとしても、だ。
記憶が薄くなっている、過去の出来事でも、
その面に関しては、しっかりと記憶されているのだから。
「殺しなんて、ダメ……っ、
これ以上、私の目の前で、そんなことをするんじゃないわよッ!」
自分にとって、他人や、そこまで面識のない人が死んでしまうというのならば、酷い言い方だが、まだなんとかがまんできた。
でも、友達や仲間が死ぬというのは、あの頃を思い出してしまって、がまんできなかった。
巡の叫び――、皮肉にも、それが合図になった。
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