第2話 ラインナップ その2

 鴉野は研究施設――、非常用の出口まで繋がる通路を走る。

 今は全てを捨ててでも逃げることが最優先だった。

 鴉野の脳は、知識は、そう結論を出した。


 どれだけ殺したいと願っていても、怒りのままに飛び込みたいと思っていても、鴉野には力がない。ないからこそ実験をおこない、自分の武器を作ろうとしているのである。

 自分を冷静に見て、足りない部分を補えるというのは、充分に強いと言えるだろう。


 強いが――弱い。


 鴉野の強さは精神的なものであって、物理的な強さではない。

 多少の肉弾戦を得意とするが、それは研究者にしては――ということだ。


 普通の人間と戦ったところで勝てるはずもなく、

 異常を持つ少年と真っ向から戦ったところで、勝てるわけなどないのだ。


(どちくしょうが。今まで積み重ねてきたものが、一気に崩れ落ちやがった。

 だが、まぁいい。

 実験なんてのはすぐにでも作り直すことができる。

 人や機材を用意するのが多少面倒だが――それくらいの手間はかけてもいいか)


 今後の予定を考えていると、もうすぐ出口が見えてくるところだった。

 しかし、嫌な違和感に気づいた。

 おかしい。非常用の出口など、言葉通り非常事態でしか使わない。

 だからと言ってそこまでの通路を間違えるはずなどないのだが――、

 そもそもで一本道。迷うわけがないのだ。


(なんだ、この感じは……、真っ黒な、得体の知れない何かに足を突っ込むような感じ……、

 俺でも分かる。――気味が悪い)


 行きたくない。

 これは人間として本能が訴えていることだ。


 これ以上進めば、絶対に後悔するだろう。

 しかし行かないことには始まらない。

 ここから逃げるなんてこと、できないのだ。


 結局、どちらがいいか? に落ち着く。

 このまま常に流れ込む異常を受け切るか、

 それとも一回の得体の知れないものを味わって逃げるか、どちらかだ。


 考えている時間など鴉野にはなかった。

 答えは決まっている。進むしかないだろう。


 一本道。出口まで特になにもない。目に見える危険は、だが。


 見えることの全てが真実とは限らない。まったく、その通りだった。


「う、うぉおおっ!!」


 一歩一歩、力強く踏んでいた地面が唐突に崩れ落ちた。

 一本の足が取られてしまえば、片方の足も流れで取られてしまうのは必然だ。


 踏ん張ることなどできない。

 バランスを崩した鴉野の体は、ぽっかりと空いた真っ黒な穴の中へ、吸い込まれていく。


 伸ばした手は、穴の引っ掛かりに触れることができずに、空を切る。

 失敗。真っ逆さまに落ちていった。


 悲鳴が聞こえてくる。

 その声は段々と小さく、やがて消えてなくなった。


 落ちた先は普通に考えて地下だろう。

 施設の見取り図を見たわけではないが、地面の下は地下だ、というのは誰でも知っていることだ。この建物だけがまったく違う作りになっているとは考えにくい。


 地下に行ったとして、なぜ地面が唐突に崩れ落ちたのか。

 答えはいつの間にか、姿を現していた。


 真っ黒に支配されている穴を覗きながら、耳より少し長いくらいまで伸ばした金髪の髪の毛を指先でいじっている少女がいた。

 隣には黒髪の少年。どちらも子供。

 少なくとも、世間一般が認識している子供の枠には収まらないであろう二人だった。


「これでいいの? 

 地面を破壊して、今の人を地下に落としてほしいって――なんの意図があったの?」


 少女が聞いた。少女にとっては分からないことだらけだった。

 自分の力も、今の状況も、隣にいる少年の目的も。


 なにも分からない。

 自分は普通じゃない、というのは知っているし、研究員が自分のことをまるで化け物のように見ているということも知っている。

 なのにこの少年は、自分を見て怖がらないな――と、疑問だった。


「充分、上出来。言う事なしだよ。

 あとは……俺達は、逃げよう。説明は後だよ。今はやることをやらなくちゃ」


 少年は、少女が戸惑っていることを理解して尚、説明をしなかった。

 すれば長くなるし、したところで状況が変わるわけではない。

 ならばしない方が効率が良い。説明なんてものは、後になってもできるのだから。


 少年が少女の手を引く。

 すると少女が「待って!」と拒絶した。


「まだみんなが残ってる。助けに行かなくちゃ。

 短い間だったけど、あたしにとっては大切な友達だから」


「大丈夫だよ」


 少年がきっぱりと言った。

 自信満々に、根拠などなくても信じられるほどに強い口調で。


「俺達が来たからにはもう大丈夫。みんな、助かるからさ」


 ―― ――


 鴉野は痛む体を押さえる――、その前に辺りを見回した。

 まずは現状を把握する必要がある。

 落ちたことは確かであり、ここが地下だということも分かっている。


 不安があるとすれば、地下など一度も来たことがないために、どんな場所なのか分からないというだけだ。鴉野は立ち上がり、一歩目を踏み出そうとした――その時だった。


「よお。こんな実験をやってた、なんて全然気づかなかったぜ。

 灯台下暗しってやつかな、こりゃ」


 軽い口調だが、多少の苛立ちを含む声が聞こえた。

 それは男のものだった。


 白衣を着ていない、大人。

 それだけでこの研究施設の人間でないことが分かる。

 敵だ。ラインナップを逃がし、実験を潰しに来た、邪魔者だった。


「……何者だ、お前。実験を潰しに来たっつうのは分かってる。だが、理由はなんなんだ? 

 俺達は、お前みたいな研究という分野に関わっていない人間を敵に回すつもりはねぇぞ。

 敵として立ちはだかるであろう同類の組織には手を打ったからな」


 いま敵として目の前にいる男は――、本来ならば敵として立つ者ではない。

 それは組織として有利になるか不利なるか、都合が良いか不都合か、という視点から見ればということだが。しかし今、男は敵として立っている。

 理由はたった、一つだ。

 組織としてはまったく関係ない。ただの――感情だった。


「理由、ね」


 男は微笑しながら、言う。


「気に入らねぇだけさ。言ってしまえばそれだけのこと。俺の組織がどうだとか、そんなのは眼中にねぇんだ。俺はお前らがやっているこの実験が、ムカつくんだよ。

 しかも俺の庭で好き勝手しやがって。――出ていけよ。まだ猶予はあるぜ? 話し合いで済むならそれでいい。でもな、それで済まないっつうんなら、話以上の手に出るしかないよな」


 男の目が変わった。気に入らない奴を見る目ではない。

 ただの怒りの目ではなく――潰す、消す、そういう類の殺意が込められた目。


 感情が切り替わる。それは鴉野も同じだった。


「そうか。ここはお前にとって、大事な場所だったのか。それは悪かった――、

 だが、やめる気も出て行く気もさらさらないな。お前が俺をここから追い出したいように、俺にもやりたい事があるんだ。

 そっちがその気なら、こちらも、話し合いではない方法を取るしかないようだな――」


 言ってしまえば、鴉野に勝ち目はない。武器など持っておらず、完全に手ぶらの状態だ。

 だが、武器というのは目に見えるものだけではない。


「動くな」


 鴉野の声に、男がぴくりと微かに反応した。



「動けば死ぬぞ」


「はったりだな」

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