人形

増田朋美

人形

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春と言ってもとても暖かくて、まるで夏みたいな日が続いていた。これは何かの前兆だろうかと気にする人は気にするが、そんな中でも、若い人たちは何処かへ出かけてしまうし、お年寄りたちは、今は怖いと言いながら、ぼそぼそと愚痴を漏らし続けるばかりだった。

その日、杉ちゃんと蘭はいつも通りにスーパーマーケットに買い物に行き、帰りに櫻でも見にいくかということになって、富士川の土手を歩いてた時の事であった。もうほどんどの櫻は散ってしまっていたけれど、まだ若干花が残っていて、二人が十分たのしむことは出来た。

そのうち、12時を告げる鐘がなったため、杉ちゃんと蘭は、カフェでも行くかということにして、富士川の土手を移動していたのであるが、ちょうど富士川橋の下に来たとき。

「おい、あれ、人形じゃなくて、人間だよな。なんで橋の下に寝転がっているんだろう。」

と、杉ちゃんがいう通り、富士川橋のすぐ下で、人が倒れているのが蘭の目にもみえたようである。杉ちゃんたちは、急いでそのそばに行ってみた。確かに人が倒れていて、しかも女性であった。それになぜかわからないけど、彼女は靴を履いていなかった。蘭が警察に通報した方がいいと、急いでスマートフォンをとると、杉ちゃんが、

「ちょっと待って!まだ息がある!」

とデカい声で言ったため、蘭は警察よりも救急車を呼んだ方が良いとわかり、急いで119番通報をした。数分後に、救急車がやってきて、彼女は病院へ運ばれていった。

「はあ、良かったね。後はあの女性が何とかなってくれればいいけど。靴を履いていなかったから、おそらく自殺だと思うよ。まあ、これに懲りて、二度としないでくれることを願おう。」

「それにしても、僕たちは、警察の邪魔にならないように、早く帰ろうよ、杉ちゃん。」

蘭はそういって、杉ちゃんと一緒に、車いすを動かして、急いで自宅へ帰っていった。

それから数日後の事である。杉ちゃんと蘭がいつも通りの定期的な通院のため、市民病院を訪れていた。二人が処方箋を受け取って、薬局へむかおうと、病院の廊下を歩いていた時の事。医師と見られるひとりの男性と、白い十徳羽織に紺の着物を身に着けた男性が、何か話しているのがみえた。

「あ、あれえ、もしかして影浦先生じゃないですか?」

と、杉ちゃんがそういうと、

「こんな所でどうしたんです?」

と、影浦千代吉先生が言ったので、杉ちゃんたちは単に車いす用の廊下を通って、薬局へ行くだけだと答えた。

「ああそうか。車いすの方はこちらを通るんですか。ここでは誰も通らないと言われましたけど、そうでもないんですね。」

影浦は、医師の男性に言った。

「それより、お前さんたちは何を話しているんだ?何だかとても楽しそうには見えないけど?何か極秘のお話しでもあるのかい?」

杉ちゃんに言われて、影浦も杉ちゃんからの質問には答えを出さないといけないことを知っていたので、

「ええ、なんでもここの女性患者さんを、僕の病院で引き取ってくれという申し入れがありました。ただ、そういう患者さんの中で、医学的に援助が必要なのは、ほんの一部の人だけで、実は原因さえ解決してくれれば、何も問題はないというひとが本当に多いのです。なるべくなら、僕たちの病院へ送って来ないでもらいたいんですがね。精神科にはいるということは、経歴に傷がつくことでもありますからね。」

と、概要を話してくれた。

「そうなんですね。じゃあ、その女性の名はなんて?」

「ええ、石井淳子さんです。なんでも、先日富士川橋から自殺しようとして飛び降りたそうですが、運よく一命をとりとめましたし、後遺症もありませんでしたが、彼女はそれを喜んではくれませんでね。怪我も良くなって、持病も治癒して、それでも死にたいと口走る事から、僕の病院に入れてくれと先生から申し入れがあったんですよ。ですが、結論としては、病院はすでに同じようなことで収監されている患者さんがたくさんいて、空いている部屋などございません。」

杉ちゃんがいうと、影浦は即答した。医師の男性はがっかりした表情を見せた。

「それだけは仕方ありません。うちの病院も、そちらからの患者さんを受け入れてばかりいては、パンクしてしまいます。」

と、影浦がいうと、

「そうなんですけどね。我々のことも考えてください。我々も彼女を引き取ってくれと彼女のご両親に何回も言っていますが、受け取ってくださらないので困っているんですよ!」

と、男性医師がそういうのだ。確かに彼女はかわいそうな存在なのかもしれなかった。そうなると、生きていながら何処にも行くところがないということなのだ。

「そうですか。それでは、何処かで女中さんを探している所を探してみたらどうでしょう。もしかしたら、家事のスキルが在れば、それで働くことができるかもしれませんよ。今は、そういうことしかできないとしても、十分仕事になる時代でもありますよ。」

蘭はその女性がかわいそうになり、思わずそういってみた。

「そうですねえ、、、。ですが、彼女の経歴というのが問題でありましてね。」

と、影浦が思わず言った。

「はあ、何か問題があるんですか?」

と、蘭がいうと、

「はい、彼女は、富士市内の女郎屋で働いていました。いわば、サロンと言われるようなそういうところです。建前上は飲食店ですが、実は裏で売春が行われていたそうです。彼女がここへ運ばれてきた時、救急隊員から、肘にブニャとしたこぶがあったことを聞きました。つまり、彼女は、梅毒に罹患していたというわけです。まあ幸い、現代の医学では、治療は難しくないんですが、そういうことがあった女性となりますと、雇ってくれる所も難しいのではないでしょうか。」

と、影浦が言った。

「はあ、でも、梅毒を怖がっていたのは、フランツ・シューベルトが生きていた頃の事で、僕たちの時代ではないよねえ。そこら辺をちゃんと分かってくれるところだってあると思うんだけど、確かに一般的に言ったら、必要以上に怖がる人もいるよねえ、、、。」

と、杉ちゃんは腕組みをした。

「ですが、そういうことがあったとしてもですよ。彼女だってせっかく命が助かったわけです。ですから、生きた方が良いという意味で、彼女を生還させたのでしょう。ただ生かしておくだけの人生ではかわいそうすぎます。それを何とかしてあげることこそ、僕たち社会の務めじゃないかな。」

蘭は杉ちゃんに言った。

「ほんなら、蘭の家で女中さんとして雇っても良いと思うが、それではまずいのかな。」

と、杉ちゃんがいう。

「ああ、そうですね。蘭さんの家で雇ってくれるなら、彼女も喜ぶと思います。彼女は女郎として

働いて居ましたので、美術の知識はほとんどありませんが、勤勉な性格なのできっと役に立ってくれますよ。まあ、少し病的な辛さも抱えていますので、扱いは少々難しいと思いますが、そこは蘭さんが我慢してくれれば。」

影浦先生もそういうことを言った。それならそうしようと、杉ちゃんも医師の男性もあっさり決めてしまった。蘭は、彼女の意思を聞かないくて良いのかと聞いたが、そんなことはまるで無関係なような感じで、杉ちゃんたちは勝手に決めてしまった。まるで、人間じゃなくて、ロボットを購入する時のようだった。

さて、それから数日後の事。

蘭の家の壁掛け時計が九時を告げると、インターフォンがピンポーンとなった。

「はいはい、どうぞ、お入りください。」

と、蘭がいうと、玄関のドアがガチャリと開く。蘭は急いで車いすを動かして、玄関先に移動した。すると、髪を赤く染めた、若い女性がそこにたっていた。今はまだ長そでの季節だから、腕がむき出しになることはないけれど、手首に痘痕があったので、やっぱり梅毒を患ったんだと分かる人だった。

「あ、あの、伊能蘭先生のお宅でしょうか。」

と、彼女は言った。

「ええ、僕ですが?」

と蘭がいうと、

「はい。私、影浦先生から、こちらで働かせて貰うようにと言われて参りました。メイドとして。名前は石井淳子と申します。」

と、彼女は答えた。何だかひどく緊張しているような口調であるが、蘭は悪い人ではないなと確信した。

「ええ、来ていただくことは、影浦先生から聞きました。じゃあ早速、うちの庭の掃除をしてもらおうかな。」

と、蘭は言った。

「僕は、こういう人間ですから、掃除とか、そういうことがなかなかできないんですよ。」

「はい。分かりました。」

と、彼女、石井淳子さんは言った。直ぐにお邪魔しますと言って、彼女は部屋にはいり、廊下を歩いて、蘭の家にはいった。

「ずいぶん綺麗なお家なんですね。まるで、刺青師の先生のお宅とは信じられない。」

という彼女に、

「刺青師は、職人気質の気難しい方ばかりではありませんよ。掃除用具は台所にありますから、自由に使ってくれて結構ですよ。」

と蘭はにこやかに言った。

「ありがとうございます。じゃあ、竹ぼうきと塵取りをお借りします。」

彼女は、台所の掃除用具入れから、竹ぼうきと塵取りを借りて、蘭の家の庭に出て、落葉を掃きはじめた。蘭は心配になって見にいったが、彼女はしっかりと箒を操作して落葉を掃いている。

「そんな、心配しなくて結構ですよ。あたし、こう見えても、女郎時代、店の掃除とかやってたんですから。」

と、彼女はにこやかに笑ってそういった。

「そうなんですか?」

と、蘭がいうと、

「ええ、女郎と言っても、ナンバーワンの方とは全然違いますから。下働きもやってました。先生、今日はお客さんは見えないのですか?」

そう彼女はいう。

「はい、10時にお客さんがみえます。まあ、僕も体力的な問題があって、ひとりか二人しか相手に出来ません。それに、僕は、手彫りしかできないのでね。機械彫りですと、沢山の人を相手にできますが、手彫りでは、その三分の一も相手に出来ませんよ。」

と蘭は答えた。

「そうですか。でも、私は機械彫りというものは外国からはいったものですし、日本独自の手彫りのほうが長らくやってきたものですから、そのほうがいいんじゃないかと思います。伝統的な物は変わらないでいてくれるのが、そのほうが良いと思います。」

そういってくれる彼女に、蘭は、そうですねと言って、一寸ため息をついた。

「そういってくれてありがとうございます。最近は手彫りの好きなお客さんも大幅に減りましたし、手彫りで彫る刺青師もなかなかいなくなりました。機械彫りで当たり前だという刺青師もいます。でも、機械彫りがはいってきたのは、まだ、100年もたっておりません。だから、当たり前という言葉はまずいと思うんですがね。」

「いいえ、先生は、ちゃんと日本の伝統を守ろうとしていらっしゃるんですから、それはすごいですよ。」

と言って庭掃除をつづける彼女を、蘭は何処かで彼女が活躍してくれる場所はなかったのか、切なくなった。

「おはようございます。すみません。一寸早いですけど、来させていただました。」

蘭の家のインターフォンがなった。多分最初のお客さんだろう。蘭は急いで玄関先に行き、彼女を向えに言った。

「はい、前川亜紀さんですね。今日は、何処をつきましょうか?」

と蘭は、彼女を仕事場に招き入れて、彼女に作業台の上にうつぶせに寝てもらった。彼女の腰には、かわいらしい薔薇の花の絵が入れてあった。

「はい、前回お花をついていただいたので葉をつけてください。」

という亜紀さんに、蘭は分かりましたと言って、針と鑿を丹念に消毒して、葉の部分の筋彫りを始めた。針を刺すとなると、ずいぶん痛そうな顔をする亜紀さんであるが、蘭は淡々と彫っていく。亜紀さんも、新しい自分になるんだといって一生懸命耐えていた。

「さて、二時間たちました。今日は、ここまでにしましょう。次回葉の部分を、色入れします。ゆっくりやっていきましょう。急いで入れたら、刺青がダメになります。」

とりあえず、蘭は葉の部分の筋彫りを完成させた。

「ありがとうございます。私、絶対半端彫りはしたくありませんので、二週間後にまた来ます。」

と、亜紀さんは、にこやかに言って、洋服を着用しなおした。

「先生、これ、今日の施術料金です。一時間一万円で良かったですよね?」

亜紀さんが、そういって、鞄の中から財布を出して、二万円を取り出し蘭に渡した。

「はい。それで結構ですよ。それ以上に値上げすることはありませんから、大丈夫です。それより、前川さんは、平気な顔をされていますが、結構痛みには強かったんでしょうか?」

蘭がそういうと、

「ええ。私は、学校でいじめられた時のことを考えれば、大丈夫です。その時の苦しみと、刺青を入れる時の苦しみ何て、比べようがないじゃありませんか。だって、新しい自分になれる苦しみなんですから。それは、痛いと嘆くべきではなく、喜ぶべきだと思います。」

亜紀さんはにこやかに笑ってそういうことを言った。

「そうですか。僕も、そういうことを言ってくださるなんて、嬉しく思います。この仕事をやっていて、本当によかったと思える瞬間です。」

蘭はにこやかに笑って、彼女にそういった。彼女もそれをしてもらえて喜んでいるようだった。蘭は領収書を彼女に渡した。

「じゃあ、次回は二週間後の今日でよろしいですか?先生のお時間に私なるべく合わせますが。」

と、彼女は手帖を見ながらそういうと、蘭も、

「ええ、大丈夫ですよ。予定は特にありません。その日の同じ時間で予約をしておきますか?」

と、壁にかかっているカレンダーを見ながら言った。

「それなら、その日で御願いします。」

と、にこやかに笑って彼女もそういったので、蘭は10時、前川亜紀さんとカレンダーに書き込んだ。

「それでは先生。今日はありがとうございました。次回もよろしくお願いします。」

と、亜紀さんは鞄をとって、軽く一礼して、玄関先へ向った。蘭も見送りに行くため、そのあとをついていった。

「ありがとうございました。先生、次回もよろしくお願いします。」

亜紀さんは、玄関ドアを開けて一礼し、蘭の家を出ていった。それを、庭を掃除していた、石井淳子さんがうらやましそうに眺めていた。

「どうしたんですか?そんな顔して。」

蘭は淳子さんに聞いてみる。

「いえ、ちゃんと庭掃除はやっておきました。すみません、さぼっていたわけではありませんから。」

と、彼女はいうのであるが、

「なにかわけがあるんでしょう?」

と蘭は聞いた。

「何かあるんだったら、頭の中でとどめておかないで、話してしまった方が良いと思いますよ。人間、そういうことを黙っているのが一番悪いって、聞いたことありますから。」

「そうですね。ごめんなさい、雇われた立場なのに、聞いていただけるなんて。さっきの女性が、刺青をしてもらってすごく楽しそうだったから、うらやましいなと思っただけです。あ、先生に彫ってくれと頼んでいるわけではありません。一度性病かかってますし、そういう人間に施術は先生も、できないですよね。それは、分かってますよ。ですが、なんというのかな、できない望みというのは、やっぱりうらやましくなっちゃうのが、正直な所かな。」

と、申し訳なさそうに彼女はいうのであった。蘭は、そういう彼女にある人物の抱えている事情が重なって、何だか複雑な気持ちで、目の前がみえなくなってしまったような気がした。

「確かに、それはよくわかります。僕たちの間でも、そういうひとには彫ることができないことになっています。」

蘭はとりあえず事実だけ述べておく。確かに幾ら化学療法が普及したと言っても、梅毒に罹患した人物に施術することは、少々危険な事でもあるから、してはいけない事であった。

「そうでしょう。だから言っても無駄なことは分かるんですけど。なぜかどうしてもうらやましいという気持ちは取れません。確かに、女郎屋で働いていたんだから、自業自得かもしれませんが、、、。ごめんなさい。こんなこと話しても仕方ないですね。」

と、いう彼女に蘭は、こういう時こそ、何か言ってやりたいと思ったが、自分にはどうしようもないことにも気が付いた。

「そうですか。病院にはちゃんと行っているんですか?」

代わりにそういうことを聞いてみる。

「ええ。まだ、薬をいくつか飲まなければいけないんですが、それだけは忘れないように、しています。ですが、私、何の価値があるのかな。何も価値がないことは、女郎屋を首になった時に知りました。だから、もう私なんてと思ったんですけど、結局こうなっちゃって、又、人生やらなきゃいけないんですよ。死ねた方が、ずっと楽だったのに。」

と、半分涙をこぼして彼女は泣くのだった。蘭は彼女をどうやって励ましてやったらいいのか分からずに、その場で黙ってしまったのであった。

しばらくするとインターフォンが五回なった。この鳴らし方は、間違いなく杉ちゃんである。

「おーい、蘭。買い物行こうよ。お前さんの仕事はもう終わっただろ。」

デカい声でそういう杉ちゃんに、蘭は、今行くよと言って玄関先に向おうとした。と、同時に、杉ちゃんのほうは、もうどんどん部屋の中に入ってしまっていた。

「杉ちゃん、勝手に入ってこないでくれよ。床が汚れるじゃないかよ。」

と蘭は言うが、

「何を言っているんだ。お前さんのほうが、ちっとも返事をしないからはいってきたんだ。」

と杉ちゃんがいうので、そうだったんだということが分かる。

「で、お前さんは何を悩んでいるんだよ。そんな深刻な顔をして。新しく、庭掃きを雇ったそうじゃないか。そいつと何かトラブルがあったの?」

杉ちゃんに言われて蘭は、もう杉ちゃんには叶わないと思い、先ほどのことを話してしまった。

「そうかそうか。それなら、その庭掃きに、うちの庭を綺麗にしてくれてありがとうと、感謝の意をしめしてやることだね。それがお前さんにも庭掃きにも、できることじゃないの?そうすることで人形から人間になっていくんじゃないの?」

「そうか。そういうことか。」

と、杉ちゃんにいわれて、蘭はそう思うことにした。そして、今から買いものに行くから手伝ってくれ、と、石井淳子さんにいうために、車いすの方向を変えた。

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人形 増田朋美 @masubuchi4996

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