第36話 越えた壁

 動きは二人、同時であった。

 見ている者がいれば、そう判断しただろう……しかし、実際は、微かな差ではあるが、東の方が動き出しが早かった。

 動き出し、すぐに東は真上に飛び、上から叩きつけるようにして、刀を振った。鞭のようにしなる刀身——明日希の脳天を貫こうと迫る。

 けれど、明日希はそのしなる刀を、見てすらもいなかった。


 視線は刀に向いているようで、しかし、向いていない。


 刀など一切、眼中になく、ただ、東だけを見ていた。


 東だけを見ていれば、それ以外はどうでもいいと言うように。


 明日希の脳天を貫こうと進む切っ先は、真っ直ぐに進んでいたのだが、明日希の様子に驚いた東の心の動きに、敏感に反応し、数ミリだけ、目標からずれることになる。

 その数ミリのずれと、明日希の無意識の『避けるため』の動きで、脳天を貫こうとしていた切っ先は、頭を通り過ぎ、顔の皮膚を僅かに斬っただけで、攻撃は終わりを迎える。


 本来、残すはずだった傷は、地面が肩代わりしてくれたようだ。

 切っ先は、深々と地面に突き刺さっている。


 切っ先を見ていなかった明日希にとっては、偶然の幸運だった。斬られた頬から血が流れているが、気に留めることはない。明日希は、空中にいる東に手を伸ばす。


 明日希の手が、東の胸倉を掴み――ぐんっ、と。

 重力の数十倍の力で引っ張られた東は、地面へ思い切り叩きつけられた。

 しかし、刀だけは離さない……しっかりと握る。

 地面との接触の際に、なんとなくの直感で、無造作に刀を振った。


 刀は、明日希の足首を斬り――、しかし、落とすまではいかなかった。

 明日希の反応という壁が、成功への邪魔をした。

 東は決して、手加減をしたわけではない。

 気持ち的には、明日希の足を、本気で斬り落とそうと思っていた。


 加減など、できるはずもない。

 する余裕など、微塵もないのだ。


「……ちっ」

 舌打ちし、東は、明日希から距離を取る。


 鞭のようにしなるその刀は、近距離よりも中距離に向いているような武器だ。

 なので、距離を取ることは、逃げるにしても、攻めるにしても、両方に良い意味を持つ。


 それとは逆に、明日希は素手の戦いだ。

 武器もなにもない明日希は、相手の懐に入るしか攻撃方法がなかった。入らなければ、勝ち目すらないはずなのだが――けれど明日希は、距離を取った東に近寄ろうとはしなかった。


 その場で立ったまま、東の攻撃を待っている。


 後手に回っていた。


「――気に喰わないな……、なぜ責めてこない……。後手に回ることで、カウンターを狙っているというのなら、そういう戦い方だと俺は分かるはずなんだけど……。

 今のお前には、カウンター攻撃を企んでいる匂いが、まったくしない。お前、そもそもで、戦う気があるのか? ひょっとすると、勝つ気なんてないんじゃないのか? 

 ――メモリを守るために、俺を倒すようなことを感じさせながら、

 まったくもって、そんなことを思っていないんじゃないのか?」


「なにを――」


「お前は飄々としているが、

 でも、お前が一番、芹菜の事件から前に進めていないんじゃないのかよ……っ」


 その、東の言葉に。

 明日希は、心臓が握り潰されたような表情をした。


 そして、その表情は、あまりにも、似ていた。

 似過ぎていた。

 あの時がもう一度、繰り返されたのかと思ってしまうほどに。

 その明日希の表情は、一年前の、芹菜が轢かれた時とまったく同じ表情をしていた。


 瓜二つのレベルではなく。


 まったくの、同一なのだ。


「お前は止まったままなんだ。

 だからこの戦いでも、お前は後手に回っているんじゃないのか? 

 心の問題ってのは体に影響を与えるし、行動というのは、心の本音をそのまま示してしまう。

 俺を倒そうとしないということは、お前はまだ、縛られたままなんだよ。

 芹菜の罪を、自分自身で重く捉え過ぎなんじゃないのか?」


 その罪を押し付けていたのは東自身だというのに――、しかし、そんなことなど、なかったことにして、東は言う。罪だ、罰だ、と押し付けるような復讐に燃える、もう一人の自分との決別をしている東としては、いくらでも言えることなのだ。


 復讐に憑りつかれているもう一人の東は、もういない。

 今、ここにいるのは、芹菜の死を乗り越え、前に進んだ東である。


 だから、いくらでも言える。

 今になっても自分を責め続ける明日希には、いくらでも文句が言えるのだ。


 すると、


「――重く、強く捉えるのは、当たり前だろうが……っ。

 ――自分を責めるに、決まってんだろうがッ!」


 明日希が、そう吠える。

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