第33話 引き金 その1

 マスターの沈黙に、もしかしてまずいことでも聞いてしまったのか、と、またもや不安になるメモリだった。マスターが気分を害するようなことではないとは思うけれど……しかし、メモリは慎重にいかなくてはならない道を、容赦なく、アクセル全開で突っ切ってしまったのではないか――などと、見当違いな罪悪感を抱いていた。


 マスターに見放された場合、ここから先の行動は、真っ暗な闇の中を、明かりを持たずに進んでいくのと同じことなのだ。そうならないためにも、メモリは自分の問いに訂正と否定の言葉を入れようしたけれど、


「ああ、別に不機嫌になったわけじゃない。考えていただけさ。少し、見覚えがあったからな」


 だが、マスターはそう言って、メモリの言葉を、言う前に遮った。


 不安から抜け出し、安堵の息を吐くメモリは――そして、続けて聞いた。


「見覚えがあった……の?」


「ああ。明日希が騒ぎを起こしたことによって、向けられる恨みが増えていることを考えれば、『あいつ』の可能性もなくなってくるんだが……、しかし、お前が言う『強い殺意』ってのは、そうそう見れるもんじゃない。恨みを持っていたとしても、その恨みを晴らすために、近づくために、多少は抑えるもんなんだがな。

 けど、そいつはそんな小細工をしていなかったってわけか。となると、恨みを抑えなかったとしても、近づくことだけを目的とすれば、関係ない奴ってことになるんだが。

 ふうん――、『あいつ』、戻ってきてたのか」


 自分に話している、と思っていたメモリであったが、どうやら途中から、マスターが自分の世界に入ってしまたために、メモリに話しているわけではない、ということを理解する。

 自分で自分に話しているような。

 自問自答を繰り返しているような……。

 それに気づいたメモリは、マスターの答えが出るまで、ゆっくりと待っていることにした。


 すると、


「恐らく、明日希を襲ったのは『域波東』って奴だ。俺の教え子で、明日希の親友。……そいつは、明日希と椎也と共に、街の不良たちをかき集めて作ったチーム『我武者羅がむしゃら』の副リーダーだ。だから、明日希にとっては、右腕のようなものなんだが……」


 マスターはそう言って――だが、そこで言葉が止まる。


「……親友だったのに、今は戦っているの? 喧嘩を、しているの?」


 マスターのことを見上げ、メモリが問いかける。


「長い長い喧嘩だ。と言っても、一年くらいのものだから、長い短いは、個人的な感覚になっちまうけど。でも、長い戦いだろう。長くて、本人たちの方が嫌になるほどの、喧嘩だろうよ」


 一年前までは、仲が良かった。


 なのに、親友と呼べる仲間と喧嘩をして、しかも、それが一年もの間、ずっと続いているというのは、精神的にきついものだろう。

 忘れたくても、忘れられない。いや、忘れてはならないことだろう。


 それを、自分を救って、しかも記憶を取り戻すことにまで協力してくれている明日希が、味わっているのか……。なにやってんだ、他人よりも自分のことを考えろ――と、本人を前にして言いたくなったメモリだったけれど、


 だが、言って、どうするのだろうか? 


 言ったところで、なにかが変わるのだろうか? 


 変わる! なんて無責任な言葉は、吐きたくない。というか、メモリが言ったところで、現時点での問題を再認識させるだけで、問題の解決には、向かうことはないだろう。

 ――余計な言葉で片付いてしまう。


 メモリでは、なにもできない。


 よく知らないくせに、なにを言っているのか。そう言われてお終いである。

 ならば――、


「マスター。明日希と、その親友の人との喧嘩の原因を教えて。

 ――全てを知れば、私も、明日希に言えるようになる。

 ――助けることができるようになるっ!」


 メモリは言う。

 マスターの目を、真っ直ぐに見て、逸らすことなく。


 コミュニケーション方法に、問題を抱えているメモリではある。しかし、今回はしっかりと、コミュケーションが取れていた。

 それは、マスターも同様に。しっかりと、メモリを見つめ返していた。


「そうか……」

 呟くマスターは、メモリの前に、コーヒーを置く。

 そのコーヒーは、苦過ぎて、メモリではとても飲めないものだ。


 それを見て、疑問に思うメモリ。

 断ることもできず、そのコーヒーを受け取る。

 気づけば、コーヒーが二つある状況になっていた。


 一つは、甘いコーヒー。

 一つは、苦いコーヒー。


 そして、メモリは、二つのカップを持つ。


「これから、一年前に起こった、明日希と東、そして、その周りの雰囲気をがらりと変えた、『悲劇』を話す。それを聞いて、そして、自分で明日希を変えられると思ったら、苦い方を飲め。――困難を選べ。そして、できないと思ったら、言うまでもないか」


 ごくりと、唾を飲み込むメモリは、二つのコーヒーを見比べる。


 右が苦く、左が甘い。

 二つは、色がまったく違かった。


 苦い方は、真っ黒で、これから先の困難さを表現しているようだった。飲むことを、躊躇ってしまうような黒さだ。だが、メモリはここで、カップを手から離すことはしなかった。話を聞いていないし、自分でどうにかできるかもしれないということを、まだ確認していない。


 どうにかできる。

 どうにかしたい。


 そう願って、メモリは頷く。

 マスターの話が、始まる。


 ―― ――


「域波芹菜という少女がいた。

 その少女は、この『澱切』という街の、花のような存在だった。街のみんなからは、漏れなく愛されていて、人望が厚かったんだ。芹菜は街の問題児である明日希と東――東の方は、芹菜の実の兄なんだが――の二人のことを、だらしないな、と呟きながら、必死に面倒を見ていたんだ。仕方ないな、と言いながらも、嬉しそうにしながらな。

 明日希と東からすれば、余計なことかもしれないが、でも、本気でやめろとは言わずに、ずっと、芹菜の面倒見に付き合っていた。あいつらも、あれはあれで、本気で嫌がっていたわけじゃなかったんだろう。少し照れ臭かっただけなんだろう。

 それのおかげか、芹菜は街の問題児の世話をしてくれている、優しい少女、と街のみんなに定着していったんだ。あれだ、泥の中心にある花は綺麗に見えるってもんなんだが、だからと言って、芹菜が普通の花の中にいたら埋もれちまうってわけじゃなくてな。

 あいつは、花の中でも綺麗に輝くほどに、素材が良いんだよ。他を圧倒できるほどに、元々から良い素材が、明日希と東のおかげで、さらに磨きがかかったようなもんだ」


「…………」


「明日希たちが問題を起こして、芹菜が叱りにいく――。その光景は、毎日のように見れたことだ。それはもう、十年もずっと、見続けていたことなんだよ。子供の時は、容赦なく全員平等に叱ってた芹菜だったんだがな。まあ、どんどんと成長していって、思春期ってやつに到達するわけだ。そして、好きという感情を知って、恋を知る年頃になってくる。

 それからだ。分かる奴には分かる、なんて程度じゃなく、完璧に、芹菜は明日希に惚れていたな。明日希と東と芹菜はいつも一緒で、他のメンバー――たとえば、椎也とか錬磨とか菊乃とか……。ああ、メモリは知らないとは思うが、そういう登場キャラもいたんだ――が加わることもあったが、いつもの三人一緒の時間ってのが多かったんだ。

 明日希が気づいていたのかは知らないけど、芹菜は明日希にだけ、態度が変わっていた。見ているこっちがドキドキしちまうくらいだったよ。あの楽しそうな、でも恥ずかしそうな顔はさ。

 まあ、三人一緒にずっといて、片方は兄貴だってんなら、明日希に惚れるってのは自然なのかもしれないが」


「…………」


「明日希も、まったく気づいてないってことはないと思う。気づいていたと思うし、気づいたけれど、どうすればいいのか分からなかったんだろう。一度、俺のところにも相談にきたんだ。まあ、その時はさり気なく、明日希自身が持っている感情を理解させようとしたんだが、あいつは恋を知らない。だから、気持ちってのも伝えられなかったんだと思う。

 好きだと言っても、それは恋愛的な意味ではなく、友達としてだったんだろうしな。普通なら、明日希の鈍感さには呆れるばかりだが、でも、芹菜はそんな明日希でも、抱く気持ちは変わらなかったらしい。好きなまま、さらに好きになり、ずっと、待っていたんだろう。

 きっと、恋というものを分かってくれると信じて。

 いつまでも待っていようと、明日希の隣に居続けたのだろう」


「…………」


「東の方としては、兄貴だし、妹の感情に文句をつけることができなかったのだろうから、特になにも言ってはいなかった。表にはまったく出さずに、しかし、認めてはなさそうだったけどな。でも、好意を寄せる芹菜と、それに違う意味で答えている明日希を見て、微笑んでいた。

 普通の兄貴なら、随分と気持ち的には楽だったんだろうけどさ。東はシスコンなんだよ。芹菜が好きなんだ。妹として、一人の女として。渡ってはいけない橋ではあるが、人の人生だ。最終的にはそいつが決めることだ。

 東は、その橋を渡ることを、必死に堪えていた。たぶん、明日希を何度も何度も、殺そうとでも思ったんだろうけどさ。あいつも、心の奥では認めていたんだろう。

 自分たちのチームのリーダーだからな。芹菜を任せられると、思っていたのだろう」


「…………」


「そして、そのまま時が過ぎ――、

 明日希は恋を知り、芹菜が、明日希に気持ちを伝えて……明日希がそれに、答えを出す。

 イエスでも、ノーでも、どちらでも構わないけど、そういう展開になれば、一番良いはずなんだけどさ。――そう上手くはいかないんだよ、人生ってのは。

 誰かの悪意が絡んでいるように、くっつきそうだった人と人の気持ちは引き裂かれ、砕かれて――修復不可能に限りなく近い状態にまで、落とされた。

 ――それが、起こった『悲劇』だ」


「…………」



「車に轢かれそうになっている明日希を、自分の身を犠牲にして、芹菜が助けたんだ」

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